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令和3年9月30日 曇り

弓道 第三話

・・・或いはおれはあまりにも神経質にとらえすぎたのかもしれない。弓を引いて矢を放つということ。これは人間の最もプリミティブな行為だ。矢を放つ以上、なんらかのターゲットがなければ成り立たない。獲物を仕留めるのは生きるためであり、生きるのは愉しいから射るのだ。ああ、これが大乗仏教の教えというものなのか?弓道をすることはいきなりにして、弓禅一如、悟りの境地すなわち禅に達するということなのか?
しかし、弓道をはじめたばかりのおれにとって、愉しさなどというものは皆無に等しく、苦しみの連続であったのはどういうわけであろう?子供のようにただ思うがままに弓を引けば済むというものでなく、正しく引こうとすればするほど、まことに骨の折れるものであった。指導者のいうことを自分なりに理解し実践してみるも、その次には全く正反対のことを教示され、次から次と克服すべき課題が生じ、ただ困惑するばかりであった。この困難を乗り越えた先にはなにがあるのだろう?はたしておれの忍耐がくじけてしまう前に光明を見出すことが出来得るだろうか?まわりの者どもは何食わぬ顔してどうして易々と弓が引けるのか、おれにはどうしても解らない。
(ああ、もう行きたくない!面倒くさい!ぼくは胸板が薄い!お腹が痛い!家でごろごろしていたい!ついでに働きたくない!ビールが飲みたい!…)
(第四話へ続く)

双葉双一

※参考図書「弓と禅」オイゲン・ヘリゲル

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