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「老い」に追いかけられてー老いてもわからぬ「老い」

先日ふと思い付いたことを以下に書き連ねてみる。もちろん細かな推敲などしていないので、論旨も支離滅裂の可能性があるので、いわば「うわごと」のようなものである。
 
人は皆、老いる。誰も老いは避けられない。人は生まれると同時に老いはじめる。生まれたばかりの頃はもちろん、「若い」と言われる頃は自分が老いはじめていることに気づかない。老いとは何かもわからない。けれど老いは確実に近づいてきている。
 
そしてあるとき、人は老いに気づく。通い慣れたいつもの街角を曲がったとき、その角の後に老いの気配を感じる。この例えはあまりにドラマチックかもしれない。しかし、老いの気配を感じる瞬間は不意にやってくることが多いのではないか。やがて老いの気配を感じる瞬間は、自宅にいても職場にいても何をしていても思いもよらぬときにやってきて、老いの気配に戸惑い、老いを避けようとする。
 
ところが、老いを避けようにも、老いとは何かもわからず時間だけが虚しく過ぎていく。最近ネットや新聞の活字が見づらくなってきた。人の会話やテレビの音声がよく聞こえない。足腰に痛みを感じて歩くのが億劫になってきた。覚えていた言葉や人の名前が思い出せない。
 
視力や聴力の低下、足腰の不具合、記憶力の減退、これらの症状は老いによって引き起こされた可能性はあるかもしれないが、老いそのものではない。何らかの治療や投薬で一時的に症状が軽快したとしても、遠からず再発するかもしれないし、別の症状が現れてくる可能性も少なくないだろう。ある種のモグラたたきのようなものだ。人はモグラをたたき続けていつか疲れ果てる。
 
ふつう歳を重ねることが老いだと言うが、それは人それぞれであって、老いが何であるかの答えにはなっていない。けれども、老いが何であるかはともかくも、最初の老いが近づいてくる気配はやがて、老いに追いかけられる感覚へと変化してくるのではないだろうか。
 
追いかけられると人は逃げようとする。クマと出逢ったとき、クマを背にして逃げるのではなく、クマを見ながら後ずさりするのが良いという。クマから逃げようとすると後からクマに襲われるのだという。
 
老いも同じではあるまいか。老いに追いかけられていると思うと、人は本能的に老いから逃れようとする。しかし、どんなに逃れても老いは追いかけてくる。あえてパラドックス風にいうと、「アキレスと亀」あるいは数学で用いられる「極限への収束」のようなものかもしれない。
 
クマと対峙したときのように、老いにも対峙するのが最良の対処法なのかもしれない。しかし、どんなに老いと対峙し、老いを理解しようとしても、老いはやはりわからない。自分の老いと他人の老いを比較して、気持ちに一区切りをつけたり気分を安らかにしようとしたりする。
 
何にせよ老いとは身心(「心身」よりは「身心」の方が適切に思う)ともに不都合が集積してくるものである。だから、老いの「現象論」は世に数限りなくあるだろうが、老いの「本質」を説いた書物はあるのだろうかと問いたくなる。
 
多くの人は老いの終着点を死に置いているかもしれない。けれども、死は老いの終着点ではありえない。先ほどのパラドックスは学問上決着がついているそうだが、仮に老いが自分に追いついたとき、人は死を迎えるのだろうか。
 
そうではあるまい。それは死であって、老いの集積が死ではない。そもそも老い(の現象)がどこまで集積できるのかなんて誰もわからないし知らない。われわれは皆、老いの集積に戸惑い悩みながらも生き続け、ある日、死を迎えるのである。
 
わたしの場合「先天性心疾患」を持つ身なので「心不全」という症状で死を迎える可能性が高いだろうが、死亡診断書に記される「心不全」は一つの現象であって、老いの集積の可能性はあったとしても、老いそのものの結果と断定することはできないように思われる。
 
よく高齢者は高齢者の身体や気持ちは高齢者になってみないとわからないと言う。この説明は現象論として正鵠を射ているだろうが、老いの本質を捉えているとは思われない。「老い」は老いてもわからない。老いと向かい合いながら生きていくしか道はない。
 
最後まで読んで頂きありがとうございました!
 
冒頭の画像:ハルジオンの花(かな?)(2024/04/28撮影)

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