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〔評論〕わたし・小説・フィクション/『ビリジアン』(柴崎友香)と、いくつかの「わたし」たち

古谷利裕


1.話者と登場人物


 一人称の視点を用いて書かれたとしても、話者と登場人物との間にズレが生じることは、多少なりとも小説という形式に自覚的である人なら知っている。極めて常識的な一人称視点の小説において、語る「わたし」は、語られるわたしよりも時間的に後に位置することになるだろう。その時わたしは深い緑色の水面を見ていた、と語る「わたし」は、水面を見ているわたしより未来に位置していて、水面を見るという行為が既に完了している位置から行為する過去のわたしについて語っている。

 ただし、今、わたしは水面を見ている、水面は、今、深い緑色の光を反射している、と一貫して現在形を用いて書かれる小説もあり得る。しかしそのようにして時間を一致させたとしても、水面を見るという行為を行っているわたしと、その行為について語っている「わたし」とは完全には一致しない。たとえば、わたしは今、そうとは意識せずに右手を頬にあてる、とも語り得るという事実により、両者の分離ははっきりするだろう。わたしは今、わたしについて語っている。わたしは今、わたしについて語るわたしについて語っている。わたしは今、わたしについて語るわたしについて語るわたしについて語っている。このような形で文を連ねても、語る「わたし」は、語られる(行為する)わたしから半拍ずれていて決して追いつかないように感じられる。

 一人称を用いて書かれる小説において、語る「わたし」はフィクションの地をかたちづくり、語られるわたしはフィクションの図をかたちづくると、とりあえずは言える。語る「わたし」は、語られる言葉の背後にいて、語られるわたしは、語られる言葉の内部にいる。わたしは深い緑色の水面を見る、という言葉の発信源である語る「わたし」と、その言葉によって立ち上がる、水面を見るわたし。言葉そのものを立ち上げている(ということになっている)「わたし」と、その言葉によって立ち上がっているわたしという、二重化されたフィクションとしてのわたしを、小説を書く作者は言葉を書きつけることを通じて立ち上げていることになる。

 本稿ではそのような、フィクションとしてのわたし、あるいは、わたしのフィクション性について考えるために、柴崎友香によって書かれた『ビリジアン』について考えていきたい。しかしその前に、小説という形式の特性を考える手がかりとして、小説ではない、いくつかの「わたし」を揺るがす作品=装置の例をみてみたい。

2. 「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」


 まず、二〇一六年五月二八日から二〇一七年三月一二日の間、初台にあるインターコミュニケーションセンター(ICC)で行われていた「オープン・スペース 2016 メディア・コンシャス」という展覧会で展示された二つの作品についてみてみる。

 一つ目は津田道子による「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」という作品。同じ大きさの十二個の枠(フレーム)が天井から宙吊りにされ、奥にある展示室へと向かう通路のようなオープンなスペースに配置されている。このフレームのうち、四枚は中味のないただの枠で、四枚が両面ミラーになっており、三枚が半透明スクリーン、一枚が片面がミラーで片面がスクリーンになっている。会場には四台のカメラとプロジェクターが設置され、カメラで撮られた映像がプロジェクターによって四枚のスクリーンに投影されている(半透明スクリーンは裏側にも反転された映像を映す)。三枚のスクリーンにはカメラによって撮られているリアルタイムの映像が投影されているが、一枚に投射される映像は時間がズレている。

 

 配置されたフレーム群は、フレームとフレームの間の空間を作り出す。観客はそのなかに入りこみ、フレームの間を移動する。そしてその都度、フレームで縁取られることで異化された現実空間、カメラとプロジェクターによって位置や時間をズラされた空間、そして鏡に映る自分自身とその背後の空間などの、異なる限定的視点を切れ切れに経験しながら移動してゆくことになる。場所によってはフレームとフレームが重なってより複雑な空間を出現させ、場所によってはどこかのカメラによって撮影されてスクリーンに投影された自分の後ろ姿をふいに見せつけられもする。つまり、現実空間上での身体(視点)の物理的移動の感覚(自然に想定されている感覚)と、フレームたちによって引き起こされる想定外の視点の切り替えとが食い違い(視点の切り替えは不連続で唐突だ)、その食い違いによって生じる軽い混乱のなかで、想定外のタイミングで、想定外の角度からの自分自身の像と出会うという出来事が経験される。

 ここでは、自分が身体を伴って入り込んでいる三次元の空間が、不連続的にモンタージュされた映画のようなものに変質してしまっている。さらに、現実的時空が不連続的なものへと変質してしまうという経験のなかで、ふいに、普段鏡などで見かける時とは異なるやり方で自己の像と出会うことになる。つまりここでは、自己(像)との出会い直しが生じると言える。このオープンなスペースのなかには、わたしだけがいるのではなく、作品を観る他人の身体も存在する。そして他者もまた、フレームの配置によって不連続化した空間のなかにある。だからここでは、自己像を他人のように再発見し、他人の身体を自分のもののように再発見することにもなる。

 津田道子はこの作品について、ICCのウェブサイトにあるインタビューで英語の直接話法と間接話法の違いという例を用いて、フレームとはコーテーション("")であると説明している。直接話法ではたとえば「She said "I have to go there right away."」と表現される内容が、間接話法では「She said that she had to go there right away.」となる。コーテーションによって、「she」であるものが「I」になり、コーテーションが外れることで、「I」が「she」になる。配置されたフレームの働きによって話法の変換が起り、感覚的にもこのような主体の変換が可能なるのだ、と(注1)。

3. 「私のようなもの/見ることについて」


 谷口暁彦の「私のようなもの/見ることについて」は、Unityというゲーム制作ソフトを用いてつくられたインタラクティブな作品で、同じく「オープン・スペース 2016 メディア・コンシャス」に展示されていた。作家である谷口暁彦の全身を3Dスキャニングしてつくられたキャラクター=アバターを操作して、ゲーム空間内に散らばっている「見ることについて」省察したテキスト群を散策してゆく。

(たとえば次のようなテキストが、ゲーム空間内にばら撒かれている。《古本屋で買った本を読んでいて、ページの端を折ろうとしたら、前の持ち主が折ったのであろう、三角の折り目の跡が残っていて、僕はその折り目にそって再び三角にページを折った。/この本を読んでいた時の、前の持ち主の思考の一部が、ページの折り目を介して僕の中で再生されているような居心地の悪さ。》)

 ただし、百二十度程度に開かれた二つの壁面に、同時に二つのゲーム画面が投影される。一方の画面は、あらかじめ作者によって操作されたゲームの進行を自動的に繰り返すもので、キャラクターが自律的に動く。そして、もう一方の画面のキャラクターを、観客がスティックを使って操作することが出来る。ゲーム画面は、キャラクターの主観的な一人称視点であり、キャラクターは自分自身の身体を自分では見ることができない。しかしここで、まったく同じ身体をもった二人のキャラクターは、リアルタイムでゲーム空間を共有している(二つの画面は、一つの同じ世界を見る二つの視点であり、ゲーム空間には二人の谷口暁彦アバターがいる)。つまり、一方が他方の目の前を通り過ぎれば、他方の視点であるもう一つの画面にその姿が現れる。

  スティックでキャラクターを操作し、二つの画面を同時に観ている観客は、自分自身が操作する主観的視点と、他人によって既に操作された主観的視点を同時に見ていることになる。そして、その二つのキャラクターは似ているだけでなく、データ的にまったく同じ身体をもっている(向かい合って、互いを見合うこともできる)。

 以下は筆者の得た体験であり、同じ体験が必ずしも他の人の元で生じるとは限らないのだが、スティックによるキャラクターの操作に夢中になっている最中に、ふいに、もう一方のキャラクターの視線のなかに自分が操作するキャラクターが映り込んだ時に、わたしが谷口暁彦の姿になって「そこ」にいる、という強い感覚を得た。わたしという、今ここを定位するポインターが、ほんの一時「そこ」へと移動した。

 通常ゲームでは、完全な一人称視点はむしろ珍しく、わたしが操作するキャラクターの像(身体)が画面に映し出されている場合の方が多い。その時、ゲームに没入することで比較的容易にわたしという感覚がキャラクターである「そこ」に移動することは知られている。しかし、この時の感覚はそれとは異なり、わたしが、他者の視点によってふいに捉えられることで「そこ」に移動したのだった。通常のゲーム画面において、操作するわたしが操作されるキャラクターに移動するのは、わたしがわたし自身を後方斜め上くらいから見ているような感覚だろう。これは小説にたとえると、三人称一視点で書かれる感じに近いかもしれない。しかし、谷口作品によって経験するわたしの移動は、わたしが川の対岸に移動するというか、対岸にわたしがいることをふいに発見するという感覚に近い。つまり、より切断が大きい、より遠いところに、わたしという感覚がいきなりぽーんと移動したのだ。

 何故そのようなことが起ったのか。筆者は以下のような仮説を考えた。まず、二つのスクリーンがあり、どちらも行為する身体の主観的視点を表していると感じられる。しかし一方は自律的に動く主観的視点であり、他方はわたしが操作できる主観的視点である。一方が操作可能であるので、操作性を通じてそちらの視点にわたし(内的な感じ)が移動する。それが、他方の操作不可能性を際立たせ、他方の視点に他者性が付与される。しかし、本来うかがい知れないはずの他者の視点を、自分の視点と同等に見ることができてしまう。見ることができてしまう他者の視点は、映像のようなものとして半ば三人称化(客観化)される。身体を有し他者性を有したまま半ば客観化されることで、誰でもない「誰か」の視点のように感じられる(ホラー映画的な「誰か」の視線)。しかしその誰でもない「誰か」の身体を、もう一方の視点は見ることができる。そして、その「誰か」とまったく同じ身体をもった者が、その「誰か」の視点によって捉えられる。

 この時、他者性と客観性を同時に帯びた一方の視点=スクリーンを見るわたしの視線1と、キャラクター=アバターの操作を介して内的な感じが付与された視点=スクリーンを見ているわたしの視線2という二方向へ分岐したわたしの視線が、他者性と客観性を帯びた方の視点=スクリーンに捉えられたキャラクター=アバターの像の上でぶつかることによって、その位置にわたしを強く感じた、のではないか。

4. 「Recursive Function Space」


 もう一つ、名古屋市立大学芸術工学部、小鷹研究室の、小鷹研理と森光洋による「Recursive Function Space」というVR装置をみてみたい。なお、筆者はこの装置を実際には体験しておらず、ステイトメントとチュートリアル映像から推測して考えているということを記しておく。


 この装置もまた、今ここを立ち上げる原基であるはずの「わたしの存在する位置」の揺るぎなさを壊し、他へと変換するための装置だと言える。そしてここでもまた、作者の一人である小鷹研理の(この場合、バストサイズの)アバタ―が使用される。

 椅子に座りヘッドマウントディスプレイを装着すると、実際のその場所にそっくりなVR空間があらわれる。左右の手にコントローラーをもつ。すると、左手の上には、今、自分がしている姿勢と同じ姿勢の(動きが同期する)二分の一サイズの小鷹アバターが乗っている。自分の頭部の動きが手の上に乗った小鷹アバターへ変換されて、それを背後から見ている感じになる。そして右手の上には、こちらを向いた二分の一サイズの小鷹アバターが乗っている。こちらも動きが同期していて、他者から見られた自分の動きを表す。さらに左手の上に乗っている小鷹アバターの右手の上にも、サイズ四分の一の、逆を向いた小鷹アバターが乗っている(図3)。おそらくこの時、体験者は自分のもつ動きの感覚と動きが同期している小鷹アバターをわたしだと感じると思われる。

 この状態で、両腕や頭部を動かすことで、自分の行う「動き」が、様々な方向から見られたものへ、様々なサイズのものへと変換されて、空間のなかへ散らばっていく。その動きの何処に自分がいるのか、かなり混乱すると思われる。

 さらに、そこで右手のコントローラーのレバーを操作することにより、視点が右手に乗った小鷹アバターの位置からのものに変換される。つまり、視点が逆側に切り返され、右手の上に移動する。変換されたその時の感覚を、実際に経験することなく思い描くのは難しいが、チュートリアル映像で観られる体験者たちの反応をみるかぎり相当に強烈であることが予想される。

 さらにこれを発展させた「RFS 2.0」というバージョンもある。「RFS」の階層構造に、ひとつ上のレベルを付け加える。つまり、今ここにいる実際のわたしの背後に、わたしを操作するもう一つ階層上位の存在がいて、その上位存在に左手の上にわたしが乗っていると想定するような空間が構築されている。この上位存在は、わたしの二倍のスケールをもつように設定される(図4)。そして、その上位存在へと視点を変換する。これはまさに、幽体離脱のような状態を人工的に作り出す装置であり、それは同時に、このわたしの唯一性、そしてこの世界の唯一性からの脱去のような経験を構成するのではないかと予想される。
(筆者が実際に経験していないということもあり、この装置によって予想される感覚を本稿において充分に記述し分析することは困難だ。)

5.「わたしの位置」への揺さぶり、変換


 ここまでにみてきた三つの非小説的装置はすべて、外側から観賞するのではなく、体験者における「わたしの位置」に対して直接的に働きかける作品だと言える。それはたとえば、ジェットコースターという装置が、それに乗る人の体性感覚や重力感覚に直接的に揺さぶりをかけるのと同じように、作品を体験する人の「わたしの位置」に揺さぶりをかけようとする。体験者は作品のなかに、自らの身体をもって入っていく。

 しかし小説は言葉で書かれるので、その世界のなかに物理的に侵入していくことはできないだろう。とはいえ、問題にされるのは身体あるいは身体感覚そのものではなく、通常、「この身体」に分かちがたく付着している「このわたしの位置(「このわたし」という感覚のある場所)」というポインターであるので、ジェットコースターにおける高い位置からの急降下というような、身体に対する物理的揺さぶりとは別の仕掛けが必要となる。

 「この身体」と「このわたし」とを分離させ、「このわたし」に別の身体との出会い直しをさせようとする装置。それは、「このわたし」の唯一性を緩めてフィクションとして再構成させようとすることでもあろう。あるいは、そもそも「このわたし」はフィクションであることを示そうとするものであるかもしれない。

 津田作品では、自己像と、通常の空間内では出会うことのない想定外のタイミングや、あり得ない角度から出会う。そして、そこで出会う他者の身体像もまた、フレームによって切断された不連続的モンタージュのなかで、自己像と同様に想定外のタイミングで現れる。これらにより、自己像の自分にとっての特権性が緩み、他者像と交換可能に感じられたり、自己像に付着するナルシシズムが外へ流れ出るかのような経験を得る。

 谷口作品では、ゲーム空間への没入と、二つの主観的視点の併置により、「わたしの身体が他者のまなざしによって発見される」という出来事を「わたしが見る」という不可能な事態を成立させる。この、対岸にわたしを発見するかのような出来事は、「このわたし」というポインターがどこか特定の場所に固定されてあるという概念を切り崩す。しかも、そこで発見される自分の身体は、まるで自分に似ていない(スキャニングされた作家の身体だ)。他人の身体の上に発見されるわたし。

 小鷹+森のVR装置では、わたしの手の上に小さなわたしが乗っており、その小さなわたしの手の上にもさらに小さなわたしが乗っている。そして、それらとは逆向きにわたしを見ているわたしもいる。これらのわたしがすべて、わたしが意識する頭部や腕の動きと同期して動き、さらに、視点が逆の向きのわたしや、より上位のわたしへと移動する。この、わたしのフラクタル的増殖と特定の位置の消失は、ポインターとしての「このわたし」の在り処を切り崩すだけでなく、位置や距離を可能にする空間構造そのものの変質を伴うようにさえ思われる。

6.『ビリジアン』、十二歳と十四歳


 『ビリジアン』は、二十の掌篇からなる連作小説で、二〇〇九年から二〇一〇年にかけて連載され、二〇一一年二月に出版された。山田解と呼ばれる人物の一人称によって、十歳から十八歳までの出来事が、時間の順序に従うのではなく、自由に前後しながら散発的に描きだされる。舞台は特定されないが、作家の出自に関する知識が多少でもあれば、主な舞台となる街が作家の出身地である大阪市大正区であることは容易に推定できる。また、作中で書かれる出来事との照合により、主人公の山田解が作家と同年齢であることも確認できる。本作は、柴崎友香という作家がもっとも私小説に近づいた作品だと言えるだろう。作家の実体験がどこまで反映されているかはともかく、少なくとも、そのように読める(読まれる)ということを意識して書かれた作品であるとは言えるだろう。

 十歳から十八歳までの出来事が描かれると書いたが、どの年齢も二回から四回とりあげられているのに、二十ある掌篇のなかに、十二歳と十四歳のエピソードが存在しない。十三歳のエピソードが描かれる「花火1」において、《十二から十四歳まで、夏は爆竹に明け暮れていた》と書かれているので、辛うじてこの二つの年齢がまったくの空白にはなっていないが、十二歳と十四歳のことはここにしか描かれない。そしてその意味は、前後の年齢のエピソードを読むことである程度察することができる。おそらく山田解にとって、十二歳と十四歳はネガティブな記憶に染められてしまっている年齢であると推察される。

 しかし、十二歳と十四歳の欠落は、普通に読み進めていくとなかなか気づかない。それは本作が、掌篇の連作として書かれ、第一回「黄色の日」(十一歳)、第二回「ピーターとジャニス」(十八歳)、第三回「花火1」(十三歳)…、というように、描かれる年齢がランダムに前後しているように感じられるからだ。出来事を切り取る二十のフレームは、時間の秩序とは別の配置で並べられている。もし、エピソードが年齢の順番通りに並んでいたとすれば、二つの年齢の欠落は自然に気づかれることになるだろう。さらに、スケッチ的な掌篇(点景)の連なりである本作では、各篇同士のつながりは薄く、連続性よりも不連続性が際立っており、空白(描かれないこと)だらけとも言えるので、何かが欠落しているということがあまり目立たない。つまり、本作の形式が、二つの年齢の欠落を隠しているとも言える。

 しかし、逆に考えることもできる。二十の断片のすべてで、その出来事が何歳の時に起こったのかがほぼ分かるような書き方がなされている(最初の「黄色の日」以外は、時節も狭い範囲で特定できるように書かれている)。この律義さこそが、二つの年齢の不在を明らかにしているとも言える。だから、二つの年齢の欠落は、あからさまに提示はされないが、隠されているわけではない。二十の掌篇を、ただ前から順に読んでいくという読み方ではなく、それぞれに独立したフレームで区切られた二十の断片たちの関係を、並んだ順番を越えてみていく時に、その欠落が自ずと明らかになるように書かれている。むしろ欠落は、ひっそりと息をつめながら、発見されるのを待っているかのようだ、とも言える。

7.想起と断言


 本作の二十の掌篇が、時間の順番通りに並んでいない最も大きな根拠は、それが思い出された記憶として語られているというところにあるとまずは考えられる。人が何かを思い出す時、ある場面やエピソードが切り取られて想起されるのであって、年代の順番通りにべたっと思い出したりはしない。話者としての山田解は、既に大人になった視点から、子供の頃や若い頃の自分を想起して語っているようだ。例えば、「黄色の日」では次のように書かれている。

小学校への通学路を、わたしは一人で歩いていた。いつも四、五人で誘い合って行っていたのに、黄色の日になぜ一人だったのか、理由はあったと思うが思い出せない。覚えていなくてもいい、どうでもいいことだったと思う。五年生だったのは確かだけど、季節も分からない。ただし寒くはなかった。周りにも子どもの姿はなかったから、ずいぶんと早く家を出たんだろう。たぶん、七時四十五分だった。

 連作の一作目の冒頭ちかくでこのように書かれるということは、本作は全体を通して、話者である山田解による想起として語られることが示されたということだ。しかし、いつも四、五人で学校に行くのにその日に一人だった理由を覚えていない、五年生だったけど季節は分からない、という、語りが想起であることによるあやふやさが示された直後に、《たぶん》という保留を置きながらも、唐突に「七時四十五分」という正確な時刻が書き込まれるのはなぜなのか(「七時四十五分くらい」ではなく断言される)。この急速な焦点の明確化は、次の段落から具体性をもった描写がはじまるので、次のカットへとつなぐブリッジとも考えられる。しかしそれが具体的な視覚像ではなく、より強く確定的な時刻(数字)であることの違和感はそれでは説明できない。

 想起のあやふやさのなかに乱暴に置かれる「七時四十五分」という断定的具体性。これは、本作の語りが想起を基底としながらも、必ずしも想起の運動に忠実に従うものではないという話者の意志のあらわれと考えることができる。根拠はないし、記憶にもない(かもしれない)が、その時刻は「七時四十五分」だったのだ。わたしがそう語るからそうなのだ。このようにして話者が強弁し、断言することによって、登場人物の住むフィクションの世界がそのようなものとして確定してゆく。本作は想起の流れに忠実に語られるのではなく、話者が想起のあやふやさや多義性を断言によって切断し、世界を確定していく小説なのだということが、連作の冒頭ちかくで示されていると読むことができる。

角の倉庫の扉はいつも開いていた。ふつうの家の三階分の高さがある大きな扉で、左側が閉まっていて右側は開いていた。いつもそうだった。

朝は普通の曇りの日で、白い日ではあったけど、黄色の日になるとは誰も知らなかった。テレビもなにも言っていなかった。

 先の引用部分を挟み込む前後の部分を引用した。前者は先の引用の直後。ここでは、《いつも開いていた》と既に書かれているのに、だめ押しするようにすぐ《いつもそうだった》と畳みかけられる。この断言は、ともすると「もしかしたら閉じていたこともあったかも…」と思ってしまう記憶の揺らぎを押し返し、世界をねじ伏せるように確定しようとしているようにも感じられる。後者は本作全体の書き出し部分。ここで《黄色の日》が中国からの黄砂によるものだとすると、それを《誰も知らな》いはずはない。少なくとも気象庁はある程度予測していたはずだ。それでも話者はそう語り、それを誰も知らないものとして、この世界は立ち上がる。

8.ポジティブ/ネガティブ


 本作では、はじめのうちはネガティブな事柄はほとんど語られない。最初の五篇においては特に。あえて言えば、全体的にある種の閉塞感が漂っており、「花火1」「花火2」においてそれがやや強く出ているとはいえる。しかしそれにしても、友人同士の仲の良い感じの印象の方が強い。

 しかし六篇目の「金魚」からやや空気が変わり、不穏な要素が顔を出すようになる。「金魚」においてそれは、放置したまま忘れたことにしている金魚であり、女の子たちの人間関係の面倒臭さであり、喘息による苦痛と死の予感であろう。そして、不穏でネガティブな要素に拮抗するポジティブなものとして、同級生《岸田》の描くカマキリの絵が登場する。教室で居場所がなさそうな山田解にとって、《岸田》はスターのような存在だ。この「金魚」の後、人間関係の不調や孤独の感触を強く帯びたエピソードがチラチラと現れるようになる。

 そして、折り返しを過ぎた十一篇目の「スウィンドル」の次、十二篇目の「赤」で、大きな転換が起こり、ネガティブな要素の強いエピソードが現れる。ここでは山田解がいじめに合っている様が描かれるのだが(しかも恒常的に被害を受けているようだ)、内容的なネガティブさ以上に、その描きかたが異様なのだ。話者である山田解は、自分をいじめている相手の名を語らないばかりか、相手の行為をほとんど描写しない。

いきなり背中を跳び蹴りされて、駐車場に転がった。灰色のコンクリートが目の前に迫ったとき、灰色の表面の刷毛の跡まで鮮明に見えた。擦り剝いた手を蹴られた。起きあがりかけたら、昼間とおなじところを殴られた。二度目を避けようとして、頭を殴られて、また背中を蹴られた。小石の刺さった膝と手が痛んだ。手首と肘に血が滲んでいた。血が出なければいいのに、と思っていた。なんの役にも立たないのだから。吉本さんたちは、またティッシュをくれた。そして、やめたりいや、なんでそんなんすんのよ、などとも言ってくれた。

 まるで、透明の見えない相手から殴られ、蹴られしているような書き方で、殴り、蹴っている行為は書かれず、殴られ、蹴られしている様だけが書かれる。ここからうかがえるのは、話者である山田解の「語らない」という強い意志だろう。ここで改めて、十二歳と十四歳のエピソードの欠落が、話者の意思によるものであることが感じられる。

 ところで、「赤」は十一歳の時のエピソードだが、十一歳が描かれる話はこれ以外にも、一篇目の「黄色の日」と十九編目の「船」の二つがある。「船」については改めて触れるが、本作の最初に置かれた「黄色の日」が、いじめを受けている「赤」と同じ時期のエピソードであると分かると、その見え方が変わってくる。

 「黄色の日」で《わたし》は、普段は四、五人で誘い合って学校に行くのに、その日に限って一人だった理由について《覚えていなくてもいい、どうでもいいことだったと思う》というのだが、それは本当にどうでもいいことだったのか。その後、一人だったはずなのに、いきなり背後から《愛子》が現れる場面がつづく。そして話者は、「愛子がいたということは、スケートボードの練習をした時だったのだろうか」と語り、いや、「それは中一の時だったから、やはりそこに《愛子》はいなかったのかもしれない」と語る。この「幻の愛子」は、その時、そこに《愛子》にいて欲しかった、そして同意して欲しかったということではないか。

 学校の場面で、山田解は前の年に担任だった《西山先生》に《犬がしっぽを振るみたいな感じ》で話しかけるのだが、その《西山先生》は、黄色の日について《天変地異ちゃいますか? こわ》と言い、それを受けた山田解は《そういうことを言うから、わたしは西山先生が好きだった》と考える。これはつまり、山田解は天変地異を望んでいる、世界が崩壊して欲しいと望んでいる、ということなのではないか。山田解にとって「黄色の日」が強く印象に残っているのは、まるで世界の終りがやってくるようで、自分が抱える気分とぴったり合致する出来事だったからではないか。

 このように考えていくと、ネガティブな印象がほとんど感じられなかった一篇目から五篇目のなかからも、様々な不穏な兆候がみえてくる。これらのエピソードには、表面からは見えていない裏があるのではないか、と。とはいえ、これは「赤」と「黄色の日」に描かれた時間の近接性からくる、過剰な推測にすぎないことも事実だ。『ビリジアン』は、短い断片的なエピソードの不連続的な集積によって出来ており、語られない空白の部分があまりに多い。図としてのエピソードは、地としての空白の上にぽつんぽつんと孤島のように浮かんでいる。そして、地としての空白と意思的な欠落(意思的欠落は図としての空白だろう)との区別も難しい。であるがゆえに、ちょっとした出来事が兆候や符牒のように作用する。

9.アメリカ人たち


 本作の大きな特徴の一つに、大阪の街のなかに、そこにはいないはずのアメリカの有名人が、さも当然であるかのように場に溶け込んで登場するということがある。しかも彼らは関西弁で喋りさえする。

 「金魚」において、人間関係への忌避や、喘息による苦痛や恐怖というネガティブな要素に抗する、世界のポジティブなあり様は、《岸田》の描く絵によって担われていた。それは破滅へ向かう世界を押し留める力をもつかのようだ。あるいは、「花火1」「花火2」においては爆竹がそうであろう。「金魚」は十歳、「花火」は十三歳(あるいは十二から十四歳)の出来事だ。しかし、山田解の成長に伴い、その位置を、メディアを介して知ったと思われる有名人(と、百貨店という場や、そこで売られている商品)が占めるようになる。彼らは「かっこいい」を体現する存在であり、それまでの山田解にとって漠然とした言葉でしかなかった「自由」に具体的なイメージを与える存在であろう。

 本作の時系列的に最初に登場する有名人は、十五歳(中三)の出来事が語られる「ピンク」に登場するマーサ・プリンプトンだ。山田解=柴崎友香の年齢から考えると、この年は一九八八年で、リバー・フェニックスとマーサが共演した『旅立ちの時』が公開されているが、公開は十月で「ピンク」は二月から三月くらいの時期だから、このマーサは『グーニーズ』から来ていると考えられる(洞窟で壊れた眼鏡、という記述もある)。

 マーサは、渡り廊下の隅に座って、体育の持久走で苦労する(断トツで最後尾を走る)山田解を見守っている。周回遅れで、さらにどんどん抜かれていくなかで、《持久走で学んだことは他人のことは気にしないってことですね、と将来なにかのときに答えよう、と思っていた》と山田解が考え、そのすぐ後にマーサは登場する。この内省には、将来の自分が有名人になってインタビューを受けている視点が想定されている。つまりここには、メディアの中の有名人の存在があり、その有名人との視点の交替がある。メディアとそれを受け取っている自分との位置が交替し、わたしがメディア側(向こう側)の視点に立っている。この交替の逆の働きとして、メディアの中の人が、こちら側の空間に出現する。

 ただし、学校に現れるのはこのマーサ・プリンプトンだけだ。「終わり」のマドンナ、「スウィンドル」のレニー・クラヴィッツ、「片目の男」のリバー・フェニックス、「Ray」のボブ・ディラン、「赤の赤」「ピーターとジャニス」のジャニス・ジョブリン、「フィッシング」のルー・リード。彼らは、いかにもアメリカ的なポップアイコンというより、もっと癖が強く(アート性が強く)、ポピュラーでありながら実在性を強く感じさせるキャラクターだろう。そのようなアメリカの有名人たちが出現するのは、学校とは異なる場所、そして山田解たちの住んでいる街とは異なる場所であるようだ。大阪の繁華街や、どこかへと向かう電車やバスのなかに彼らはあらわれる(「Ray」のボブ・ディラン以外は)。

(マーサ・プリンプトンは、『グーニーズ』後の彼女であり、リバー・フェニックスは『スタンド・バイ・ミー』後の彼であり、つまり「子供たちの冒険」(子役の時代)から大人になり始めた、その後の不安定さ意味するのかもしれない。「片目の男」のリバー・フェニックスは山田解に向かって「おれは、なんとかやっていってる」と言う。この年---1990年---にリバー・フェニックスは二十歳で、まだ生きていた。)

 十三篇目の「終わり」で、クラスで孤立する十五歳の山田解は、学校をさぼって映画『ドグラ・マグラ』を観に行き、百貨店で《ずっとほしい地球儀》を見る。そして、誰一人知る人のいない都市の雑踏のなかで、《わたしはどこにでも行ける》と感じる。ここで山田解が《行ける》と感じているのは、アメリカ人たちがいる場所(向こう側)であろう。それはたんにメディアの向こうということではなく、彼らの体現している《自由》が成立している世界ということだろう。

 都市の雑踏や交通機関は、その向こう側に繋がっている。だからアメリカの有名人たちはそのような場所と地続きである「ここ」にもひょっこりとあらわれる。彼らは、どこにでも行けるから、ここにもいる。彼らが「ここ」にいる以上、わたしもどこにでも(「そこ」にでも)行ける。ここにいる彼らは、そこにいけるはずのわたしの未来の折り返しでもあろう。ここは、そこに繋がっている。

 ここでボブ・ディラン(ボブさん)は、地元に現れるだけでなく、山田解以外の人物にも認識されているという点でも特別だ。時系列ではなく小説の配置上で最初に登場するジャニス・ジョブリンに、山田解は《ジャニスの映画見たで》と話す。その映画を観る場面が描かれる「スウィンドル」にはレニー・クラヴィッツが登場し、彼のサングラスには《わたしとひばりちゃんと諸星とまわりを歩く人たちと商店街に並ぶ店と、全部映ってい》る。ここでレニーはまだ山田解にしか見えていないようだが、レニーのサングラスにはこちら側のこの世界と友人たちがはっきり映っている。

 ボブ・ディランが登場する「Rey」の舞台は地元だが、山田解はそこにジャニスの映画を一緒に観た《諸星》を連れてきて、一緒に映画をつくっている。つまり、向こう側からこちら側へと有名人がやってくるだけでなく、こちら側(地元、そしてわたし)をフィクション化することで、向こう側に持っていこうとしている。向こう側から有名人がやってきたり、こちら側の一部が向こう側になったりすることで、こちら側と向こう側とは対立するのではなく、交叉的に絡み合い、部分的に、マーブル状に混ざり合う。

 『ビリジアン』という小説=フィクションに登場するアメリカ人たちが実現させているのは、このようにして、向こう側とこちら側と、現実と虚構とがマーブル状に混ざり合うことの出来る場であると言える。詳しくは後述するが、それは、虚構を閉じたものではなく、現実の拡張としてみることを可能にする。
(「終わり」で山田解が見た映画『ドグラ・マグラ』は、虚実の底を抜く物語構造をもっている。)

10.わたしの可変性、わたしの再編成


 「黄色の日」と「赤」と「船」は、どれも十一歳時のエピソードであるという意味では極めて近くにあるが、連作の一篇目と十二篇目と十九篇目という意味では距離が離れている(「船」は他の作品とやや調子が異なり、夢のような浮遊感があり、年齢も《十一歳ぐらい》と記される)。各エピソードがランダムに時間を前後して配置されていることによって十二歳と十四歳の欠落が見えにくいように、「黄色の日」と「赤」と「船」との時間的な近さも見えにくい。それらは、描かれた出来事の時系列という、連作の配置(順番)とは別の軸を通して(再配置して)みられる時にはじめて浮かび上がってくる。

 連作の配置による近さ/遠さがあり、それによるグループ分けがあり得る(たとえば、一篇目から五篇目まではネガティブな要素が感じられない、など)。しかしそれとは別に、描かれる時間における近さ/遠さがあり、それによるグループ分けがあり得る(たとえば、「片目の男」「スウィンドル」「Ray」は十七歳の時の話である、など)。さらに、それとは別に、主題的な近さ/遠さがあり、それによるグループ分けがあり得る(たとえば、「金魚」「ナナフシ」「終わり」は、喘息の主題を含むエピソードである、など)。

 本作が、わたしという一人称で書かれた、わたしをめぐるエピソードから成り立っているとすれば、それらは、わたしを構成する部分としての「小さなわたし」である断片だと言える。そしてそれらが、様々な形であり得る近さ/遠さの配置として、様々な遠近法で描かれ得る複数の地図を構成し得ることは、そのまま、「わたし」というものを構成する記憶の配置が、様々な形であり得るということを意味するだろう。

 「黄色の日」は、「赤」や「終わり」、「目撃者」などの近傍に配置される時(そのような地図が描かれる時)、不穏さの気配が高まり、裏にあるネガティブなものの兆候が浮かびあがるが、「花火1、2」や「十二月」、「船」などの近傍に置かれるならば、必ずしもそうではなく、別の調子が感じられるものになる。それは、各篇に書き込まれている様々な要素についても言える。「金魚」や「終わり」で描かれている孤独の感触は、「ピンク」においては必ずしもネガティブなものというわけでもない。「赤」においてネガティブなものとしての血の味と重なり、連作全体としても街の閉塞感と結びついている「鉄」の感触(イメージ)も、「Fever」では映画『鉄男』を通じてポジティブさに開かれる。

 あるいは、十一歳、(十二歳、十四歳)、十五歳のわたしにおいては、ネガティブな要素が勝っているとしても、十三歳や、十六歳、十七歳のわたしはそうではない。そうであれば、連作の配置として、十一歳や十五歳のエピソードの近傍に、十三歳や十七歳のエピソードを配置してやれば、ネガティブな要素も相互作用により(それ自身を改変することなく)軽くなり、薄まると言えるのではないか。本作において最もネガティブ度が高い「赤」(11歳)と「終わり」(15歳)は、きわめてポジティブ度の高い「スウィンドル」(17歳)と「Fever」(16歳)の間に挟まれている。

 本作の時間的配置のランダムさの真の理由は、想起のランダム性によるものではなく、わたしを形作る要素たちの配置を、(個々の要素を改変することなく)意志的に再編成するという意図によるのではないか。テキストの近接性が、時間的に非連続な配置をもつことによって(そのような配置が可能である断片的な形式であることによって)、過去の出来事を変えることなく、わたしの構成を変えることができる。

 これは、歴史の改変ではなく、わたしの再編成である。しかし、ここで言う「わたし」とは誰なのか。ここで「わたし」が、作者である柴崎友香でしかないのならば、わたしの再編成は本作を書き得た作家にのみ生じた出来事であり、読者はそのドキュメントを眺めているだけということになる。だが、そのような見方は、主人公=話者=作者という短絡に陥っている。そもそも、山田解の経験と柴崎友香の経験とが、どの程度共通しているのかは、書いた作家自身にしか分からない。柴崎友香と山田解との繋がり方がそもそもフィクションとして仕立てられたものである。

 本作が書かれるということそれ自体がわたしの再編成ではあるだろう。しかし同時に、本作のあり様が、様々な「わたし」へ向けての、わたしの再編成への誘発であり得る。本作が読まれ、その内容が想起されるその都度、新たな配置、新たな地図としての、新たなわたしがたちあがる。そう言えるためには何を考えればよいのだろうか。それを考えるために、フィクションについて検討する必要がある。

11.フィクションと現実


 フィクションとは何かを考える時、その逆として、現実とは何なのかを考えてみる。それはおよそ次のような特徴をもつと考えられる。(1)選択できない(既にあり、強要される)。つまり、現実とは既にある条件である、と。(2)認識とは無関係に影響を受ける。これは例えば、細菌というものの存在が発見される前から、人や物は細菌の影響を受けていた、というようなこと。現実に対しては「知らない」という言い訳が効かない。(3)恣意的には変えられない。たとえば、鉄を金に変えることはできないし、鉄を金に変えることは出来ないという法則を変えることもできない。

 フィクションはその逆であると考えられる。つまり、(1)選択可能、(2)影響が限定的、(3)変更可能、であるもの、と。しかしこの場合、わたしたちが「現実」と聞いてまず思い浮かぶもの、例えば、お金、国家、法、社会的関係、歴史、慣習と常識などもフィクションだと考えることもできることになる。確かにこれらは、物理的な実在や技術的な環境のようには現実的ではない。ただこれらは、多くの人々によって現実と信じられ、様々な社会システムによってがっちり固定させられているため、実際には変更や選択が困難であるから、実質的には現実であると言えるものだ。だから、現実とフィクションという二項対立があるというより、現実性の度合い、フィクション性の度合いの違いがある。より多くの人を、より強く縛るものは現実性が高く、他者との共有を前提とせず、より自由度の高いものはフィクション性が高いと言える。

 ケンダル・ウォルトン(注3)は、小説や映画のようなフィクション作品はごっこ遊びのための小道具であると主張している。たとえば人形があるとする。この人形はそれ自体で、「ここに金髪の女の子がいる」という「ごっこ的真理(フィクション)」を表現している。それを使って子供がままごと遊びをするとき、子供が母親で人形がその娘、今日は二人でお買い物に行きましょう、という別の「ごっこ的真理」が生まれる。ウォルトンは前者を、ごっこ遊びの公的なルール、後者を、公的ルールをもつ人形を小道具として用いることで生じる個人的なルールとする。ここで個人的なルールは、大勢で共有することも出来る。みんなで木の切り株を熊と見立てたルールを共有してごっこ遊びをする、など。

 小説を読むことも人形遊びと基本は同じで、小説の示す公的ルールを小道具にして読者が個人的なごっこ遊びをすると考える。ここで重要なのは、ウォルトンが、個人的なごっこ的真理は、公的ごっこ的真理よりも包括的であるとすることだ。ごっこ遊びをする時、フィクションの内部に没入するのではなく、現実として存在する自分自身をフィクションのレベルにまで拡張する。フィクションが現実より自由度が高いということは、フィクションとは現実をも包括した、現実よりもより広い世界だということだ。

12.小道具=シンボル=移行対象


 ウォルトンの言うごっこ遊びの小道具を、C.S.パースのシンボルと重ねてみると、ウォルトンの議論とウィニコットの移行対象の議論(注4)を重ねることができる。どういうことか。

 パースの記号学において、シンボルとはどのようなものなのか。まず、パースにおける記号の定義からみる。記号とは、何か(対象・記号表現)が、誰か(解釈項)にとって、別の何か(記号内容)を意味するという三項による過程である。例えばダニが、木に貼り付いていて、下を通る動物の体温を感知してそこへ向かって落下し、その動物の血を吸う、とする。この時、ダニ(解釈項)が温度(対象・記号表現)を捕食対象(記号内容)と解釈している、と記述すれば、それは記号的(情報的)な過程となる。

 次に記号の分類。類似による記号が「イコン」(肖像画が描かれた人を表現する)、物理的因果性による記号が「インデックス」(煙が火事を表現する)、規則、習慣による記号が「シンボル」(文字、道路標識など)。つまり、ダニにとって温度は、捕食対象のインデックスだ。ここで、イコンとインデックスは、記号表現と記号内容との結びつきが現実的であり、変更の余地がない(ただし誤謬の余地はあり、このことは重要)。しかし、シンボルにおいては、記号表現と記号内容の結びつきが人工的、恣意的であるため、変更の余地がある。故にシンボルは、フィクションの小道具となり得る。

 しかし、シンボルにおける対象と記号内容の結びつきが(記号や文字のように)ただ規則によって決まっているだけだとしたら、ごっこ遊び(フィクション)の行われる空間は、ただ、ルールを変えるとどうなるかを試すためのシミュレーション空間に過ぎない、味気ないものとなってしまう。そこで、ここにウィニコット的なシンボル(移行対象)を重ねてみる。

 ウィニコットは、長くクライン派に属した精神分析家であり小児科医でもあった。クライン派は、言語ではなく遊具を使って遊ぶことを通じて、子供の精神分析を可能にした。ウィニコットは、外的でもあり内的でもあり、現実でもあり空想でもあり、発見されるものでもあり創造されるものでもある、両者をつなぐ紐帯的な領域として可能性空間・潜在空間(potential space)というものを考えた。これはほぼ、ウォルトンのごっこ遊びの空間と同じだと考えてよい。ウィニコットはこの可能性空間を乳児の発達の過程を通じて考えている。以下にその概略を示す。

(1)乳児が授乳によって満足感(快感)を得る。
(2)満足感が繰り返されることで、満足感の表象が生まれる(満足した状態を想像できるようになる)。
(3)授乳を欲し、想像(表象)した時に、タイミングよく母が授乳する。
(4)乳房が満足感のインデックスとなる。
(5)乳児は、自分の「想像」によって乳房が「創造された」と錯覚する。
(6)この「万能感」が乳児に世界に介入する能動性の感覚を与える。
(7)しかし実際には、「想像」と「現実的授乳」のタイミングには、微妙にズレが生じる。
(8) 想像と現実の間にある微妙な「ズレ」が、想像的でもあり現実的でもある、第三の領域(可能性空間)を立ち上げる。
(9)想像し、創造された(ズレを内包する)乳房が可能性空間のなかの対象である移行対象となる(想像=心的現実と、現実=外的現実との「紐帯」であるような対象)。
(10)可能性空間のなかで、知覚的な類似性(やわらかい、あたたかい、におい等)により、たとえば「毛布」が乳房(満足)の代理的表現となる(満足のシンボルとしての毛布の誕生)。

 以上のようなウィニコット的な意味でのシンボルは、知覚(現実)や欲望(想像)と密接に絡みつきながらも、解釈項(わたし)にとって、記号表現と記号内容との関係が可動的であり、その可動領域が「可能性空間」だと考えられる。つまり、世界の価値や色づけの配置が可動的になる領域が可能性空間(フィクション・ごっこ遊び)であり、それを行うための記号(道具)がシンボルである。そしてウィニコットは、精神分析をこのような意味での遊びだと考える。

13.「わたし」たちの交換


 フィクションとは、世界の価値や色づけの配置が可動的になる領域である。そしてその配置換えを媒介し、誘発するものが、現実と想像との両者に絡み付いていながらも、記号表現と記号内容との関係が可動的である(ウィニコット的な)シンボルである。シンボルをごっこ遊びの小道具として用いることで、フィクションは世界の価値づけの配置換えを可能する。例えばここで、毛布が乳房(満足感)のシンボルであったとして、それは一方で現実に存在する物質であり、具体的な形、色、手触り、匂いなどをもち、それらの複合体としての物あることによって、解釈項(わたし)にとって乳房の代理的表現となっている。この場合、シンボルは物であり、現実と同じ素材で出来ている。

 たとえば、前述したが、『ビリジアン』において鉄の感触は、ある地域から出られない閉塞感そのものであり、「赤」においてはそれが、血から鉄の味を感じることで、いじめを受けても何もできない無力感とも結びついていた。しかしそのようなネガティブな意味と結びついた鉄の感触の価値や色付けが、『鉄男』という映画を観ることで、強い能動性を伴うポジティブな方向へと変質する。

 しかしそれは、フィクションのなかに描かれたフィクションの機能であろう。そうではなく、『ビリジアン』という小説の形をとっているフィクションと、それを読むわたしの関係のなかで、『ビリジアン』はどう機能するのか。『ビリジアン』をごっこ遊びの道具としたとき、どのような遊戯が生まれ得るのか。

 本作の舞台は作家自身の出身地を思わせ、主人公の山田解は作家と同年齢である。この事実は、山田解という人物が作家の分身であるという感覚を読者に抱かせるだろう(ここで、山田解が作者の分身であるとして、それはダブルとしての分身というよりアバターとしての分身であろう)。そして、本作は、様々な年齢で起きた出来事の断片的スケッチを二十篇重ねるという形式をもつ。これら二十の掌篇は、断片的であり、互いの関連性はそれほど明確ではない。それぞれのエピソードにおいて、年齢がバラバラであることも、各篇が非連続的であるという感じを強めている。つまり、そこに描かれているのは、一人の連続的なわたしであるというより、場面ごとでその都度立ち上がる、その都度のわたしのあり様だと感じられる。だから、山田解という一つの連続的な作家の分身がいるという感じよりも、その都度立ち上がった、異なるモードの作家の分身が二十あるという感じが強くなっていると言える。

 モードが異なると言っても、どの分身にもそれぞれに共通した要素はあるし、各篇に描かれるエピソードや人物たちには、ネットワーク的な関係性が見て取れるようになってはいる。各篇は、時系列の上に配置可能な整合性をもっている。しかし、順番通りに並べたとしても、そこに一本の線が見えるわけではない。作者にとっては、(時間順とは別とはいえ)本作がこのような並び順であることに必然性があるのであろう。しかし、それを用いて個人的ルールで遊戯する読者にとって、二十の分身、二十の断片は、すべてが等距離に配置され、互いが互いを映し合うような関係にあるとみることができる。その都度異なるモードで立ち上がった、それぞれが異なる分身(わたし)たちが互いを映し合い、その位置を交換しあう。

 十九篇目の「船」は、わたしがはじめて一人で「対岸」に渡る話であり、最終篇の「Rey」は、八ミリカメラで撮影されることで、わたしがフィクションの側へと越境する話だ。

 「船」の十一歳(ぐらい)のわたしが見上げる、高速道路の高架の下側にくっついている歩道橋で自転車を押している高校生は、「Ray」の十七歳のわたしであるはずだし、逆に「Rey」のわたしが、《あの場所から見える風景がわたしにもくっきりと見えた》と思いながら見ている船着き場の縁に座る小学生は、「船」のわたしであるはずだ。

 そのような「わたし」たちの相互反映と交換は、明示的にそうと書かれなくても読者の頭のなかでも起きるだろう。例えば、十七篇目である「白い日」の十三歳の山田解は、クラスメイトから《人がケガしてたの見てにやにや笑ってたから、ちょっと怖いし》なとどと陰で囁かれているような人物だ。この事実から遡行して、十三篇目である「終わり」の冒頭に登場する、知り合いの男子が頭から血を流すのを見て、《あんた、ぴゅーて出てんで。血が、ぴゅーって》と指さしてげらげら笑う《二年の女子》のエピソードが連想される。この《二年の女子》は山田解ではないが(山田は三年)、ここではむしろ、自他が入れ替わっていることこそ重要だろう(山田解はここで、《二年の女子》の名札を見て《珍しい名前だった》とするのだが、これは明白にありふれた名である「山田」の裏返しともとれる)。

 あるいは、十二篇目の「赤」と十三篇目の「終わり」というネガティブな話が二つつづく並びをみてみる。「赤」の山田解は、特定の個人にひどくいじめられてはいるが、決して孤立はしていないようだ。それにつづく「終わり」の山田解は、孤立はしているが特にいじめられたりはしていないようだ。そして「赤」には、《赤城さん》という孤立している人物が出てくる。「赤」の山田解はその《赤城さん》に冷たい。「赤」のラスト近く、山田解は、その《赤城さん》が《公園の向こう側の道》を《一人で歩いていく》のを見て、それに気づいたのは《わたしだけだった》とする。そして、次の「終わり」になると、山田解が《赤城さん》のように孤立している。《赤城さん》を見ることによって《赤城さん》の位置に移行してしまったかのように。

 津田道子の作品において、自己像に他者のように出会い、谷口暁彦の作品において、他者の身体の位置に自己を発見し、小鷹研理+森洋光のVR装置において視点の反対側への切り替えがあるように、最初に他者のエピソードであったものが、後に自己の元で(再)発見される。わたしが見た他者のエピソードを、他者がわたしの元に見ることになる。あるいはその逆も。このように、作者のアバタ―である山田解と、別の登場人物の誰かとの視点(自他)の交換が起ることによって、山田解という作者のアバターを通して作品世界を見ている読者も、それを作者のアバタ―としてだけではなく、自身のアバタ―とすることが可能になるのではないか。

 さらに、谷口暁彦の作品において、作者があらかじめプレイした画面と、観客が能動的にプレイできる画面との両方が同時に示されていたように、作家自身が、作家のアバタ―である山田解を使ってプレイした順序や秩序と、それとは異なるやりかたで、読者が作家のアバタ―である山田解を使って小説世界内を散策する順番や秩序があり得る。この二重性によって、読者が山田解の位置に「わたし」を見出すことが可能になり、この小説がつくりだす「わたし」たちの相互反映と交換の流れに巻込まれることが可能になるのではないか。

 この、「わたし」たちの相互反映と交換の動きのなかに、欠落した十二歳と十四歳のわたしもいつしか巻き込まれ、そして山田=柴崎アバターを通じて読者であるわたしも巻き込まれて、わたしは様々に再編成されていく。『ビリジアン』という小説=フィクションは、そのような再編成が起るための場であり、また、そのような再編成を促す力でもあろう。

(了)

注1 津田道子インタビュー
※2017年3月28日に最終アクセス、公開は3月で終了している。

 注2 Recursive Function Space (小鷹研理・森光洋) ステイトメント+チュートリアル動画
※現在は公開終了している。

http://lab.kenrikodaka.com/work/2017_RFS/index.html

注3 ケンダル・ウォルトン「フィクションを怖がる」(『分析美学基本論文集』勁草書房)

注4 D.W.ウィニコット『遊ぶことと現実』岩崎学術出版社

初出 「早稲田文学」2017年初夏号 特集「作られゆく現実の先で・ポスト真実/人工知能時代のフィクションをめぐって」


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