見出し画像

「夫と同じことをしない」ことを選べるようになった

夫婦で共に歩むということはどういうことだろう?


私達夫婦はもうすぐ結婚一年を迎えようとしている。嬉しいことに2月には新しい家族も加わった。家族としての形も変わり、生活も一変した今だからこそ、夫婦としての歩みについて思いを巡らすようになった。

私の夫はキリスト教の”牧仕”をしている。(牧師ではなくて牧仕なのは、教える人ではなく仕える人でありたいという願いで、本人が使っている言葉。)少々風変わりな働きで、教会という建物を持たずに、会いたいと言ってくれる人のところに会いに言って話をする。彼の内なる願いは「自分の大好きなイエス・キリストのことを一人でも伝えたい」ということ。聖書やキリストのことについて一切話をしないで終わることもあるが、いつかイエス・キリストと出会って欲しいという願いを持って、目の前にいる方の必要としていることに応えていく。
そんな真っ直ぐな想いと、行動力を持っている夫を心底尊敬し、また憧れに似た思いを持って彼と結婚した。

結婚当初の願いは、「私も一緒に会いに行くこと」だった。口下手で、外に遊びに行くよりも家で過ごすことの方が好きな私にとって、「会いに行く」ことはそれこそ憧れだったのかもしれない。
そして、妻として相手に何ができるのかということを考えた時に、「一緒に活動すること」が夫を支えることだと思ったのだ。

でも彼と同じように人と会いに行き、同じように活動することはできないということを、一年近く共に過ごして痛感した。近くで見ていてよくわかるのは、彼にとって最優先にしているのは”人”であるということ。だからこそ、たとえ遠くに住んでいる人にも会いに行くし、連絡がくれば可能な限り早く返信するし、人を想って心を遣い、頭を悩ませている。それに対して私は、その日のご飯を美味しく作るにはどうすればいいのかとか、床に溜まったほこりのことについてすぐに思いが向かう人間なのである。だからこそ、夫の思いは理解しているつもりでも、夫がリビングの床に脱いだ服を置きっぱなしでスマホに向かっている姿なんかを見ると、ついついイライラしてしまう。

初めは、そんな自分が嫌だった。私も夫のように”誰かのために生きる生き方”をしたいのに、それが出来ていないということがずっと心に引っかかっていた。
”私も何かを始めなくてはいけない”、そんな焦るような思いが心の中留まったまま、出産を迎えた。

生活のなかにある喜びに気付くことで、焦りが消えた

生まれたての子どもとの生活。

それは私の生活だけではなく、考えも心も一変させた。
寝たいときに寝て、起きたいときに起きていた生活は、子どものリズムに合わせるようになった。”何かを始めなければ”という思いは、大声で泣く乳飲み子の必要にただただ応えることでかき消された。ともかく毎日が必死で、一日が終わる時には「今日も無事に終わってよかった」という思いになった。
でも、子どもと過ごす時間は大変なだけではなく、大変さを上回る喜びがあった。その喜びに気付いた時に、料理や洗濯、掃除といった家事をすることもまた、決して瑣末なことではないということに気付いた。これら一つひとつも家族の生活を支えること。そう気付いたときに、”何かを始めなくては”という焦りは完全になくなり、目の前のことを楽しめる余裕がでてきた。

夫婦だから、同じことをしなくてはならない。あるいは完全に分担しなければならない。そんな思いを捨てようと思った。
互いに同じことをしなくてもいい。それぞれが喜んでできること、得意なことが違うのだから。時には夫に「今日は洗濯して」とお願いしたり、夫も私に何か頼み事をしたりする。そんな風でよいと思った。
夫がよく言っている「互いに互いを輝かせられる存在」になるには、まだ時間がかかるのかもしれないけれど、いつも互いの幸せを願っていたい。

もうすぐ結婚一年を迎える。これからも夫婦で共に歩むということについて、理想をちょっぴり掲げながら、その日その日を楽しんで過ごしていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?