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〔美術評〕所蔵作品を中心とした小企画 「泥とジェリー」展について

古谷利裕

以下は、2014年1月21日(火)から4月6日(日)まで、東京国立近代美術館で行われた展覧以下のレビューです。
http://archive.momat.go.jp/Honkan/mud_and_jelly/list.html
(初出 東京新聞 2014年4月4日 夕刊)

 絵の具が充分に練られていない、ナマのままである、という批評が、初心者を対象とする絵画教室や美大予備校などで口にされることがよくある。だがそれは、チューブから出した絵の具をそのまま使ってはいけないという意味ではない。問題は作品全体としての調子(トーン)が充分に練られていないという事であり、作品固有の構造が生み出されていれば、チューブから出したままの絵の具が使われても「ナマ」ではなくなるのだ。

 ただの絵の具が絵になり、ただの粘土が彫刻になる時、そこには何が起こっているのだろう。それは、ただの音が言葉になり、ただの単語が文になる事と似た飛躍がある。しかし、言葉を構成する音がある程度決まっているのに対して、絵の具や粘土はもっと不定形で捉えどころがない物質だ。「泥とジェリー」展にはそのような、物と作品の間にある不思議な関係を意識させる作品が並んでいる。

 岸田劉生の絵画「道路と土手と塀(切通之写生)」の画面は三分の二程が土の描写で埋められる。風景というより土の塊が迫ってくる。このリアルな迫力は、油絵具という強い物質感を持つ画材の塗り重ねによる執拗な描写が可能にする。油絵具と土との間にあるのは視覚的類似だけではなく、物質感を媒介とする感覚的な比喩と言うべき響き合いで、それがただの絵の具を絵へと変化させる。

 一転して、岡﨑乾二郎「テウミンとたみをとむらってバツサイとつみをきりしは」は、色の違う二本の管状の粘土(セラミック)を横たえただけのように見える。まさにただの粘土であり、ナマであり、彫刻になっていないかのようだ。だがたんに物質のナマな感触が示されるのではない。

 よく見ると二つの塊が相互陥入しながら絡まり合う形態は複雑で、それはオーソドックスな人体彫刻の空間構造にも近い。ヘラでざっくり切り取られた断面の形もリズミカルな共鳴・反復を見せている。ここにあるのは、投げ出されたような無造作な物質性の感触と緻密に計算された形式性の感触との、何とも不思議な両立なのだ。

 素材に執拗に手を加え、あるいはほぼ手を加えず、別物へと変質させる。両作の併置が見せる対位法は、素材から作品へ、また作品から素材へと相転移する飛躍の不思議を感じさせる。

(了)

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