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私は素敵な鳩です

ポーポポーポポ

怠慢に次ぐ怠慢、無眠と惰眠を繰り返した果てにある鳩。私は不適なヒト。

怠慢を打ち破る鳩のパワーたるや、と思ったけど今日流れ星みたからシンプルに機嫌が良くて腰が軽い。筆も軽い。スイスイス~~~イ。

デカイ流れ星だったし、そのあと樹を取り囲む三角の公園・都市伝説公園も見つけたし満点の毎日である。だいたい毎日満点。満点大笑い。

私の満点加減とは別にハト界も動いている。本題はハト。

先日Fred Oarao さんの『ポーポポーポポ』という曲に偶然巡り合った。あらゆる動画で賑わう現代において流れ星をみるような巡り合わせである。

聴きながら書く。

「私は素敵な鳩です」という魅力的な歌詞から始まるこの曲。私はよく考えて聴く必要があると感じた。

鳩というのは平和を始めとして多くのシンボル性を持つ生き物でありまして、神聖なものであるという捉えられ方の他にも、性的な象徴として受け入れられたり死と結びつく霊魂だと考えられたりしているのです。

しかし今回はこの「私は素敵な鳩です」をヒト目線で捉えずに考えてみたい。

まずは鳩を絶対的な存在として位置づける。このちきう上の頂点は鳩であると鳩もその他の生き物も思っている。もちろん私も思っている。ヒトが頂点だと思いこんでいるエゴ・サピエンスもいるみたいだけど、違う。

でもここで「鳩が頂点であると鳩自身が感じてしまっている」と、私ことエゴ・サピエンスが考えるのは大変浅はかではないか?と思い至る。

ゆえ、私はここで「「在る」ことが凄い」という前提を曲中の鳩は考えているのではないかと考えた。ヒトも大変素敵な文化を持っていて素晴らしい。私も種として憧れますね。そういうことです。「私は素敵な鳩です」というのは「在」を肯定しているのだと思う。イイナ。

しかしね、在のみが肯定されるべきものであるかと言われたらそうではないと思う。特に知らんけど、この世で無が追い求められてきた歴史もあると思うんすわ。マァ無も在るんですけどネ。他の生命体の皆様はいかがお考えでしょうか。


それはさておき。存在を肯定する鳩は、その後「あなたは鳩ではない」と他の種族に語りかけるパートに入る。ここについては、鳩が自己認識をするために他種族との区別をつけているだけであって卑下であったり賛美であったりするものは存在していないと思う。

BUT、ここからが私の謎だった。1週間は考えた。その間何も考えずにポーポポーポポ…と口ずさんだりもした。

「あなたは鳩ではない」と鳩に言われた他の種族は「しまった!(シマタ!)」と返答する。なにを失念していたのだろう。

どうしてもわからずに苦しくなった私は、信頼の置ける友人にこの悩みをひそかに打ち明けた♦

彼女は「みんな偽りの鳩を演じていたんやな」と言った。

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最高の解釈であるし、未読で置きつつも彼女の返信を見るたびに感嘆した。ハトアワードを贈呈。

しかしそうなると話が変わってくる。なぜ鳩になりすました他の種族を鳩が見破る必要があるのか。鳩でないと何か制裁をくらうのか、それともキャッキャしてるのか。キャッキャしててくれ。

ハトと他種族がキャッキャしている間に、私はどんなコミュニティであれ同じでなくともシマタ!で済ませたいな、などと考えた。私は素敵なヒトなので。実際、割とシマタ!で済ませている。シマタとも思ってない。思ってる。自我のブレ。ブレワイ。


今日は駅でじゃがりこの束を振り回す男性がいた。彼のじゃがりこは肩をかすめた。私がスーツを着ていても、スーツに着られていることをじゃがりこは見抜いたのであろう。シマタ!である。

その後バイトの約束に遅れそうになって天国と地獄流しながらスーツで駆けた。正直楽しかった。秩序の中にはスリルがある。時間守れ。多分だけどこの鳩の歌はもっと気を抜いて聴くものである。


最近は寒いのでシチューが食べたい。

閑話とともに眠る。おやすみなさい。




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