近畿大学の設置認可の経緯について
On the circumstances regarding the approval for establishment of Kindai University
近畿大学名誉教授・広報室建学史料室特別研究員・博士(歴史学)
荒木 康彦
文部科学省ホームページで閲覧出来る『学制百年史』第二編・第一章・第四節の「三 新制大学」の「新制大学の発足と移行措置」の件によれば、「學校基本法」[1]の施行に際し、文部省は昭和二十四年度から大学を発足させる方針であったが、昭和二十三年度に十二の公・私立大学が四月から新制大学を発足させるべく名乗りをあげ、文部省はこれらを認可したとされる。同じく「大学の設置状況」の件で掲げられている「表38 新制大学の設置年度別学校数(昭和28年4月現在)」を一部整理して簡略化したものを示せば、次の通りである。
従って、この表の昭和24年度に於ける「私立」の「81」校の一つが近畿大学であるのは、言うを俟たない。「近畿大学 創立70年の歩み」(近畿大学 平成七年)収録の「学校法人近畿大学沿革」[2]では、近畿大学の設置認可及びその直後に関しては、次の様に記されている。
「沿革」の性格上、結果のみの簡明な表記となっており、詳細な背景・経緯等は当然のことながら記載されていない。
寺坂八郎元本学常任理事は、回想世耕弘一編纂委員会編『回想世耕弘一』収録の「学園創設の理想」[3]で、近畿大学の設置認可申請時に於ける世耕弘一先生との連携プレーに関して、次の如き貴重な証言を残している。
近畿大学の設置認可に至るかくの如き険阻な過程とその直後の様子を具体的且つ詳細に知るために、昭和二十三年から二十五年までの新聞に掲載された新制大学に関する記事を狩猟すると、先ず昭和二十四年二月十一日付『朝日新聞』朝刊掲載の「新制大学七十九校 四月から予定通り発足」という見出しの記事が認められ、そこには次の様に報じられている[4]。
そして、「合格校(カッコ内学部名)」として「公立」の十四校名、「私立」の六十五校名が列挙されており、後者の中に「近畿大(理工)」が認められる。そして、「不合格校」として「公立」の四校名、「私立」の三十校名が列挙されている。更に、「保留」として「公立」の一校名、「私立」として四校名が挙げられているが、注目すべきことには、後者の中に「近畿大(法経)」が認められる。自校史に於て「法経学部」の存在は見出された事がないので、これは刮目に値する。
そこで、念の為に昭和二十四年二月十一日付『讀賣新聞』朝刊を見ると、「適格は七十九校 新制大学の申請校」という見出しの記事があり、次の様に報じられている(便宜上、ルビは省いた)[5]。
そして「昭和廿十四年度から開設校」として「公立大学」十四校名、「私立」の六十五校名が列挙されており、後者の中に「近畿(理工)」が認められる。そして、「開設不適当校」として「公立」の四校名、「私立」の三十校名が列挙されている。更に、「保留」とされた「公立」の一校名及び「私立」の四校名が挙げられているが、ここでも、「保留」とされた「私立」の四校の中に「近畿(法経)」が認められる。
従って、「開設を適当と認めた学校のうち一部分の学部だけ審査に終了せず保留となつた」とされる「私立四校四学部」の中の一つが「近畿(法経)」と推測されるのである。つまり、近畿大学は理工学部が新制大学としての開設が認められたが、法経学部だけが審査未終了で保留となったと推測されるのである。
昭和二十四年三月十九日付『朝日新聞』朝刊掲載の「新制大学 さらに九十四校」という見出しの記事では、次の様に報じられている[6]。
そして、「合格校」名が「国立」「公立」の順で、「前回一部保留 今回合格のもの」が「公立」「私立」の順で、そして「不合格校」名と「部分的保留」校名が列挙されているが、大いに刮目すべきは、「前回一部保留 今回合格のもの」の「私立」校名の中に「近畿大商学部並に夜間部」が認め
られる事である。それ故に、「前回一部保留」であった」が「今回合格のもの」として「近畿大商学部並に夜間部」として挙げられているという事になる。換言すれば、保留となった法経学部に変えて申請された商学部が認可されたという事になる。
そこで、これまた念の為に昭和二十四年三月十九日付『讀賣新聞』朝刊を見ると、「更に百十二校合格 新制大学の第二次審査」という見出しの記事があり、次の様に報じられている[7]。
そして、「◇昭和廿四年度より開設がみとめられたもの(〇印は前回保留のもの)」が「△国立」「△公立」「△私立」の順で、「◇廿四年度より開設を不適当と認められたもの」が「△国立」「△公立」「△私立」の順で列挙されており、「(〇印は前回保留のもの)」の「△私立」の中に「〇近畿(商、理工二部、商二部)」が見出せる。以上から綜合的に判断すると、「前回に」「一部の学部だけ審査保留になつた」近畿大学は、今回「 商、理工二部、商二部」が「合格」となったという事になる。
そこで、国立公文書館所蔵の「近畿大学 大阪 第4冊」[8](整理番号は文部省・60文・10-6・729)という簿冊に収録されている次の様な文書群内の史料を精査した(表記の不統一性が認められるが、そのまま採録した)。
第一文書群の冒頭部の文書では、次の様に記されている。
そして、この「新制大学設置認可について 認可指令案」に基いて、『官報 第六千六百七十九号」(昭和二十四年四月二十日)に、「認可」が次の様に掲載された[9]。
因みに、この第一文書群に収録された「近畿大學認可申請書」の冒頭に「文部大臣殿」宛ての「設置者財団法人大阪理工科大學理事 世耕弘一」からの昭和二十三年三月二十八日付「大學設置認可申請書」が配置されているが、その「第一近畿大學設置要項」では「目的使命」として、次の様に高らかに宣言されている。
これこそが、近畿大学の建学の目的として刮目すべきである事をここで大いに強調しておきたい。
第二文書群の冒頭部の文書では、次の様に記されている。
そして、この「新制大学設置認可について 認可指令案」に基いて、『官報 第六千六百九十八号」(昭和二十四年五月十六日)に、「認可」が次の様に掲載された[10]。
そして、注目すべきは、この第二文書群収録の「認可案」の後に次の様な文書が続いている事である。
保留となった法経学部に変えて申請された商学部が認可されたという説を先に提示したが、この史料によって、それが事実であった事が証明され得たといえるのである。だが、そこで見逃してはならないのは、第二文書群の冒頭部の文書である「認可指令案」では「学部学科 商学部(商学専攻、
経済学専攻、商事法学専攻)」として、商学部内に 「商学専攻、経済学専攻」と共に「商事法学専攻」が置かれている点である。そして、「二部認可について」の第三文書群の冒頭部に配置されている昭和二十四年三月二十五日付「指令案」に於ても、同様に商学部内に 「商学専攻、経済学専攻」と
共に「商事法学専攻」が置かれている。
かくして「法経学部」の経済学系分野が商学部として実現された訳であるが、「法経学部」の法学系分野が今後如何にして学部として実現されたかを示しているのが、第四文書群収録の史料である。この文書群の冒頭部には「法学部第一部法律学科」「法学部第二部法律学科」の「増設」の「認可指令案」(年月日は未記載)が配置されており、その後に次の様な文書が続いている。
先に触れた様に、「近畿大学 創立70年の歩み」収録の「学校法人近畿大学沿革」では、昭和25年3月1日 法学部1、2部(法律学科)設置認可」となっているが、この第四文書群の史料から判明する重要な点は、法学部が「増設」という手続きで実現されている事である。だが、上述の如く、この第四文書群収録の法学部「増設」の「認可指令案」には年月日が未記載であるので、法学部「増設」の認可年月日が把握出来ないのである。そこで、昭和二十五年刊行の『官報』を具に閲覧したところ、次の如き非常に気付きにくい形で、近畿大学法学部の「増設」認可が掲載されているのを発見した。『官
報 第六千九百七十六号」(昭和二十五年四月十四日)に於て、「 ⦿文部省告示第二十号」として、昭和二十五年四月十四日に九校の学部増設の認可が一挙に掲載されているが、その中の五番目に次の様に挙げられている[11]。
第四文書群収録の史料からは不明であった近畿大学法学部の「増設」の認可年月日は、「昭和二十五年三月一日」であることが判明したのである。しかも、ここで看過してはならないのは、「一、増設学部」の件で「商学部法学専攻は、昭和二十五年度から廃止する。」と特記されており、それは先
に触れた第二文書群の冒頭部の文書「認可指令案」で商学部1部内に 商学専攻、経済学専攻」と共に置かれていた「商事法学専攻」を、第三文書群の冒頭部の文書「指令案」に於ても商学部2部内に「商学専攻、経済学専攻」と共に置かれていた「商事法学専攻」を意味するのであろう。このような周到な布石を前提にして、「増設」という手続きで近畿大学法学部が実現されたという事になるのである。そして、かかる法学部増設によって、近畿大学は世耕弘一先生の当初の構想に沿う姿として実現されたと見做し得るであろう。
注
[1].昭和二十二年三月二十九日公布「法律第二十六号 学校教育法」(昭和二十二年三月三十一日「官報第六千六十一號」掲載)。『官報』は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧して利用した。以下、同じである。
[2].「近畿大学 創立70年の歩み」(近畿大学 平成七年)収録の「学校法人近畿大学沿革」。
[3].寺坂八郎「学園創設の理想」(回想世耕弘一編纂委員会編『回想世耕弘一』回想世耕弘一 刊行会 昭和四十六年 一二〇頁)。
[4].昭和二十四年二月十一日付『朝日新聞』朝刊掲載「新制大学七十九校 四月から予定通り発足」。『朝日新聞』は朝日新聞記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」で閲覧して利用した。以下、同じである。
[5].昭和二十四年二月十一日付『讀賣新聞』朝刊掲載「適格は七十九校 新制大学の申請校」。『讀賣新聞』は「ヨミダス歴史館」で閲覧して利用した。以下、同じである。
[6].昭和二十四年三月十九日付『朝日新聞』朝刊掲載「新制大学 さらに九十四校」。
[7].昭和二十四年三月十九日付『讀賣新聞』朝刊掲載「更に百十二校合格 新制大学の第二次審査」。
[8].国立公文書館所蔵「近畿大学 大阪 第4冊」(整理番号は文部省・60文・10-6・729)。
[9].『官報 第六千六百七十九号」(昭和二十四年四月二十日)掲載「⦿文部省告示第百九十五号」。
[10].『官報 第六千六百九十八号」(昭和二十四年五月十六日)掲載「⦿文部省告示第百三十三号」。
[11].官報 第六千九百七十六号」(昭和二十五年四月十四日)掲載「 ⦿文部省告示第二十号」。
冒頭写真:近畿大学正門(『近畿大学 創立70年の歩み』〔近畿大学 平成七年〕より)
追記
本稿では近畿大学関係者のみは「先生」としたが、それ以外の人士については敬称を省いているので、この点は諒とされたい。
原典尊重の観点から引用史料の表現・漢字は、原則として、そのままにしている。
(2024年1月31日公開)
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