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不死と死のあいだにある「個」と「性」/「スカイ・クロラ」シリーズ(森博嗣)について (2)

古谷利裕


・Episode 4 脱-キルドレ化=個体化

 「死」から遠く離れ「性」が希薄であるキルドレたちは、その帰結として「個」もまた希薄である。実際彼らは皆、同じような感受性と思考パターンをもち、同じ職種なので似たような習慣で生活し、同じような経験を繰り返し、同じような記憶をもつ(戦闘機で戦い、同僚が消えては現われ、バイクで凍え、病院に入り、飛びたいと願う)。ここで反復性は二重の意味をもち、今日と明日とが同じような日々であることと、わたしとあなたとが同じような人物であることが重ねられる。故に、類型的な記憶(過去)より、今、飛んでいる、戦闘機を操作している、戦っている、という臨場感に生の価値が賭けられている。

 シリーズは短編以外すべて「僕」という一人称によって書かれ、そこには、カンナミ、クサナギ、クリタ、クサナギ/カンナミが代入される。二作目『ナ・バ・テア』の「僕」がクサナギであり女性であることはEpisode 1の終わり近くまで示されず、五作目『クレィドゥ・スカイ』では結末近くまで「僕」が誰なのか謎になっている。シリーズ全体としても、カンナミ=クリタだと思われた「僕」が、クサナギ=カンナミへと移行してゆくという叙述トリックのような構成になっている。

 戦闘機には一人しか乗れず、しかしその「一人」は敵を倒す技能さえあれば誰が乗っても同じであり、かつ、敵もまたこちらと同じような存在であり、交換可能である。だから彼らにとって殺し合いは同質的なコミュニケーションであり、共に踊るダンスである。そのコミュニケーションは《周囲に誰もいなければ、僕は誰であるかなんて、無意味だ》というような「僕」同士で行われる。僕が死んでも、相手の僕は残る。「僕」と言えるのは僕一人であるが、すべての人が自分を「僕」と呼ぶ。コピーロボット同士が殺し合う。戦闘機=カンナミ=「僕」という媒介(器)に、最初はクリタが乗っているように見せかけられていたが、いつの間にかクサナギが乗っていた、と。このような交換(乗り換え)可能な時空が、キルドレたちが憧れる「純粋な空」としての戦闘の世界だ。

 カンナミとはおそらく、固有名というより初期化(自己増殖)されたばかりの(まだ社会化=疑似男性化されていない)、最も原初的な生命に近いキルドレの姿の別名と言えよう(ゆえに男≒無性である)。だからクサナギは彼と「病院」で出会うのだし、クサナギの内部にもカンナミが「含まれて」いる。これは、性差を獲得する以前の原核生物の自己増殖に近い世界だ。任意の「僕」の死とは関係なく交戦が持続する純粋な空とはつまり、雌雄化、個体化される前の自己増殖する純粋な(死なない)「生命」の世界というイメージであり、ラメラ的で反復強迫的なものとも言える。

 だが、性差をもつ大人の男たちもまた戦闘機に乗っている。大人の男性にはティーチャのような人物もいればジョーカのような人物もいる。彼らの死は「僕」たちとの死とは違う。だから「空」ですらも必ずしも純粋な世界ではない。あるいは地上には広報部のカイや科学者のサガラのような大人の女性も存在する。

 もしクサナギが、同質的な男性キルドレ(≒無性)であったとすれば、彼ら彼女らとの関係は通り一遍のものであったかもしれない。実際、『フラッタ・リンツ・ライフ』のクリタ(男)は、サガラを追手の目から逃し、その後でフーコを呼ぶのだが、その関係は希薄なものだ。クリタを強く動かす存在は同類(キルドレ)であるクサナギのみだ(とはいえ、この作品の最後でクリタは「誰か」に花束を買おうと思い、その後おそらくその誰かと失踪する――「Doll of Glory」――ので、他人への関心が「育つ」とは言えるかもしれない、『スカイ・クロラ』ではクリタが食堂のユリちゃんと仲が良かったと書かれているから、「誰か」はユリちゃんだったかもしれない)。

 しかし、女性キルドレであるクサナギは、キルドレ同士の同質的自己完結(自己増殖)から少しだけ外れてしまっている。だから、ティーチャに惹かれ、セックスもするし、ジョーカの執拗な悪意に深く傷つきもする。キルドレは、非キルドレの血が混じることによって脱キルドレ化すると科学者サガラは言う。妊娠によって脱キルドレ化するクサナギは、雌雄性獲得(それは「個」の獲得でもある)への進化に向けで最初に生じた突然変異に喩えられるだろうか。しかし、キルドレとしてのクサナギは、それによって破綻の危機に直面する。


・Episode 5 社会的に強いられた不死

 強迫的に反復するイメージとしての不死は果てることなく交戦がつづくパイロットたちの世界(空)だか、技術的な不死のためには絶え間ないメンテナンスとアップグレードが必要であった(地上)。戦闘機についてはメカニックがそれを担当し、人間(キルドレ)については病院(と科学者)がそれを担当する。原核生物ではないキルドレの自己増殖には「技術」と「資本」の介入が不可欠なのだ。クサナギもクリタもカンナミも皆、病院に収容される。病院は「僕」たちを再・産出(rebirth)させる場所であり、いったん収容されると、(戦闘機が常に改良されているのと同様に)そこで役割や記憶や人格を書き換えられる(一人の兵士としてのクサナギから広告塔としてのクサナギへの変化なども含む)。収容される以前のままでそこを出ることは出来ない。

 つまり、彼らの同質的自己増殖=不死は自然でも純粋なものでもなく、技術によって媒介され、外的(社会的)要因によって強いられたものなのだ。

 『クレィドゥ・ザ・スカイ』は、病院から脱出したらしい主人公の「僕」が誰なのか明示されないまま進行する。「僕」自身にも自分が誰かが分かっていないようなあやふやな記述のなかで、「僕」が複数の陣営(フーコ、サガラ、会社)によって奪い合われる、とも読める。しかし読者はおそらく「僕」はクリタだろうと推測して読み進む。前作からの連続性による予測もあるし、ミスリードを誘う細部が仕掛けられている。それに、この辺りでクリタとカンナミの関係が明らかになるはずだと『スカイ・クロラ』を読んだ読者なら思うからだ(よく読むと「僕」がクサナギであることの「しるし」も散見されるが、それは再読時に発見される)。

 読者は、サガラによる《あなたは、キルドレに戻った》という言葉によって「僕」がクサナギであったことを知る。想定された「僕」が、男性から女性へ、クリタからクサナギへと反転することで、様々な出来事の意味もトランプのようにパラパラと裏返る(この作品も二重描きされている)。だが、この作品でクリタとクサナギとの区別がつかなかったということは、クサナギ(女性キルドレ)がクリタ(男性≒無性)化しているということも意味する。クリタ(男)とクサナギ(女)が混同され得る(男→女)からこそ、クサナギ(女)がカンナミ(男)に成ることも出来る(女→男)。つまりクサナギが踏み出した進化への一歩(突然変異)は、サガラ(科学者)と病院(会社)双方の意向によって潰されたということだ。

(クサナギの友人としてのサガラは、彼女をキルドレに戻したくはなかったのではないか。しかし科学者としてのサガラは、理論の検証をせずに死ぬことは出来なかったのではないか。)

 つまり、不死から死へ、「僕たち(コピーロボット)」から「個」への移行(反復強迫からの離脱)は、社会的に要請される技術的不死によって無かったことにされた。キルドレが不死でいつづけてくれることによって、大人たちは安心して死ねる。キルドレは、「赤い靴」の少女カーレンから切り離された足であり、彼らが踊り続けてくれるから、わたしたちは踊らなくても済む。だからキルドレはキルドレでいてくれなくては困るという社会的要請が、彼らに不死を強いる。

(だが、スピンオフ的な短編集『スカイ・イクリプス』においては、クサナギ=カンナミは、サガラ=科学者でも、会社=資本でもない、第三の陣営、フーコ、ミズキ、カイたちとの関係性――まさに個人的な関係性――によって「個」であることを手に入れ、反復強迫の場から離脱する。これはこのシリーズのもう一つの結末だ。)


・epilogue

 シリーズをすべて読んだ後に再び訪れると、『スカイ・クロラ』には論理的にあり得ない接合が実現しているようにみえる。「カンナミと成ったクサナギ」が、「カンナミに成らなかった(あるいは、成る以前の)クサナギ」と対面する物語のように読めるからだ。

 同居できないはずの二つの異なる可能世界にいる同じ人、あるいは別の時間(未来と過去)にいる同じ人が対面しているように感じる。前述したように、二十代の後半に見え、酒も飲むようになったクサナギは、キルドレに戻らずに老化する、クサナギのもう一つの可能性であると解釈することも可能だ。このようなねじれを、あるいは「論理性の破れ」を内包させるために、シリーズ全体のトリックが構築されていると言える。「論理的にあり得ない時空」を成立させる構造によって、このシリーズは優れたものになっている。

 だが、だとすればこの物語を、新しいクサナギが、(老化し、混乱する)古いクサナギを殺すことで救おうとする話として、つまりクサナギ=カンナミが、自分自身がキルドレであることを肯定する話だという風に読むことになる。それは、性差を持ち、老いることりできる「個」となる可能性を殺すことを意味する。

 そしてこの解釈は、シリーズを経る前、最初に『スカイ・クロラ』を読むときの解釈とは逆のものとなる。最初に読む時は、クリタ=カンナミである「カンナミ」が、クサナギの無限の反復(不死)を断ち切ってやりたいからこそ、かつて同じ理由で自分(クリタ)を殺してくれた彼女を殺すようにみえる。

 だが実は、一度目と一周した後の『スカイ・クロラ』の本質的な違いは、キルドレ(不死)の否定か肯定かにあるのではない。一度目にはなくて一周後にあるものとは、「僕たち」が、「性差」「個体」「死」をもつものへと移行してゆく「可能性」だろう(一度目には永遠の命かその断絶かの二択しかない)。確かにここ(一周後)ではその可能性は潰えてしまったが、可能性が生まれた以上、それは(想定可能な)二周後や三周後には実現するかもしれない。いや、それが実現するのは100億周後かもしれない。生物の進化とはそのようなスパンで生じるものだろう。

(了)

初出 「ユリイカ」2014年11月号



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