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自分らしく生きることがわからなくても

時折、「あなたはあなたらしく生きればいい」という言葉を聞く。その言葉を聞くたびに、ある種の戸惑いを感じてしまう。それはまるで真っ白なキャンバスを渡されて、「自由に描いていいのよ」と言われた時のような。

あまりに多くの選択肢と可能性の中から、たったひとつの正解を見つけ出さなければならないような居心地の悪さを感じる。

先日、締め切りが近かった文章の執筆が無事に終わったので、娘をベビーカーに乗せて散歩に出かけた。5月も中旬に差し掛かり、暖かい風を素肌に感じながらわけもなく幸福感に包まれた。

このようにライターとして働き始めたのはここ最近のことである。前は営業職をしていた。

「人と接する仕事をしなければ」
そんな妙な義務感が、私に営業職を選ばせた。
圏域の某携帯ショップを周り、来られるお客さんにネット回線を勧める日々。毎日人と喋り続けていた。決して人と接することは嫌いではない、と思う。ただ同期の仲間が進んで残業し、どんどん成果を上げている中で、私はとにかく早く家に帰ることだけを考えていた。そして毎朝のように「なぜこの仕事をするのか」という疑問が浮かび、ありきたりな言葉で自分を納得させながら仕事場に向かっていた。

自分が苦手なことを克服することによって、自分が願う未来に近づけるのだと思っていた。
私にとって苦手なことは「人と対面で接すること」であり、その課題をクリアすることによってのみ、次のステージに進めるのだと思っていた。

でも結婚を機に関東に引越しすることとなり、あっけなくこの営業職を手放した。その時、実は心底嬉しかった。

そして結婚し、「あなたの文章が好き」だという夫の言葉に励まされて文章を書く仕事を始めることになった。文章を書くことは幼い時から好きだった。日記を書き始めたのは小学生の頃だったろうか。空白の期間はあるにしても、その習慣は今も続いている。

でも文章を書くことが好きだということを気づく間もなく、私は神学校に入学し、自分の信じるものを人に伝えたいという使命感と、幾分狭量な考えを持って卒業した。そして次のステージとして選んだのが営業職だったのだ。

話が前後してしまったが、こうして夫の励ましと幸運によってライターとして仕事を始めることになった。文章を書くことはとにかく楽しかった。苦手な分野もあるにしろ、その時「なぜこの仕事をするのか?」と疑問に思うことはなかった。文章を書くという行為自体に喜びを感じていたし、それが仕事になることやひいては誰かが喜んでくれることが信じられないくらい幸せだった。

ずっと長い間、クリスチャンだから人と直接会って福音を伝えないといけないとか、何か奉仕活動をしなければならないと思っていた。
でも今なら素直に認めることができる。そのように生きようとすることは私にとって苦しかった。私の本来の性質に合わないからだ。それはいつもどこかで無理をしながら、ギリギリ及第点をもらって進んでいくようなものだった。

今自宅で仕事をして、必要がなければほとんど人と会わない生活をしているが、とても幸せだ。単調な中にも心地良さと、自分なりのやりがいを感じている。

自分らしく生きることがなんなのかわからなくても、自分が心地よいと思える生き方なら見つけられた気がした。そしてそれが、自分本来の性質に合った生き方なのではないかと思う。そして神を信じるわたしは、きっとそれが、「神さまが創られた私」らしく生きることなのだと思う。


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