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〔映画評〕オルガの死は、どの程度ナナの死の反復なのか/J・L・ゴダール『アワーミュージック』

古谷利裕

 時間の堆積はそれ自体で歴史となるわけではない。例えば文化の厚みは時間の堆積であっても歴史ではない。歴史とはむしろ、自然な土壌(連続性)である文化が変容し、破壊される時に(つまり切断される時に)刻まれる。例えばクロード・シモンやジョナス・メカス。基本的に農耕的であり、土壌=文化の連続性に基盤を置く彼らの描き出すイメージは、土壌=文化が歴史に接触して変貌してしまったことによって悲劇的な様相を帯び、彼らのイメージの幸福や輝きはその悲劇と不可分だ。

 歴史とは、ある土壌=環境と、別の土壌=環境とが接する(それはしばしば一方が圧倒的に「強い」のだが)ことで、後戻り出来ない変容が生じる、という事柄の積み重ねとして表象される。

 ゴダールは、そのような「変容」が既に起こってしまった後のサラエボに降り立つ。そこにあるのは、かつてそうであったであろう痕跡と、それが既に失われてしまった現在の姿であり、その間の歴史=出来事は抜け落ちている。当事者ではなく「よそ」から遅れてやってきたゴダールは、この土地の文化=連続性とその破壊について語る資格をもたない。だからゴダールはここで、歴史について語ろうとしているのではない。

 ゴダールの眼差しは、サラエボの現在の姿から、かつてそうであったものの痕跡を見つけ出そうとすることに注がれる。そして、そのような後ろ向きの視線が、そのまま折り返して未来への希望と繋がる線を見つけ出そうとする。
(例えば、破壊されてしまった古い橋を再建しようとするプロジェクトは、子供達の学ぶ教室で語られており、再建されつつある橋のショットは、ゴダールとしてはきわめて珍しい、子供達が屈託なく歌を歌っているショットとモンタージュされている。)

 ここではかつての痕跡(複数の文化、民族の共存の実現)が、ユートピア的に回顧されているのではない。現在から、失われてしまったものの痕跡を見るという視線が、これまでとは異なる新しいものとしての未来の可能性を探ることへと反転するような「視線」のあり様(これがゴダールの語る「切り返し」だろう)が模索されている。現在のサラエボの風景を基点として、過去への視線と、そこから折り返された未来への視線が重なることで開ける場所に、この映画はささやかなフィクションとしての希望の場所を立ち上げようとする。

 銃痕の残る廃墟となった図書館、市場に集う人々、市場をかすめるように走る路面電車。このような現実のサラエボの風景が、イスラエルとパレスチナの対話が実現し、消滅してしまったアメリカ原住民(の幽霊?)が闊歩する対話と共存の空間へと束の間変容する。ゴダールは、現実の破壊されたサラエボの風景に、あり得べき希望の場所たる可能性を重ね書きしてみせる。しかしそれは、高度に圧縮された断片によって、さらっと素描されるにとどまり、一瞬の幻のように消えてしまう。

 この映画でゴダールが示すもう一つの「切り返し」は、前述したものよりも容赦がない。それは、ゴダールをみつめるオルガと、オルガを見ることの出来ないゴダールとの交わらない視線であり、非対称的な「切り返し」である。

 自分自身の役を演じるゴダールが、学生たちに講義する。努めて見ることと、努めて想像すること。前者は目を開け、であり、後者は目を閉じよ、だ、とゴダールは語る。

 それに対して切り返される学生たちのショットでは、オルガ唯一人だけが実際に目を閉じている。つまり、オルガだけが、ゴダールの言葉を受け止め(真に受け)、ただ見るだけでなく(あり得べき可能性を)「想像」している。しかし続いて示されるゴダール自身を映すショットで、ゴダールは逆光の暗闇のなかに孤独に沈んでおり、自分の言葉がオルガを動かすのを見ることが出来ない(視線は一方通行である)。『アワーミュージック』を評する多くの人が、ゴダールがもつ現在のヨーロッパに対する視線について述べる。しかしゴダールにとって重要なのは「フィクションのユダヤ人とドキュメンタリーのパレスチナ人」といった非対称性であるよりも、ゴダールとオルガの視線の行き違いであり、出会い損ないの方であろう。

 このことは『女と男のいる舗道』のナナを想起させる。ドライヤーの映画『裁かるるジャンヌ』のジャンヌの涙を見て、ナナも涙を流す。ナナはジャンヌを見ているが、ジャンヌはナナを見ていない。この、視線が交わることのない時間を超えた感動的な切り返しは、ナナに決定的な何かをもたらす。 
 
 つまり、オルガにおいてもナナにおいても、決定的な何かを受け取るのは対話によってではなく、孤独のなかでなのだ。孤独な者から別の孤独な者へと非対称的に何かが伝わる。その「何か」が彼女に一線を超えさせ、彼女を死に至らしめる。しかしゴダールはそんなことを知る由もない。一方で、開放的な対話の空間(の可能性)を示しつつ、この映画は実はそのような「継承=断絶」をも示すのだ。

初出 「ホームシアターファイル」2005年


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