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令和3年9月3日 雨

弓道 第一話

コンサート活動もままならぬご時世ではあるものの、おれはなにもただ手をこまねいて家であきらめ節を歌ってみたり、テレビジョンで東京オリムピックを眺めてばかりいたわけではない。そうだとも、おれはストイシズム精神に則り、世の中に疫病が流行する半年程も前から、雨の降る日も風の吹く日も、なんと弓術の稽古のため、村の道場に足繁く通っていたのである。そんなことしてどうなる、しがないギター弾きであるおまへの生活に一寸も関わりのない事ではないかだと?話は最後まで聞け。
超自然主義志向であるおれにとって、自身の霊能力を開眼させ、もう一段階上に行くために、なにかを始める必要があったとでも、ひとまず言っておこう。剣道でも柔道でももしくは茶道でも書道でも、およそ「道」と名のつく日本古来の伝統武芸であるならば、最後に辿り着く境地はどれも共通しているはずだと信じてやまないおれにとって、何を選択してもよかったのだけれども、たまたま新聞記事で見た初心者弓道教室に応募してみたら抽選に入り、はじめたのがきっかけである。
とはいえ、実の所、通うのがいやでいやで仕方がなかった。弦に弾かれ、顔や腕はミミズ腫れになるし、弓は裏返って精神を脅迫するし、時には意気揚々と放たれた矢は見事に的中するも、実はそれは隣の人のレーンの的で、まわりから失笑を買う羽目になるし、何よりもまず弓道着に着替えるのが面倒くさいし、貴重な時間を割いてまでこんなこと続けて一体何になるのだと自問をくりかえすも、ただやめる決心がつかぬまま、ほとんど指導者に叱られるためだけにマゾヒスティックに通っていたものだ。しかし苦痛の中にこそ快楽があり、習い事というものは姉のピアノ教室の代からいやいやながら通うものなのだ。おかげでどうだ、晴れてこのたび初段の免状を授与されたのだ。いやいやながら通った甲斐があったというものだ。しかしまあそんなことはどうでもいい。弓道でいう初段など、素人にうぶ毛が生えたくらいのものなのだ。自慢できるほどのことでもあるまい。(といいながらやっぱり嬉しかったりする)

おれが門下生となって弓道なるものをはじめて見たときの感想を話そう。
それはあたかも、人間が運動しているようには思えない、機械的で無機質な、一種の異様な不気味さを醸し出しており、昔、世田谷文学館で見たムットーニのからくり人形でも見ているような、不思議な感覚におそわれたものだ。なによりも体の動きがゆっくりしすぎているように感じたのだ。矢を番(つが)えてから実際にそれを放つまでのあいだにいくつもの行程があり、まるで時間が無限大に浪費されているようなのだ。そんなにもたもたしていたら構えているあいだに敵に斬られちまうではないか?
・・・しかしもちろんのこと、実際は誰にも斬られちまうようなことはなかった。(第二話へ続く)

双葉双一

※参考図書 「いやいやながら医者にされ」モリエール







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