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高梨沙羅選手の謝罪に想う、アスリートの「シゴト」が作り出すモノ

お隣の国、中国の北京で、冬季オリンピックが開催されている。普段はウインタースポーツを見ることがない僕も、テレビでアスリートたちの奮闘にくぎ付けになっている。

やっぱり、国際的なスポーツ大会というのは、見ているだけで楽しいし、ワクワクするし、好きだ。

中国には高校生の時、修学旅行で一度だけ行ったことがあって、万里の長城も訪れたことがある。そして、その時は真冬ではなかったと思うけど、とっても寒かったことを鮮明に覚えている。

気温はマイナス10℃くらいだった気がする。さらに風がビュウビュウ吹いているのだから、体感気温はどれほどだったのだろうか。耳が痛い、を通り越して、耳の根本、感覚的には内耳あたりがめっちゃくっちゃ激痛だった。

「こんなの人間が活動していい気温じゃない!!」

割と温暖な地域で育った僕は、ガタガタ震えながら大型バスに逃げ込み、そんなことを考えていた。

それと同じような状況の中、場合によってはさらに過酷な環境で協議に挑んでいるアスリートの皆さんには、本当に驚かされる。動いているだけで偉い。凄すぎる。あんなに寒いのに。

・・・

今回のオリンピックは、何かと波乱を呼ぶ展開が相次いでいる。

その中でも一番印象的なのが、スキージャンプ男女混合競技での、高梨沙羅選手のアクシデント。もはや悲劇と言うべき、あまりにも残酷な出来事だった。

何が原因とか、どうしたら防げたとか、誰が悪いとかそんなことは抜きにして、僕はこの一件で、「アスリートの仕事」について考えさせられた。

一般的な(何が一般的なのか考えるのは難しい時代になってきたが)職業の場合、仕事の内容は分かりやすい。民間企業勤めのサラリーマン、例えば、部屋を暖めるエアコンを製造している会社の、営業担当者で考えてみよう。

彼の仕事は何だろうか。営業担当なので、量販店などの顧客に対して自社の製品の優れた点を売り込み、販売の契約を結ぶこと。もちろん、最終的な目的は、一台でも多くのエアコンを販売し、会社に利益をもたらすことだ。営業成績が優秀だと、その分ボーナスが増えたり、昇進のチャンスが舞い込むかもしれない。また、彼が頑張って仕事をすることによって、ある家庭の部屋では、高機能のエアコンの暖かな風に暖められて、そこに暮らす家族が笑顔になるだろう。

つまり、エアコンの契約を取ることが目先の仕事、最終目的は会社の利益、そして仕事の先にはどこかの家族の笑顔がある、といった具合だ。

では、高梨選手をはじめ、プロアスリートの仕事とは、何なのだろうか。

彼女くらいの有名で優秀な選手は、競技生活を支えてくれる所属企業やスポンサー企業と契約し、そこから援助される資金を使って厳しいトレーニングに励んでいる。なぜトレーニングに励むのかというと、大きな大会で活躍するためだ。支える企業としては、彼女が活躍してくれると、ニュース番組などで彼女が身に着けている用品が多くの人の目に触れるので、そこに企業のロゴを配置しておけば、すばらしい広告になるのだ。また、彼女が競技で活躍している姿は、ある家庭で彼女が出場している競技を視聴している、ある家族を興奮させ、笑顔にするだろう。

つまり、トレーニングに励んで活躍することが目先の仕事、広告塔として所属・スポンサー企業に利益をもたらすのが最終目的、そして仕事の先には、どこかの家族の笑顔がある、と言える。

(もちろん、選手はその競技自体を愛していたり、その素晴らしさを広めてファンや競技人口を増やしたりと、他にも様々な目標や成果はあるが)

さて、それでは今回のケース。高梨選手は、「仕事に失敗」したのだろうか。

結論から言うと、僕は、彼女はプロとして最高の仕事をしたと思っている。失礼な表現になっていたら申し訳ないが、もしかしたら、金メダルを獲得するよりも素晴らしいと言えるかもしれない。とさえ思う。


まずは目先の仕事について。彼女はこれまで、ずっとずっと鍛錬を重ね、尋常でないプレッシャーや恐怖と闘い、日本一のスキージャンパーに上り詰めて来た。この事実は、数回のアクシデントやミス(今回は彼女のミスではないと思うが)で揺らぐほど、不安定で不確かなものではない。いわば、彼女の努力によって大地に太い根を張った、大樹なのだ。つまり、彼女はその時点で十分すぎるほど仕事をしているので、メダルを逃がしたことが「目先の仕事をしていない」ことにはならない。断じて、ならないのだ。

次は、スポンサー企業の利益について。ちょっとドライで嫌な言い方だが、彼女は今回も、大いに注目を集めた。(もちろん、不本意な形であることに疑いの余地はないが)また、今回の結果を受けて、彼女をもっと応援したいと感じた視聴者は少なくないだろう。広告塔としてのイメージにも、まったく傷はついていない。つまり、「企業に利益をもたらしていない」ことにもならないと言える。

そして最後。家族の笑顔、という点に関しては、さすがに今回の結果を受けてニコニコ笑顔になった家庭は少ないだろう。しかし、それ以上の「何か」をもたらしてくれた気がする。

僕が思うに、その「何か」とは、「学び」だ。

高梨選手は、一回目の会心のジャンプを飛んだあと、満面の笑みでがガッツポーズをしていた。彼女は個人競技のあと、「4年かけてイチから作り上げて来たジャンプで通用しなかった」と言う旨のコメントを残していたので、そこからの短い時間の中で、自分にできる最大限の修正に取り組んだのだろう。努力を重ねた年月。それが通用しなかった無力感。それと向き合って前を向いた意志の強さなど、いろいろな重みを感じたガッツポーズだった。

そこまで努力をしている人間がいるのか。だからこそ、他のアスリートたちも、こうも輝いて見えるのか。そんなことに気づかされ、自分の人生についても考えを巡らせるほど、僕にとってそれは大きな「学び」だった。

だが、だからこそ、その後の涙は、それ以上に重かった。あまりにも重く、残酷だった。これまでスポーツを見てきて、あそこまで残酷なシーンは見たことがない。完全に、根元からポッキリと心が折れたはずだ。正直、僕はテレビを観続けられなかった。

しかし、しばらくすると、高梨選手が二回目の試技で良いジャンプをしたというニュースが目に入った。慌ててテレビをつけると、ハイライトで映し出されたのは、涙で腫れた目でジャンプ台の先を見据える、トップアスリートの姿だった。気のせいかもしれないが、いつもの彼女よりも、視線が泳いでいるようにも感じた。何にせよ、普通ならば競技を続けられる精神状態ではなかったはずだ。

でも、彼女は素晴らしいジャンプを見せた。僕は大いに感動した。すごい、すごすぎる。一人の女性が、ここまで大きな重圧と闘い、それに打ち勝ったのかと思うと、涙があふれて来た。なんという人だ。

高梨選手は、その後謝罪の言葉を残している。だが、僕は、心の底から、謝る必要なんてないと伝えたい。あなたは、自分の仕事を、役割を全うした。

なぜ、人はスポーツをするのか。なぜ、人はこうにもスポーツに熱中するのか。

それは、こういう瞬間に立ち会うためなんなんだと思う。つまり、人が人の想像を超えて、大きな感動を生む場面である。

高梨選手の心情はいかばかりか、想像するだけで辛くなる。どんな慰めの言葉も、今は心にとどかないかもしれない。

だけど、僕は、北京オリンピックを見ていて良かったと思っている。高梨選手のジャンプを見ることができて、本当に良かったと思っている。

あなたのジャンプに、暗い表情に、はじけるガッツポーズに、大粒の涙に、たくさんのことを学ばせてもらえた。

同じ国に暮らしているというくらいしか共通点のない、ある家庭のとある物書きの人生に、こんなにも影響を与えたのは、あなたが頑張ってきたからだ。

ありがとう、高梨選手。どうか、あなたの心が、少しでも早く穏やかになりますように。



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