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〔書評〕使命と孤独/『日本蒙昧前史』(磯﨑憲一郎)

古谷利裕

 はるか遠くに過ぎ去った昭和という時代が、しかし「昭和」という語を一度も使わないままで描き出される(大正という元号は書き込まれているが)。欠けているのは昭和という語だけではない。西暦であれ和暦であれ、○年という具体的な年は(元日本兵とその妻の生年という例外を除いて)みられない。ただ、《終戦から四年目の夏》と書かれていれば、史実に照らしてそれが一九四九年(昭和二四年)だと分かる。

 指示対象を直接的に指示することを回避する傾向は、人名の回避にも繋がる。作中に書き込まれた人の名は、誘拐された製菓会社社長の娘、背の高いホステス、五つ子、『バナナ・ボート』や『東京音頭』の歌手、帝政ロシア出身のプロ野球選手、元日本兵の従姉のみである。一方、昭和という時代を彩る華々しい固有名、たとえば川端康成や三島由紀夫、福田赳夫や田中角栄、岡本太郎や横井庄一などの名は書き込まれず、小説内の記述と史実とを突き合わせることによってはじめて特定される。人名が回避される傾向と反対に、地名は端的に書かれる。

 具体的に名が示される人物のうち、社長の娘(久美子)、ホステス(和子)、元日本兵の従姉(絹)の三人は、(深く調べれば史実との照合が不可能ではないとしても)歴史上の人物とは言えず、おそらくフィクション性の高い存在だと推測される。史実と照合可能な固有名は、五つ子、『バナナ・ボート』や『東京音頭』の歌手、帝政ロシア出身のプロ野球選手となる。興味深いのは、歌手と野球選手の名は史実と合致するのに、五つ子の名が、歴史的に実在する五つ子と異なっているという点だ。さらに、五つ子の両親は実際には六歳の年齢差があるが、作中では高校の同級生となっている。つまり五つ子のパートは、現実とフィクションの重なりとズレとが顕在化する領域としてある。

 とはいえ、この作品を支える重要な要素を形作るのは、名前をもつ無名な人(フィクション領域)でも、名前をもたない有名な人(史実領域)でもなく、まったくの無名ではない(史実と照合可能)としても、際立って有名だというわけではない名前をもたない人々、製菓会社の社長、相互銀行の創業社長の娘婿、五つ子の父、万博事業室の室長、目玉男といった面々なのだ。だがここにも例外があって、父と万博に出かける千葉の少年(名前をもたない無名な人)と元日本兵=横井庄一(名前をもたない有名な人)もまた、同等に重要となる。

 以上のことを考えると、この作品における指示対象の記述にかんする複雑な操作は、有名でも無名でもない人々によって語られるものとしての(ある程度史実と照合可能な)昭和史を中心に置きながら、それを媒介として、無名の存在(フィクション領域)と有名な存在(史実領域)とを反転的に重ね合わせるためになされているのではないかと、とりあえず言ってみることができる。

(千葉の少年を作中に埋め込まれた作家の分身とみることもできる。しかし少年と作家とでは二歳分年齢がズレており、万博当時七歳である少年の体験の記述が、当時五歳であった作家の体験の直接的反映とは考えない方がよいと思う。子供の二歳差は大きい。)

 逆説的だが、この作品において有名人は、名が書かれなければ自動的に史実と照合された固定的な名に紐付けられる(福田赳夫や川端康成など)。五つ子は、有名だが史実と異なる名前をもつことで歴史から逸れて無名化(フィクション化)された存在となるだろう。また、白髪の老婆の預言めいた声と共に、脅迫電話を真似る子供たちの声ではじまるこの作品の冒頭近くに、可能性としてあったが実在しなかった「毒入りチョコレート事件の被害者の少年」が書き込まれている。実在しなかったにもかかわらず可能性として強い存在感を放つこの少年もまた、史実領域にフィクションのための隙間をつくる。そして、作者の分身であることを匂わせながら年齢がズレている千葉の少年も、その根拠(出自)の不確かさによって史実の領域を揺るがす。

 この作品において子供たちは、史実そのものでもフィクションそのものでもなく、確定された過去=史実のなかにフィクションの余地を開くものとして存在する。

 ここに書かれているのは、有名人(固有名)たちによる昭和史ではないとしても、エリート(男性)たちによる昭和史ではあるだろう。学歴をみても、相互銀行の創業社長の娘婿と五つ子の父は東大卒であり、万博事業室の室長は京都帝大出身で、目玉男も歴史ある伝統校から北大に進んだと書かれている。そして(目玉男を除く)彼らエリートたちには、自らが望んだわけではないのに負わされる重たく困難な責務(先代社長の失敗の穴埋め、五つ子の父であること、万博の用地買収)があり、それを人生を懸けて果たすべき使命と感じている。

 他方、そのような責務に背を向け、《世間との付き合いを絶って、金の力なんかに屈服せず、過ぎ去った時間に守られながら》孤独に生きようとする、目玉男と元日本兵がいる(彼らの転機は、まったく唐突に、理由も明らかでなく、友人に去られた経験だ)。彼らは使命を果たすことが結果として愚かさへの加担に繋がってしまうと考えるのだろう。

 主に使命の男たちのパートである前半から、後半の孤独を幸福とする男たちのパートへと移行する転換点に、千葉の少年が置かれる。使命の男たちは昭和史を形作るが、孤独の男たちはそこから逃れようとする。元日本兵は二八年にわたってグアム島で孤独に生きられたことを《類い稀なる幸運だった》と感じ、そこで《人生の目的は達成された》とさえ思う。そのとき彼は使命からも日本=昭和の文脈からも切り離され完成された孤独の人だ。

 だが、日本に戻った彼は有名人となり、昭和史に再び参加せざるをえなくなる。選挙に出るなど、誤って使命に生きようとすることもあった元日本兵だが、彼は過去に守られている。陶芸に熱中する彼の名が時間をかけて人々から忘れられ、無名に戻って土に帰り小説は閉じられる。

(了)

初出 「群像」2020年10月号

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