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「好き」という気持ちに自信がなかった

有生の大学生の時の友人で、イヤンギさんという方に会った。
彼はブラジル人で、留学生として日本に来られそのまま日本で就職した。
有生曰く、「カメラ小僧」の彼は、ひょろりとした風貌で、その日もフィルムカメラを肩にぶら下げて現れた。
その日も、江ノ島付近の写真撮影をしていたようだ。

挨拶もそこそこに熱っぽくカメラについて語るイヤンギさんが、フィルムカメラと出会ったのは大学生の時。
先輩がくれたフィルムカメラを何気なく触っているうちに、のめり込むようになった。
それから、時間があれば写真を撮り、就職先もカメラに関連のあるSONYに決めた。

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見せてもらった写真は、素人目とは言いながら美しいと思った。
「コンテストに応募したりしないのですか?」
そう尋ねると、彼はそんな自信はないのだと答えた。
でも、楽しそうにカメラについて説明してくれるイヤンギさんを見ていると、
コンテストに受賞したり、有名になったりすることよりも、ただただカメラが好きでたまらないということが伝わってきた。

そんなイヤンギさんを見ながら、少し羨ましい気持ちになった。

昔から、自分の「好き」という気持ちに自信がなかった。
子どもの頃から、自分は絵を描くことが好きなのだと思っていた。
そして通った大学で日本画を専攻したが、自分には合わないと思い、途中で洋画に手をだし、彫刻も作り、最終的に写真を撮って卒業した。
この音色が好きだと思って始めたアコースティックギターも、半年程レッスンに通ったきり、次第に弾かなくなった。
私の「好き」とは、すぐに止めてしまう程度のものであったか。
次第に、「好き」なものを「好き」と言うことを躊躇うようになってしまった。

「好き」なものを「好き」と言い、その気持ちに正直に生きられる人が羨ましかった。

実は夫に対しても、同じような憧れを持っていた。
有生がいつも口にしている、
「イエスさま大好き」

何の恥じらいもなく、そう言葉にできることも、
その心に正直に生きられることも羨ましかった。

でもある時、有生がこんなことを言っていた。
「この気持ちがいつまでも失くならないのが不思議だ」
「これは神様が与えてくれた気持ちなのだ」と。

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その言葉を聞き、私はハッとした。
いつしか自分の「好き」を取るに足りない物だと思い、温めることも、更に発展させることもしなくなっていた。
でもその「好き」という心も、神様が与えてくれたものなのだ。
世界にたった一人の存在として、特別な計画をもって創られた存在。
それが私であり、あなたなのだ。

「好き」という気持ちには、神様が用意してくださった素晴らしい計画を知るヒントが隠されているのかもしれない。
その気持ちを無視して、他の誰かの興味関心を追ったとしても、本当に満足のいく人生は得られないだろう。

そんなことを考えながら、自分の「好き」という気持ちが、とても大切なものに思えた。

「好き」なものに向き合い、そしてその「好き」を表す生き方をすること。
もしかすると、いつしかそんな生き方は、誰かの心を幸せにするのかもしれない。

いつかは、気持ちが変わることがあるかもしれない。
ずっと好きだった対象が、別なものに変わるかもしれない。
それとも、もっと、気持ちが深まることもあるかもしれない。

それでもいいのだ、と思う。

自分の気持ちに忠実に歩むというよりも、もっと大きな存在に自分自身を委ねながら
今与えられている気持ちを大切にしていきたい、そのように思った。

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(記事の中の写真は、全てイヤンギさんの写真を使わせていただきました。ありがとうございました。)

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