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ずる―嘘とごまかしの行動経済学(2012/12/07)/ダン・アリエリー【読書ノート】

【私的補正因子】 盗人根性・ズル・ごまかし・不正・嘘・時々詐欺【ずる~嘘とごまかしの行動経済学】

[TED]行動経済学者ダン・アリエリー 予想通りの不合理さ

ダン・アリエリー(Dan Ariely、1967年4月29日 - )は、イスラエル系アメリカ人で心理学と行動経済学の教授。
デューク大学で教鞭を執っており、デューク大学先進後知恵研究センター(The Center for Advanced Hindsight)の創設者、BEworksの共同創業者でもある。アリエリーがTEDで行ったプレゼンテーションは780万回以上閲覧されている。彼はまた『予想通りに不合理』(Predictably Irrational)『不合理だからすべてがうまくいく』(The Upside of Irrationality)の著者であり、これらの2冊は『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』(The Honest Truth about Dishonesty)とともにニューヨーク・タイムズにおけるベストセラーになっている。

・ばれる確率が低くなっても、ごまかしは増えない?
・共同で仕事をすると、不正が増える?
・偽ブランドを身につけると、ずるしやすくなる?
たいていの人は、不正をするのは一握りの極悪人だけで、自分は正直者だと思っている。しかし本当は、だれもがちょっとした「ずる」をしたり、嘘をついたりする。そしてその小さなごまかしが大きな不正につながることも。だったら、そのしくみを解明して、不正を減らす方法を探すべきなのでは?
この難問に行動経済学研究の第一人者ダン・アリエリー教授がとりくんで、不正にまつわる一見意外なさまざまな事実を見出した。たとえば、創造性の高い人ほどずるしやすいし、不正請求は書類の署名の位置を変えるだけで減らすことができるのだ。
ビジネスや政治の場にごまかしを持ちこませず、プライベートでも嘘のない関係を作るためのヒント満載。わかりやすい実例といくつもの実験で、不正と意思決定の秘密を解き明かす!
「悪いことをさせないためには情報の公開と厳重な罰則を科せばよい……という通念が覆される、スリリングでユーモラスな実験の数々。ストレスの多い日にはダイエットや禁煙をやめてしまうのはなぜだろう? “ずる"心理の謎を解き明かす筆致に引き込まれる」

今日のテーマは、「予想通りの不合理さ」です。
私が「不合理な行動」に興味を持ったのは、ずいぶん前に病院でのこと。私は酷い火傷を負ったことがあります。

病院で何年か過ごす間に、色々な不合理さが目につき、特に、火傷病棟で私の頭を悩ませたのは、看護師たちの包帯の剥がし方です。

さて、今皆さんはバンドエイドを剥がそうとしています。

さっさと剥がして、短いが激しい痛みに耐えるか、ゆっくり剥がして長めの穏やかな痛みに耐えるか、どちらがよいでしょう?

私の病棟の看護師たちの持論は、さっさと剥がす方で、かまえては引き剥がし、かまえては一気に引き剥がしたのです。

私の火傷は全身の70%に及びましたから、一時間はかかり、引き剥がす間のあの恐ろしい痛みが嫌でしたね。だから、ある時頼んでみました。

「もう少し、ゆっくりと剥がしてよ。2時間ぐらいはかけ、痛みを和らげられないの?」と。

看護師が言うには、自分たちは患者の扱い方を知っているし、痛みを抑える方法もわかっている。それに「患者」という言葉に、「助言」や「邪魔」をする意味はないと。私が知る限りでは、このことは万国共通のようです。

とにかく私にはどうにもできないまま看護師は同じように続けました。
それから3年後には退院して大学で勉強を始めました。

そこで面白いことを学びました。
自分が疑問に思うことを、抽象的な質問の形に作り変え、その質問の答を探ることで、この世界について少しヒントが得られることを知ったのです。

だから試してみました。

私はその時もまだ火傷患者の包帯の剥がし方が気になっていました。
初めは、あまりお金がなく、万力を買ってきて、研究室に人を集めて、指を間に挟ませ、少しだけ締めてみました(笑)

長めに締め付けたり、短めだったり、痛みを強めては弱め、しばらく続けたあとには少し間をあけて、痛みを与えるたびに、どう痛かったか?選ぶとすれば、どちらの痛みを選ぶか?と聞きました(笑)

しばらく続けましたよ(笑)

研究費をもらえるようになってからは、他の痛みも試してみました。
不快な音、電気ショック、拷問スーツまで。

そしてこれらの実験から、看護師たちが間違っていたことがわかりました。
看護師たちは、あれだけの善意と、経験を持ち合わせても予想通り間違うことを証明したのです。

私たちは、持続時間と痛みの強さを、同じ計りで計っていないようです。

もしゆっくりと包帯を剥がしていたら、ずっと痛みは軽減されていたでしょう。
より痛みの強い顔の方から脚の方へ包帯を剥がしていたら、苦痛は軽い方へ向かうのですから、恐らく痛みも和らいでいたでしょう。

また、途中で少し、休憩を入れてもよかったようです。改善の余地はありました。
しかし、看護師は知らなかったのです。

そこで私が考えたのは、これは看護師に限ったことなのか、もっと一般的に当てはまるのか、ということです。

答えは後者です。

私たちは多くの間違いを犯します。

この不合理の具体例の一つが、不正行為です。

ここで紹介する興味深い実験は、昨今の混沌とした証券市場にも、応用できます。

私がはじめに不正に興味を持ったのは、2001年のエンロン事件です。
一体何が起こっていたのでしょう。
これは、少数の悪い人間の行いなのか、それとも人間に特有の、誰もが犯しうる過ちだったのでしょうか。

そこで、いつも通り、単純な実験を、行ってみました。

皆さんに、紙を一枚配るとします。
簡単な誰もが解ける数学の問題20問です。
しかし、十分な時間がありません、制限時間は5分で答案を回収します。
一問正解につき一ドル払います。平均正解数は4問、平均4ドル渡しました。

次に、別の人たちにはわざと不正を働くよう仕掛けをします。

今度も、紙を配り、5分後にこう言います。

「紙を破き、ポケットか鞄にしまってください、そして、何問正解したかを教えてください」、正解は平均7問に増えました。

これは、少数の悪人が、たくさんズルをしたのではなく、実は、多くの人が少しズルをしたのです。

さて、経済学の理論では、不正は単純な費用便益分析の一例です。

捕まる確率は?不正から得られる価値はいくらか?捕まったらどんな罰を受けるのか?、これらを計りにかけます。

これが単純な費用便益分析です。
そして、罪を犯す価値があるかどうかを決めます。

そこで、次の実験では、持ち逃げさせる金額を変えてみました。

いくらなら盗むか、一問あたり、10セント、50セント、1ドル、5ドル、10ドルと変えてみました。皆さんは、金額が大きいほど不正が増える、と思うでしょうが、実際は違いました。

多くの人がわずかだけ盗んだのです。

また、捕まる可能性は?ある人は紙を半分だけ破き、証拠を残し、ある人は丸々一枚破き、ある人は粉々にして、部屋を出てゆき、100ドルは入っているボウルからお金をとりました。

ここでは、捕まる可能性が低い方が、不正が増えるようですが、同じく、違いました。
やはり、多くの人が少しだけ不正をしました。
つまり、経済的なインセンティブに反応しなかったのです。

このように、人々が経済の合理性に見合わない行動をとる、そこで何が起きているのか考えてみました。
私が考えるに、そこには2つの力が働いています。

一つは、自分の姿を鏡に映し出し、自尊心から、不正を抑えようとする力、もう一つは、少しだけなら不正をしても、自尊心はまだ保てるという力です。

つまり、超えてはいけない一線を守りながら、
自分の評価を傷つけない程度に、些細な不正から何かを得ようとするのです。

これを「私的補正因子」と言います。

この「私的補正因子」はどのようにテストできるでしょう?
また「私的補正因子」を減らすにはどうしたらよいでしょうか?
そこで人々を研究室に集め、二つの課題を与えました。

まず、半分の人に、高校時代に読んだ本を10冊、他の人には「十戒」を思い出してもらうように指示します。

ここでもまた、わざとズルをする細工をしました。

結果は、「十戒」を指示された人は、誰も10個全ては思い出せませんでした、でも、わざとズルができるようにしたにも関わらず、誰も不正を働かなかったのです。

これは、特に熱心な信者が、ズルをしなかった訳でもなく、「十戒」と無縁な人が、よりズルをした、訳でもありません、「十戒」を思い出そうとした瞬間すでに、不正はなくなったのです。

自称、無宗教者ですら、聖書に手を置き、誓いをたてると、不正を働く気はなくなったのです。

さて「十戒」は宗教的で、教育現場には不向きですから、倫理規定を使って実験を続けることにしました。

倫理規定に、「私はここに、この調査がMIT倫理規定の適用を受けることを理解しました」と、署名させ、それを破かせました。

この場合も不正はなくなりました。
しかし、面白いことにMITには倫理規定などはありません(笑)
これは全て「私的補正因子」を減らすために起こったのです。

それでは「私的補正因子」はどのような時に増えるのでしょう。
はじめに、私はキャンパスを歩き回り、6缶入りのコーラを様々な場所の冷蔵庫に置きました。

学部生用の共有冷蔵庫です。

私たちは「半生分のコーラ」と呼んでますが、どれぐらい保つか調べてみたのです。

おわかりの通り、それほど長くはありません。
しかし、代わりに6ドルをのせたお皿を、同じように冷蔵庫にいれても、一枚も無くならなかったのです。

され、これではよい社会学実験と言えません。
そこで私が先ほど説明した実験を、再度行ってみました。

今度は3分の1の人は、紙を私達に戻します。

また別の3分の1は、紙を破き、私達の所へ来て、「試験官、私はX問正解しましたから、Xドルください」と言います。

他の3分の1の人は、紙を破き、私達の所へ来て、「試験官、私はX問正解しましたから、X枚引換券をください」と言います。

つまり、お金で支払うのではなく、別の物で支払いました。
その別の物をもらい、12フィートほど歩いて行って、換金します。

直感的に考えてみてください。
職場から鉛筆を一本盗む時と、ちょっと10セントほど小銭を盗むのでは、どちらが罪悪感をより強く感じますか?

この二つには大きな違いがあります。
現金ではなく引換券であったならば、どう違うというのでしょうか?
実際、不正は2倍に増えたのです。

ここで私が考えたのは、この実験と証券市場の関連です。
もちろん、社会的な要素の強いエンロン事件のような、大きな事件の解決にはなりません、要するに、人は他人の振りをみているわけです。

事実、毎日ニュースをチェックし、人々の不正を目撃します。
そこからどんな影響を受けるのでしょうか?
そこで別の実験をしてみました。

大勢の学生を集めて実験協力謝金を、先に渡しました。
全員、お金が入った封筒を手にします。
そして最後に、正解できなかった問題の数だけ、お金を返すように言いました。

結果はさほど変わりません、不正を働く機会があると、人々はそうします。
しかも、多くの人が少しだけズルをするのです。

ただ、今回の実験では偽物の学生を一人混ぜ、30秒後に立ち上がらせ、こう言わせます。
「全部正解したら、どうしたらよいですか?」

そして試験官は全て終わったなら、そのまま帰るように言います。
これだけです。

さてこの偽物学生は、グループの中に溶け込み、誰も、演技をしていることは知りません、そして、もちろん皆真面目に不正を行うのです。

すると、グループの他の人はどうするでしょう?、もっとズルをするか、しないか?

結果はこうです。

実は、結果は着ているパーカーによって違いました。
つまり、この実験をピッツバーグで行いましたが、そこには二つの大学があります。
カーネギーメロン大学とピッツバーグ大学です。

実験の参加者はみな、カーネギーメロン大学の学生です。
演技をしている学生がカーネギーメロンの学生の時、実際、彼はそうでしたが、彼はグループの一員であり、不正は増加しました。

しかし、ピッツバーグ大学のパーカーを着てみたら、不正は減ったのです(笑)

これは大切なことです。

考えてみて下さい、学生が立ち上がった瞬間、全員がズルをして帰っても良いという認識をもちました。試験官が「全問終わったら、帰ってよい」というので、皆帰ったのです。

つまり、ここでもまた単に捕まる可能性が問題なのではありません、これは不正してもよいかの判断の基準が問題なのです。

同じグループの人がズルをし、それを見たならば、同じメンバーとして、ズルをしてもよいという気になります。

しかし、その人が違うグループならば、最悪な人たち、いや、この実験には最悪な人など本当はいませんよ、つまり、出来れば関係を保ちたくない人、別の大学の学生であるとかだと、急に、人々は正直になるわけです。

これは「十戒」の実験に似ていますが、ズルをする人は減ったのです。
さて、ここから何が学べるでしょう?、まず、多くの人が不正をすることはわかりました。しかも、ほんの少しだけズルをします。

ところが、モラルに少しでも触れたとたん、不正は減ります。
不正と少し距離が離れると、例えばお金以外のものだと、ズルは増えます。
そして周りの人がズルをしているのを見ると、特に同じ仲間だと、ズルは増えるのです。

これを、証券市場に当てはめてみると、どうでしょうか、多額のお金を他の何かで支払うと、つまり現実を少し曲げて、見るとどうなるでしょう。

この実験があてはまることが、おわかりでしょう?少し現金から離れたとたん、何がおこるのでしょう?

株券だとか、オプションだとか、デリバティブとか、土地担保証券だとかありますよね、こうして非現金のものを使うと、引換券ではないにしても、現金からは何段階も離れているわけで、長い目でみれば、人はよりズルをする傾向にあるのではないでしょうか?

さらに、このような他人の行動を見ることは、社会環境にどう影響を及ぼすのでしょう?、私はこれらの要因は全て証券市場では、悪い方へ向かうと考えます。

一般的には、行動経済学では、次のようなことが言えます。
私達は直観にかなり頼っていて、多くの場合その直観は間違っています。
問題は、そのような直観を省みるかどうかにあります。
自分たちが毎日の生活、ビジネス、特に政策決定の場で、直観をどう使っているか考えてみるのです。

例えば、教育制度だとか、新しい証券市場を作る時や、税制や社会福祉など、新しい政策を作る時です。そして、この直観を確かめる難しさは、私自身がよく知っています。

病院に戻って看護師たちと話した時、こんなことがありました。
包帯の剥がし方についてわかったことを教えると、二つの面白い答えが返ってきました。
私が好きだった看護師のエティは、まず、看護師の気持ちを考えてないと言いました。
エティは「もちろんあなたの痛みは当然だけど、看護師のことも考えてみて、大好きな人の包帯を取る辛さを、しかも何度、何度も繰り返し、苦しめ続けるのは、私にとっても楽なことではなかった」と。

ところが、それほど彼女を苦しめた理由は、もっと興味深い別の点にあって、「私は他人の直観が正しいと思ったことなどなく、自分の直観が正しいと思った」と続けました。

もし自分の身に置き換えてみれば、自分の直観が間違っていると思うのは相当に難しいことです。

そして、彼女が言うには、私が自分の直観を正しいと思ったように、彼女も自分の直観を正しいと思い、別の視点をもつのはほぼ不可能なことだったのです。

自分が間違っているかどうか考えもしなかった。
しかし、実際には、これはよくあることです。

私達はあらゆることを強い直感を持って判断しています。
自分の能力や、これから経済がどう動くか、教師にいくら給料を払うか。
しかし、この直観は確かめてみない限り、改善の余地はないのです。

もしあの看護師が自分たちの直観に疑いをもつことがあれば、私の病院生活はどれほど楽になっていたか、自分の直感をより体系的に、調べることができれば、物事はもう少し上手く運んでいたのではないでしょうか。

どうもありがとうございました。

(了)

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