『風通信』2020年9月号 布団星人がゆく 41

生きるために「権利」がある

   口をひらけば「あつい」という三文字しか出てこない猛暑の毎日。だが、心の中では背筋がいつも何となく寒く、薄氷の上をそろりそろり進むような、そんな心境でこの夏を過ごしている。直接は知らない、でもどこかで自分と共通点のある二人の「死」が、このところずっと頭の中に重くのしかかって離れないからだ。
    一人は、お芝居自体だけでなく、その前後の取材などでも真摯な仕事ぶりを見せてくれていた俳優さん。そしてもう一人が、京都で起こった殺人事件(私はあえてこう書きます)の被害者であるALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんだ。

   特に心に引っかかっているのは、亡くなった人に直接関係ない人々の反応だ。例えばメディアの報道のありようだったり、私自身も含めたSNS利用者の反応だったり。
   俳優さんが亡くなった直後は報道がひどかった。速報の時点で、彼がどういう形で命を絶ったか具体的に伝えられたり、彼の自宅の写真らしきものがテレビに映ったりした。WHOが「自殺予防 メディア関係者のための手引き」を出して注意喚起を促しているが、それらを全く無視した内容だった。
   またALS患者さんの時は「彼女は本当に筆舌に尽くしがたい困難な経験をしたのだ。自分から死を望むことを責めないでほしい。きれいごとばかり言わず、彼女の死ぬ権利を尊重してほしい」という声をたくさん見かけて意気消沈してしまった。

   私は「死ぬことを選択する権利」と「死ぬ権利」とは全然違うと思っている。死を選ぶ、その最後の選択を自分で下すことは、最後の最後に残された(自己決定という意味で)尊厳ともいえるかもしれないと確かに思う。しかしその場合でもそれぞれの選択肢は平等でなければならないと思うのだが、いつだってそうではない。
   彼女の場合、もう一方の生き続けるという選択肢はとても困難な道だったようだ。彼女が生きることを選択できる生活環境が、制度の不備や人材不足などでことごとく侵害されていたことで困難に直面していたということが少しずつに明らかになっている。

   病気があろうがなかろうが、生きていくことは本当に大変で、色々な困難にぶつかって辛い思いをする。頻繁に「もう全部終わりにしたいなあ、終わったら楽かなあ」とつい思ってしまう。それは誰にでも日常的にある感情だし、患者会をやっているとそんな相談ばっかりだ。ほんとうにこのところ日本社会は生きにくくなっていて、誰もが「これで終わりにしたい」と思う瞬間と無縁ではない。

   だからこそ、死は簡単に美化されちゃいけない。権利は生きるためにある、色々あっても、あなたにも生きるという権利がある。それを支えるのは社会の、周りの責任なんだ。どんな状況にあっても、生きていていいんだ、という共通認識が必要だと思うのだ。
   そうでないと「死ぬ権利」という見かけはカッコいい言葉が市民権を得てしまって、生きる権利のある命と、死ぬ権利がある命、などという背筋が凍るような選別が行われる結果になりはしないか、という危機感が強くある。    私の命はどちらだろうか、そんな事が頭をよぎること自体に、やっぱり背筋の凍る夏である。

(注)
WHO 自殺予防 メディア関係者のための手引き は、厚生労働省のホームページに掲載されています。https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000133759.html


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