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解深密経(げじんみっきょう)心意識相品【現代語訳・解説】

|爾の時に、世尊、廣慧菩薩摩訶薩に告げて日はく、……吾當に汝が為に心意識の秘密の義を説くベし。《そのときに、せそん、こうえぼさつ、まかさつに、つげてのたまわく、われまさになんじがために、しんいしきの、ひみつのぎを、とくべし》
|廣慧よ、當に知るベし六趣の生死に於て彼彼の有情は彼彼の有情衆中に堕し、或は卵生に在り、或は胎生に在り、或は湿生に在り、或は化生に在りて身分を生起す。《こうえよ、まさにしるべし、ろくしゅの、しょうじにおいて、ひびのうじょうは、ひびのうじょう、しゅちゅうにだし、あるいは、らんしょうにあり、あるいは、たいしょうにあり、あるいは、しつしょうにあり、あるいは、けしょうにありて、みぶんを、しょうきす》

その時にお釈迦さまが広慧菩薩に向かって語った。
「では、あなたのために人間の心の働きについての秘密の教えを説いてみよう」広慧は「六趣の生死」という言葉を理解するよう求められた。この段階で、一般には理解しづらい仏教用語「六趣」が登場する。ここで「趣」は「そこに向かい住む」という意味であり、場所を示す言葉と解釈しても差し支えない。この「趣」はしばしば「道」として表現され、「六道」という言葉で知られている。「六道輪廻」がその一例である。
六道とは、人間が過去の行為により分けられる六つの領域を意味し、これは下界から上界に至るまでの六つの世界を指す。
【地獄趣・餓鬼趣・畜生趣・修羅趣・人間趣・天上趣】がそれであり、人の意識は通常下から上へ進化するが、悪行によって逆戻りすることもある。この上下動の繰り返しは「六道輪廻」と呼ばれる。六地蔵はこれらの領域を守る地蔵菩薩を指し、六観音、六道銭、六道の辻も同様の概念から派生した言葉である。
続いて「彼彼の有情」は「それぞれの感情を持つ存在」と解釈される。有情は一般に感情を持つ者を意味し、人間に限らず、すべての生命体を含むが、霊的な存在を指すこともある。「有情衆中に堕し」は、これら霊的な存在が様々な生物の形態を得ることを意味する。

広慧に対して、お釈迦さまは再び説明を続ける。
「次のことを理解してほしい。六つのそれぞれの世界で生まれ変わり死に変わることにより、霊体はそれぞれの生物の形を得る」と説明した。ここで「卵生」「胎生」「湿生」「化生」の四つの術語が登場する。これらは生物が誕生する際の四つの異なる形態を示し、それぞれ卵から生まれるもの、母胎から生まれるもの、湿地で生じるもの、幽霊のように体を持たずに現れるものを指す。
「そして、四生の形態に従って自らの体を変化させていくのだ」と続けられる。人間の胎児は母胎の中で数億年の進化を体現し、今日の人間の形で誕生するが、これを四生説と比較すると非常に興味深い。


|中に於いて最初に一切種子心意識が成熟し、展転和合し、増長廣大するは、二の執受に依る。《なかにおいて、さいしょに、いっさいしゅうじゅ しんいしきが、じょうじゅくし、ちんでんわごうし、じょうじゃくこうだいするは、にのしゅうじゅに、よる》

|一には有色の諸根及び所依の執受にして、二には、相・名・分別の言説戯論の習気の執受なり。《1には、うしきのしょこん、および、しょえの、しゅうじゅにして、2には、そう、みょう、ぶんべつの、ごんせつ、けろんの、じっけのしゅうじゅなり》

|有色界の中には、二の執受を具するも、無色界の中には、二種を具せず。《うしきかいのなかには、2のしゅうじゅを、ぐするも、むしきかいの、なかには、にじゅを、ぐせず》

変化の行程で種子識、即ちアラヤ識が熟成し、さまざまな因が混じり合い、勢いが拡大していく。この過程は二つの執受によって進行する。
「有色の諸根及び所依の執受」
「有色の諸根」とは、「有色根身」または「有根身」とも呼ばれ、肉体を意味する。諸根とは、肉体の各器官のこと。
「所依」は解釈が難しいが、「依りどころ」を意味し、五感と意識の働きを基に、意志決定や外境の確認、自己の把握などが行われる。これはアラヤ識の機能に基づく働きである。
一つ目の執受は、肉体とその形成に関わるアラヤ識に関連する。二つ目の執受は、「相・名・分別の言説戯論」として現れる。相は物の形、名は名称、分別は比較分類する働きであり、これらは会話を通じて表現される。戯論とは、そもそも実体のないものに対しあれこれ語っているさまを、やや軽蔑を含んだいい方。習気は、記憶装置に刻み込まれた状態を表す。例えばスキーを学ぶ際、習気が蓄積されて上達していく。
これら二つの執受は、コンピュータのハードウェアとソフトウェアに例えられる。ハードウェアはコンピュータの機械部分、ソフトウェアはそこに入る情報を指す。情報がなければ、コンピュータは機能しない。単純化して言えば、一つ目の執受は「容器」、二つ目の執受は「内容物」と解釈できる。「有色界」は物質の世界を、「無色界」はエネルギーの世界を指す。物質が消滅しても、その実質はエネルギーへと変わるだけであり、これは現代科学の見解と一致する。故に、この二つの執受は物質の世界で発生するが、エネルギーの世界では存在しない。


|廣慧よ、此の識は亦阿陀那識とも名く。何を以ての故に、此の識は身に於て随逐し、執持するに由るが故なり。《こうえよ、このしきは、また、あだなしきともなづく。なにをもってのゆえに、このしきは、しんにおいて、ずいちくし、しゅうじするに、よるがゆえなり》

|亦阿頼耶識とも名く。何を以ての故に、此の識は身に於て摂受し蔵隠し、安危の義を同じうするに由るが故なり。《また、あらやしきともなづく。なにをもってのゆえに、このしきは、しんにおいて、しょうじゅし、ぞうおんし、あんきのぎを、おなじうするに、よるがゆえなり》

|亦名けて、心とも為す。何を以ての故に、此の識は色・聲・香・味・触等の積集し滋長するに由るが故なり。《またなづけて、しんともなす。なにをもってのゆえに、このしきは、しき、しょう、こう、み、そく、とうの、しょくじゅうし、じちょうするに、よるがゆえなり》

「広慧さん、この一切種子識について、またアダナ識とも称します」
アダナという用語にはいくつかの意味が存在するが、この文脈では「執持」と解釈される。これは、何かに固執することや、その状態を維持するという意味を持つ。もっと明確に言うならば、「保持」という語と同義であり、より強固な状態を指す。
「これが何を意味するかというと、この識は肉体的に情報を追求し、それに応じて情報を強固に保持するからだ」
ここで使われる「髄逐」という表現は、「追求し従う」と解釈する。
「この識をアラヤ識とも称する。これが何を意味するかというと、この識は肉体的に情報を収集し(摂受)、保存する(蔵隠)」
ここで言及される「安危の義」について説明する。アラヤ、つまり心下意識に蓄積された様々な要因が、もし安全な種類のものであれば、つまり、その人の内部が安全であれば、その人の外部、すなわち運命や人生も安全であるとされる。逆に、内部が危険な要素で満たされている場合、外部も同様に危険な状態になるという理論だ。これを「安危同一の義」と表現する。したがって「この識は、その人の内外の安全や危険を同一視する」と解釈する。
次に「この識を心とも称する。なぜなら、この識は視るもの、聞くもの、かぐもの、味わうもの、触るものなどの情報を収集し、その信号を増幅する(滋長)からだ」


廣慧よ、阿陀那識(あだなしき)を依止(えじ)と為し建立と為すが故に、六識身(ろくしきしん)が転ず、謂く、眼識と耳・鼻・舌・身・意の識なり。此の中、識有り、眼と及び色とを縁と為して眼識を生じ、眼識と倶に随行し、同時同境に分別意識有って転ず。
識有り、耳・鼻・舌・身及び聲・香・味・触とを縁と為して、耳・鼻・舌・身の識と倶に随行し、同時同境に分別意識有って転ず。

アダナ識を根拠とし、その成立によって六識が変化し、現象を生み出す。
六識とは見る、聞く、かぐ、味わう、さわる、そして考える力である五感と意識を指す。ここでは、意識活動を眼、耳、鼻、舌、身体、そして頭脳の各部の活動として捉える。眼と外界の色との間に縁が生じ、認識作用が発生し、それに伴い意識が共同で作用し、区別や判断を行う。
アダナ識は、見る者(眼)と見られるもの双方を生じさせ、これが現象作用として私たちに存在の形を示す。同様に、耳や鼻、舌、身体が声、香り、味、感触と関連しながら認識作用を起こし、共同作用により区別や判断を行う。
しかし、この「区別、判断の活動」が分別意識を完全には説明しない。分別とは、錯覚に近く、実体でないものを実体であるかのように錯覚する意識の働きを指す。私たちが五感で感じるものを「色」と表現し、その実体あるとする考えは、凡人の顚倒夢想であり、般若心経ではこれが虚妄であると述べている。実体があると思うのは、「表象」に過ぎず、これが虚妄の姿を作り出すのが「分別意識活勤」だと唯識学は説く。


爾の時に、世尊、廣慧菩薩摩訶薩に告げて日はく、……吾當に汝が為に心意識の秘密の義を説くベし。
廣慧よ、當に知るベし六趣の生死に於て彼彼の有情は彼彼の有情衆中に堕し、或は卵生に在り、或は胎生に在り、或は湿生に在り、或は化生に在りて身分を生起す。
中に於いて最初に一切種子心意識が成熟し、展転和合し、増長廣大するは、二の執受に依る。
一には有色の諸根及び所依の執受にして、二には、相・名・分別の言説戯論の習気の執受なり。
有色界の中には、二の執受を具するも、無色界の中には、二種を具せず。
廣慧よ、此の識は亦阿陀那識とも名く。何を以ての故に、此の識は身に於て随逐し、執持するに由るが故なり。
亦阿頼耶識とも名く。何を以ての故に、此の識は身に於て摂受し蔵隠し、安危の義を同じうするに由るが故なり。
亦名けて、心とも為す。何を以ての故に、此の識は色・聲・香・味・触等の積集し滋長するに由るが故なり。
廣慧よ、阿陀那識を依止と為し建立と為すが故に、六識身が転ず、謂く、眼識と耳・鼻・舌・身・意の識なり。此の中、識有り、眼と及び色とを縁と為して眼識を生じ、眼識と倶に随行し、同時同境に分別意識有って転ず。
識有り、耳・鼻・舌・身及び聲・香・味・触とを縁と為して、耳・鼻・舌・身の識と倶に随行し、同時同境に分別意識有って転ず。

その時、お釈迦さまが広慧菩薩に述べた。
「では、人間の心の働きについての秘密の教えを説く。
広慧、まず理解してほしいことがある。六つの世界に生まれ変わり、死に変わることによって、霊体は各生物体の形を備える。そして、四生の形態に体つきを変化させていく。
変化の行程で、一切種子識、つまりアラヤ識が熟成し、様々な因が混じり合い、その勢いが拡大していく。この運動作用には二つの感覚機能の働きがあり、体とアラヤ識、物・名前・分類に関する意識と会話活動による記憶の素材という二つの働きがある。
これらの働きは現象的世界に存在し、空性的世界にはない。この一切種子識をアダナ識とも呼ぶ。この識は肉体上で情報を追求し、それに従って保持する。これをアラヤ識とも呼ぶ。これは肉体上で情報を集め、貯蔵し、内外の安全と危険を同一視する。この識を心とも呼ぶ。なぜなら、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の情報を集め、その信号を増幅するからだ。
このアダナ識を根拠にし、六識が変化し、現象を生じる。これは眼の意識活動と、耳、鼻、舌、身体、頭脳の意識活動であり、眼と外界の景色との間に縁を結び、認識作用を生じる。そして、耳、鼻、舌、身体と声、香り、味、感触との間で縁を生じ、認識作用を生じさせる。もし眼の認識作用が活動すれば、分別意識のみが同時に働き、共同作業を行う。
また、他の感覚の認識作用が活動すれば、やはり分別意識が働き、共同作業を行う。さて、洪水の流れがある。そこに浪が生じれば、形象として現れるだけであり、洪水自体は絶え間なく流れ続ける。このようにアダナ識を根拠にすると、眼の認識作用が縁を得て生じれば、すぐに眼による意識活動が起こり、五感の認識作用が縁を得れば、五感による意識活動が起きる」。
お釈迦さまは、さらにこの教えの意味を説こうとされたが、先に詩を吟じ、人々に啓蒙した。
「アダナ識の意義は深く、一切の因縁は大洪水の如し。私は愚かな者のためにこの法を説かず、なぜなら愚かな者は分別、執着の心を起こし、アダナ識そのものを自分自身だと信じてしまうことを恐れるからだ」と述べられた。


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