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〔映画評〕身体を崩落させる振動 (ペドロ・コスタ『ヴァンダの部屋』について)

古谷利裕

身体に刻み込まれる苦痛

 映画を観るという経験は、身体に直接刻み込まれる苦痛の感覚と共に生じる。映画が嫌いな人は、二時間もの間イスに縛り付けられ、一方的に映像と音声を浴びせられることに耐えられない。

 例えば、めったに観られない映画が一回限り上映されると聞き、忙しかったり寝不足だったりして体調が万全ではない時でも駆けつけ、冷暖房も充分ではない施設で、座り心地が良いとは言えないイスに坐り、時には通路に腰をおろしたり、立ったままの姿勢を強いられ、決して良い香りで満ちているとは言えない人いきれのなか、眠気や尿意とたたかい、それでもスクリーン上の映像を必死で追いかける。

 映画は、映像が示すものや、その映像の連鎖によって語られる物語が示すものであるのと同時に、そのような表象の次元とは別の、身体に直接刻み込まれる何ものかとしてもあるのだ。物理的なものとしての光の明滅が、振動としての音が、物質としての身体、様々な有機的機械の複合体としての身体に、あるリズムを、ある苦痛を、暴力的に刻みつける。映画の暴力的かつ機械的な進行に対し、観客はどのようなはたらきかけも出来ず、許されている自由は、目を閉じて眠ってしまうか、席を立ってしまうことくらいのものだ。

 そして、上映時間という物理的な長さは、このような受動が持続する時間を一方的に規定する。三時間の映画を観るということは、三時間もの間、なすすべなく映像と音声を浴び、機械的に進行する映画のリズムを刻み付けられるということだ。映画について何か書くことは、映画を観たという経験を言葉によって再度構築し直すという作業だと思うのだが、『ヴァンダの部屋』という映画について何か書こうとする時、とりわけ、その表象の次元とは別にある、物理的に身体にはたらきかけてくる部分の作用についてまで、なんとか言葉のなかに刻みつける必要があるように思える。どの程度うまくゆくかは分からないが。

いつの間にか崩れている

 『ヴァンダの部屋』という映画では、文字通りヴァンダの部屋が長い時間映し出される。ヴァンダの部屋にはベッドがあり、たいていそこにはヴァンダともう一人誰かがいる。この、ベッドが一つあるきりの狭い部屋のなかで、二人の人物をどのように配置し、どのようなフレームで切り取るかということにとりわけ配慮が払われているようにみえる。(この映画は「部屋で二人でいること」についての映画であるとも言える。)

 この部屋にヴアンダと共に最も長くいるのはヴァンダの妹であろう。二人はベッドの上で麻薬を回し飲みし、アルミホイルを炙って気化させたものを吸引し、電話帳のような分厚い本のページを擦り、擦りだしたものを吸引する。あるいは、毛糸を巻き付けて巻き取ったり、罵り合ったりもする。ここで彼女たちがしていることは、ただ「何かをしている」というだけで、その何かが別の何かに繋がってゆかない。

 物語というのが出来事の連鎖であり、出来事と出来事とを関係づけることだとすれば、ここに物語は発生しない。ここでは時間の展開がないのだ。誰かが何か行為をし、その結果ある変化が生じる時に時間が展開するとすれば、この映画では誰のどのような行為も結果としての「変化」を引き起こさない。

 しかし、この映画にあるのは、無時間的な時間のたゆたいのようなものでもない。この映画に時間を生じさせているのは「崩壊」であり、登場人物たちや観客は、何もかもが少しずつ崩れ落ちてゆき、知らず知らずのうちにあらゆるものが失われて行くという不安によってのみ、時間を感じることになる。

 重要なのは、少しずつ崩れてゆくものの進行の具合が決して目に見えるようには示されないという点だろう。ヴァンダの住む地区は再開発のために取り壊しの作業がつづいており、四六時中建物が取り壊される音が響きつづけているし、実際に建物を取り壊す映像も何度も示される。しかしそれはただ、壊されつづけている、崩壊しつづけているという事実を示すのみで、破壊がどの程度にまで進み、どのようなスピードで進行しているのかは、映画を観ているだけでは把握できない。

 ペドロ・コスタはヴァンダと周囲の人々を二年にわたって撮影したそうだが、二年の間に破壊がどの程度進行したかは示されず、ただ破壊されつつあることのみが示される。だからこの映画では二年間という長さを具体的にみてとることは出来ず、茫洋とした厚みとしての時間、決定的に何かが崩れている感覚があるが、何がどの程度崩れ失われたのかは把握出来ないような不安の厚み(崩れの予感)としてしか時間を感じることが出来ない。

身体と生の崩落

 少しずつ確実に崩れているのだが、それがどの程度進行しているのかは茫洋とした不安としてしか把握できないのは、ヴァンダとその周囲にいる人物たちの身体、そしてその生の時間もまた同様だ。ヴァンダの顔のクローズアップで、見開いた目の濁った白目が痛々しく外気に触れ、光に晒されている様を観る時、ヴァンダの身体が、そして生が、ヴァンダが必死に削っている分厚い本のページの表面と同様に、削り落とされ、やせ細り、すり減って、塵となって散って行くのを感じざるを得ない。

 何よりもヴァンダの身体の崩壊を具体的に示しているのは、肺のあたりで嫌な感じで引っかかるような咳き込む音であろう。この映画において、建物が破壊されてゆく音とヴァンダがしきりと咳き込む音とが、生きるための場所(住居と身体)が外側からも内側からも崩壊しているという不安定な感覚を観客に突きつけている。

 これらの音は、映像によって示される建物の崩壊やヴァンダの身体とは必ずしも安定して結びついているわけではなく、三時間もの上映時間のなかでくり返し反復されることで、観客が今いる場所の外側から(倒壊する建物の音)も、または自身の内側から(咳き込む音)も響いてくるようにすら感じられ、観客自らの身体もまた、少しずつ崩壊してゆく過程にあるものだということに思い至らせるだろう。

 ほとんど時間の展開のない固定ショットばかりが積み重ねられ、物語内部の時間の流れも定かではない映画を観続ける観客は、時間の感覚の失調と疲労とにみまわれ、にも関わらず視線を惹きつけずにはおかないテンションの高いイメージの連鎖に引きずられるなかで、まさに身体に直接刻み込まれるような崩壊の感覚に直面し揺り動かされるだろう。

生の時間をギリギリで支える「作業」

 流れ展開することなく、ただすり減り崩落してゆくだけの生の時間。どこか別の場所へ行くことも何か別のことをすることも(それらをただ欲することさえ)禁じられているような生のなかで、それでも人は生きるのだが、その時、とりつくしまもなく即物化した時間のなかで生きるために、人がすることは、どのような結果(変化)も、どのような意味も見いだせないとしても、それでも何かしらの「作業を行う」ということである。

 この映画で、薬物の吸飲は、何よりも作業として可視化されている。アルミホイルを平らに伸ばし、それに火をかざして気化したものを吸い込む。電話帳のような分厚い本のページの表面をひたすら擦り、擦り出した粉状のものを吸飲(吸引)する。これらの行為は「吸飲する」という目的のためになされるというよりも、ただ行為のための行為、作業のための作業であるようにみえる。吸引ですら、それによって酩酊するためのものではなく、吸引のための吸引であるようにみえる。
(廃墟と化した建物に住まいながらも、必死になって室内を整理し、家具の配置を換えようとする青年の行為も、あるいは、何かを編もうとする気などあるとは思えないのに、よれよれになった毛糸をヴァンダの腕に巻き付け、不器用に巻き取って毛糸玉をつくろうとするヴァンダの妹の行為も、同様に、ただ「作業する」ための作業であるだろう。)

 これらの「作業」は、生きる身体を、物理的、化学的な様々な変化の総体へまでも還元してしまうような、時間の圧倒的な即物性に抗って、時間を「生の時間」へと押し戻そうとするギリギリの、最も貧しい(切り詰められた)抵抗であるだろう。

 こんなシーンがある。いつものようにヴァンダがアルミホイルを炙ろうとするのだが、何度やってもライターに火がつかない。傍らには、おそらく拾い集めた物と思われる使い捨てライターがビニール袋にびっしりと詰め込まれてある。ヴァンダはそこから一つ取り出して火をつけようとするのだが、つかない。それを捨て、もう一つのライターを手に取るがそれもつかない。その次、そしてまたその次.....と延々とつづく。

 ヴァンダたちの生は、そのようにくり返される無為の作業の反復と同質のものとして捉えられる。しかしその無為の作業は決して「無為のもの」ではなく、なし崩しの崩壊に抗い、生を生たらしめようとするための最もミニマルな営みなのだ。

やさしさと懐かしさと残酷さ

 『ヴァンダの部屋』には、他者に対する不思議なやさしさが満ちている。ヴァンダは家族や友人たちとともに生きている。彼女たちの住む地区は、全てがむき出しで崩落しつつある貧しくて希望の全くない場所であると同時に、やさしくて懐かしい場所でもある。

 しかし彼女たちは、そのやさしさや懐かしさによってこそ、この希望のない場所に縛り付けられている。これは救いであるのか、それとも残酷なことであるのだろうか。その姿は、苦痛を刻み付けられながらも、イメージに魅了されることで映画館のイスに縛り付けられている観客とどこか似ている、というのは言い過ぎだろうか。

初出 「映画芸術」406号 2004年

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