誰だって安心して暮らしたい~コロナ感染を(家族が)体験して思ったこと~
2021年9月現在。ここ1か月ほどの全国での新規感染者の数は、1万人を下回ることがない。
我が家では、7月初旬、夫が新型コロナウイルス感染症で入院し、同居家族である私は感染こそしなかったものの「濃厚接触者」として2週間の隔離生活を送った。自分のところに“現実”がふりかかるまでは「こんなに感染者が増えているのに、経験者に出会えないなあ」と暢気に思っていたが無理もないことだった。きっと多くの人がその事実に沈黙し、小さな秘密としてそれを隠さざるを得ないのだ。
家族の感染の事実を、普段出かけている場や接触した人に伝える際、同じことを何度も話すのに骨がおれた。そしてそれ以上にしんどかったのは、相手の冷たい反応や過剰な用心によって「“感染のリスク”を抱えた私はとっても警戒されている」と突きつけられることだった。複数の人から「近所には絶対黙っておくのがいい。あなた達家族が悪く言われるのは耐えられない」と言われ、戸惑いつつもその忠告!?を守っている自分に、我ながらちょっとイライラする。
治療法がまだ確立されていない感染症にかかり、命の危機を乗り越えた人、一命を取り留めても、ダメージを受けた心身がなかなか元に戻らす辛い思いをしている人たちが、なぜこんなに悪いことをしたみたいに自分の経験を隠さなければならないのだろう。本来病にまつわる辛い経験は誰かと分かち合ってこそ和らぐものだ。それすらできないこの状況で「守られて」いるのは、いったい誰なのだろう。
「患者個人の心配より社会が混乱することを心配する」姿勢は、もともと公衆衛生行政自体が持っているもの、なのだそうだ。フーコー(フランス、歴史家・哲学者)の考察によれば「隔離」は中世以来続く感染症対策の伝統で、それは19世紀のイギリスで概ね完成したのだという。保健所が感染症にかかった人を把握し、隔離して、感染症が蔓延するのを防ぐ。同時に罹患者には無料の医療を提供して、個人の収入に関係なく、全員に治せるものは治してから社会に戻ってきてもらう、というシステム。それで防げるのは「労働者が大量に働けなくなる」という事態であり、実際に守られているのは、働き手がいなくなって困る層(つまりは富裕層)ということになる。
その「伝統?」は今も引き継がれていて、日本の公衆衛生のシステムの中心は「隔離」である。普段熱を出したらまず行くのは病院だが、新型コロナウイルス感染症の場合はそうはいかない。夫は発熱したらまず保健所に連絡した。自分がどのように隔離されるか、を調整指導される事が治療に先んじて行われる。幸い夫が感染したのは、国内の感染者が2000名程度の時期だった。地域の公衆衛生のシステムはある程度円滑に機能しており、保健所への電話は半日足らずで繋がり、すぐに行政検査を受けて陽性が判明。入院先も速やかに決まり“無料の医療”にまでスムーズに繋がることができて手厚い治療と看護を受けることができた。医師と看護師さん達の、あったかいプロの仕事ぶりが、家族とも隔離され独り闘病する彼を心身ともに支えてくれたようだ。
しかし現在、当時より状況は悪化している。医療資源が絶対的に足りないなかで「隔離」された後、患者とって一番大事な「医療」に繋がることがなかなかできない。長期間不安の中で自宅に留め置かれている人が大量に出ているのが現状だ。ある意味19世紀より後退しているかもしれない恐ろしい状況だ。「財政難」「大きすぎる行政機能のスリム化」に追い立てられ、最低限の保健所機能さえ縮小されてきたこの間のツケを私たちは命と引き換えに払っている。
誰だって安心して暮らしたい。自分も、周りの人も、皆がその思いを持っていることを、私たちはもう一度確認しあわなければならない。誰の命も優先順位をつけることなく大切にされる。普段からその大前提を守れなければ、最後にはあからさまな「命の選別」が起きてしまうことを、今私たちは目の前で体験している。
この状況を変えるために、私には何ができるのだろうか。
(注:本稿は、8月20日に大阪難病連の難病問題学習会資料を参考に執筆しました)。
・学習会概要 https://www.nanbyo.osaka/posts/activity15.html
・講師 岡本朝也先生(家族社会学)
・参考文献 「社会医学の誕生」『フーコーコレクション6』(ちくま学芸文庫)
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