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世耕弘一先生の請川村村長宛の書簡

昭和28(1953)年紀伊半島大水害の復旧に関連して

和歌山大学客員教授(災害科学・レジリエンス共創センター)
元 近畿大学附属新宮高等学校・中学校校長
後 誠介

はじめに
 役場文書として保存される史料から、世耕弘一先生の書簡が見つかった。昭和28(1953)年紀伊半島大水害(紀州大水害、7.18水害ともいう)の復旧に関連して、被災地の村長宛に発出された複数の書簡である。衆議院議員をされていた世耕弘一先生としては、代議士としての活動であるとともに、故郷である熊野川流域の復旧と防災対策に心を痛められたものでもある。
 ここでは、これらの書簡が発見された経緯、書簡の背景となる紀伊半島大水害の概要を述べたうえで、世耕弘一先生の書簡について報告する。

1.書簡が発見された経緯
 文化庁の補助金事業にもとづいて、平成26(2014)年度から和歌山県立博物館施設活性化事業実行委員会が『地域に眠る「災害の記憶」と文化遺産を発掘・共有・継承する事業』に取り組んできた。この事業は、和歌山県内の市町村にある「災害の記憶」となる史料を調査するとともに、その成果を公表するというものであり、筆者(後)も一部担当してきた。補助金事業は令和3(2021)年度をもって終了したが、和歌山県立博物館や和歌山県立文書館を中心とするメンバーによって、調査と成果の公表は継続された。この継続された調査によって、「請川うけがわ村役場文書」(田辺市教育委員会所蔵)から、世耕弘一先生の複数の書簡が発見された。これらの書簡については、報告会「歴史から学ぶ防災2023」(開催:令和6年3月2日、会場:田辺市文化交流センター)において、西山史朗氏(和歌山県立文書館文書専門員)によって報告された。
 その後、この書簡は広報室建学史料室に収集されていないことが判明したため、請川村役場文書が保存される田辺市本宮行政局を訪れ、書簡の確認とデジタル画像による保存をはかったものである(写真1)。この調査は、冨岡勝教授(広報室建学史料室研究員)、武田美紀(広報室建学史料室課長補佐)ならびに筆者(後)が、令和6(2024)年5月27日に行った。

写真1 請川村役場文書(田辺市教育委員会所蔵)


2.昭和28(1953)年紀伊半島大水害の概要

(1) 気象と被災の概要
 紀伊半島は水害の発生頻度の高い地域であり、とりわけ明治22(1889)年8月の大水害、昭和28(1953)年7月の大水害、そして平成23(2011)年9月の大水害は、広範な地域で甚大な被害が発生した大水害として、多くの慰霊碑・水位碑、記録文書、調査報告が残されている。明治と平成の大水害は四国をゆっくりと北上した台風に伴う豪雨災害、昭和の大水害は停滞した梅雨前線に伴う豪雨災害であった。
 昭和28(1953)年の梅雨前線は断続的に不安定な状態をくり返し、6月から7月にかけて、九州北部から東海地方の各所で大雨を降らせていた。7月16日から日本海をゆっくり東進する低気圧があり、南の海上から湿潤な大気が供給されたため、停滞した梅雨前線が活発化し、17日朝から強い雨となり、18日未明の数時間に雷を伴う極めて激しい豪雨となった。雨量は貴志川、有田川、日高川、南部川の上・中流域で多くなり、これらの流域に甚大な被害をもたらした。また県境を越えた奈良県側でも豪雨となり、これが奈良県南部を源流域とする熊野川の氾濫へとつながった。
 この豪雨に伴って、和歌山県内だけでも死者615人、行方不明431人、重軽傷6,600人余、全壊・流失家屋8,600棟余、被災者総数25万人という大被害となった(『和歌山縣災害史』、1963)。
 また、復旧途上の同年9月25日、台風13号が潮岬の直近を北東に進み暴風雨となったため、7月大水害後の応急復旧工事のほとんどが破壊され流失したのみならず、新たに大きな被害が発生することになった。
 昭和28年紀伊半島大水害については、災害/NHKアーカイブスにおいて、「南紀豪雨」のタイトルで動画(6分間余り)が公開されている。
1953年 南紀豪雨|災害|NHKアーカイブス

(2) 熊野川流域の被災の概要
 当時の熊野川は、山で切り出した材木を流して各所で集積しつつ、河口まで流し出す搬出路の役目を果たしていた。このため河川の増水に伴って、集積された多量の材木が流木となって流れ下り、家屋や橋梁を破壊・流失させたほか(写真2)、橋梁に引っ掛かって川を堰き止め、氾濫や破堤の原因となって、被害を大きくした。

写真2 多量の材木と流失する家屋(請川村;『和歌山懸災害史』、1963)

 世耕弘一先生のご出身地である敷屋しきや村(現在の新宮市熊野川町西敷屋)では、村役場・村診療所が全壊し、小学校と中学校の校舎がともに大破した。小学校校舎では午前7時過ぎに床上浸水となり、その後も水位は急上昇を続け、濁流の中に校舎の屋根を残すのみとなり、流れてきた民家5戸が校舎の屋根に引っ掛かり、午後2時半から水位が下がり始めると、午後4時過ぎに校舎が傾き始め、その後に倒壊したと記される(『熊野川町史 通史編』、2008)。流れてきた草が道路沿いの電柱の先端に引っかかり、一部の電柱が傾いた敷屋村内ノ井地区の写真が残る(写真3)。『熊野川町史 通史編』には、最高水位は13mに達したと記される。

写真3 先端にゴミが引っかかる電柱(敷屋村;『和歌山懸災害史』、1963)

 請川村(現在の田辺市本宮町請川)では、世耕弘一先生が高等小学校として学ばれた請川小学校校舎が全壊した。この水害の水位は、請川の「祐川寺」山門の石段に水位碑として残され、国道168号が深さ2.5m余りも冠水したことを示している(写真4)。

写真4 洪水の水位碑 請川の祐川寺山門の石段

 本宮村では、全壊・流失・半壊の家屋は総戸数の51%にも達した。また、三里村、本宮村、請川村、敷屋村、九重玉置口村では、校舎や行政機関の建物などの公共建物が大きな損壊を受けた(『和歌山縣災害史』、1963)。

[注1]:大破した敷屋小学校は、大正8年に建築された校舎であり(『熊野
      川町史 通史編』、2008)、世耕弘一先生が尋常小学校をご卒業さ
      れた後に建築されたもの。
[注2]:全壊した請川小学校は、明治36年に建築された校舎であり(西山
      史朗(2024)に引用された請川村役場文書による)、世耕弘一先
      生が高等小学校として学ばれたものと判断される。

3.世耕弘一先生の請川村村長宛の書簡
 世耕弘一先生の書簡は被災地の村長宛のものであり、請川村役場文書から3つの書簡が見つかった。書簡については、その表記のまま紹介する。

(1) 災害救助に関する特別法案可決告知及び写本送付につき書簡
昭和28年8月10日付け 差出:世耕弘一 宛先:請川村村長日浦亦彦
内容:「昭和二十八年六月及び七月の大水害の被害地域における災害救助に関する特別措置法」が国会で可決されたこと、写本を送付したことを知らせたもの(写真5、6)。

 急啓 昭和二十八年六月及び七月の大水害の被
 害地域における災害救助に関する特別措置
 法案が國會に於て可決仕り候間昨日(九日)
 一括御送附申上候
 實は早急寫本作製致候ため脱字などあるや
 も計り難く候間適用並びに實施にあたつては
 縣當局ともよく御打合せ下され度
 尚小生は議會終了後直ちに再度災害現地視
 察旁々親しく拝顔の上萬々更に対策御協議
 申上度候何率皆様によろしく、なほ暑中の折
 柄御自愛の上復旧のため御健闘下され度御
 願ひ申上候
                   草々
 昭和二十八年八月十日
      衆議院議場内にて
         世  耕   弘   一
  請川村長
  日浦亦彦様
 過日書留便御入手被下候■御伺申候

写真5 法案の告知と写本送付の書簡(表)
写真6 法案の告知と写本送付の書簡(裏)


(2) 報告 中、小学校復旧整備起債並びに補助の件

昭和29年4月26日調 差出:世耕弘一 宛先:請川村村長 教育委員長
(裏面は一部欠損)
内容:被災した小・中学校の復旧費補助について、関係省庁との折衝の経過と今後の見通しを知らせたもの(写真7)。
 この書簡は、『自昭和28年 至昭和30年 請川小学校・静川小学校建築関係』の綴りに保存されている。

 報告(昭和二十九年四月二十六日調)
 請川村
 村 長
 教育委員長 殿
       千代田區永田町二丁目
       衆議院第一議員会館五〇三号室
          世 耕 弘 一
  中、小学校復旧整備起債並びに補助に
  関する件、
   表記の件に関しかねてより努力致し居り
  ますが文部省、自治庁、大蔵省と折衝致し居り
  ますので中間報告申上げます(大要左記の通り)
     記
 一、 目下和歌山縣当局で県下全部の申請書整
     備中、今月末頃完成の上文部省並びに関
     係省庁江提出のはず、
 二、    五月中旬頃結定の運びと相成るかと存じ
    ます。
    よって県庁とも緊密なる連絡しつつ御期待に反
    せざるよう努力致します。
     参考までに「申請書の寫」ありますれば御送
       和二十九年度)頂けば幸と存じます。
                     [以上]

写真7 学校復旧の補助に関する書簡(表)


(3) 毛筆の封書による書簡

昭和28年7月28日付け 差出:世耕弘一 宛先:請川お役場村長様
内容:生徒たちの学習資材用として金壱万円を送付したこと、明朝の列車で帰京して災害対策委員会に出席することを伝えたもの(写真8)。
 この封書は、その消印が「奈良生駒」となっていることから、ご自宅から郵送されたものと判断される。また書留にしている。
 この書簡にある災害対策委員会は「第16回国会 衆議院 水害地緊急対策特別委員会 第21号」(昭和28年7月30日)であるとみられ、その記録から世耕弘一先生がいくつかの質疑を提出されていることが分かる。
第16回国会衆議院水害地緊急対策特別委員会第21号昭和28年7月30日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム (ndl.go.jp)

写真8 世耕弘一先生による毛筆の書簡(2つの画像を貼り付け制作)


4.考察と補足

 この大水害の復旧に関連する世耕弘一先生の書簡は、請川村以外の被災地の村長宛にも発出されたと考えるのが妥当であろう。熊野川流域では、三里村、本宮村、請川村、四村、敷屋村、九重玉置口村、三津ノ村、小口村、高田村の9ヶ村の被害が甚大であった。これら9ヶ村の全壊・流失・半壊は、総戸数の32%に達したほか、うち5ヶ村では校舎や行政機関の建物などの公共建物が、全壊・流失・半壊となる大被害を受けた(『和歌山縣災害史』、1963)。これら被災地の村々に対しても、同様の対応をされたものと推察される。また、書簡にはガリ版刷りの本文に署名された形式のものがあり、この書簡は複数が発出されたものであろう。
 次に、「災害救助に関する特別措置法」に関する書簡について補足する。
この特別措置法の表題には、“昭和二十八年六月及び七月の大水害の被害地域”とある。この昭和二十八年六月とは、停滞した梅雨前線のため6月25日から29日にかけて、九州北部に甚大な被害をもたらした「昭和28年西日本水害」を指す。つまり、昭和28年に起こった「西日本水害」と「紀伊半島大水害」を対象とする災害救助に関する特別措置法として成立させたものである。この昭和28年には8月14日から18日にかけて、近畿中部に甚大な被害をもたらした「南山城水害」が発生した。このように大水害が多発したことから、防災対策の充実、局地性豪雨への監視体制の強化を求める声が高くなり、レーダー観測網の整備や無線ロボット雨量計の設置などが行われることになった(『和歌山県の気象(資料篇)』、1979)。つまり、昭和28(1953)年が日本の防災対策の転換点になったといえる。
 次に、全壊した請川小学校校舎の復旧について補足する。この校舎は、明治36年に建築されてから50年余り経過し、老朽化により危険校舎として認定され、新築することが村議会で決まった翌年に、大水害により全壊した。この復旧にあたって、鉄筋コンクリート造校舎をめざして補助金の申請を行ったが、同様の申請をした町村が多く、それらの調整に時間を要した。このため児童は、新校舎完成の昭和30年4月まで、長期間にわたって5ヶ所に分散して学校生活をおくることになった(西山史朗、2024)。

おわりに
 昭和28(1953)年紀伊半島大水害の復旧に関連して、世耕弘一先生の請川村村長宛の書簡について、その発見の経緯と大水害の概要とあわせて報告した。この水害は歴史的大水害であり、その復旧と防災対策を進めるうえで、世耕弘一先生がご活躍されたことは、容易に想像される。今後、和歌山県内の役場文書から、世耕弘一先生の書簡が見出されることになれば、この大水害に関連した新たな史料ともなる。
 なお、この役場文書の調査に際しては、中川貴氏(田辺市教育委員会文化振興課参事)、西山史朗氏(和歌山県立文書館文書専門員)に大変お世話なった。ここに記して感謝申し上げる。

参考文献
(1) 和歌山県編:和歌山縣災害史、口絵写真、PP.136-253、1963。
(2) 熊野川町史編纂委員会編:熊野川町史 通史編、pp.891-896、PP.918-
   919、2008。
(3) 西山史朗:昭和28年水害をふりかえるー請川村役場文書にみる復旧のよ
  うすー、報告会「歴史から学ぶ防災2023」資料、2024。
(4) 和歌山地方気象台編:和歌山県の気象 和歌山地方気象台創立百周年記念
   誌(資料篇)、PP.39-40、1979。


冒頭写真:世耕弘一先生の書簡(田辺市教育委員会所蔵、後誠介撮影)


(2024年7月18日公開)



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