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〔美術評〕だまし絵 Ⅱ 進化するだまし絵 /Bunkamura ザ・ミュージアム

古谷利裕

※以下は、2014年8月9日~10月5日まで、Bunkamura ザ・ミュージアムで行われた「だまし絵 Ⅱ 進化するだまし絵」展のレビューです。

https://www.museum.or.jp/report/517

 

 本展に集められているのは、トリックを用いた作品であると同時にトリックを意識させる作品でもある。その意味で「手品」とは異なる。

 まず不思議さに驚かされ、次にその仕掛けになるほどと思う。あるいは、なんの変哲もないと思われた「見かけ」が、その仕掛けを知ることで不思議さを帯びる。どちらにしても、ある感覚や経験があり、それに意識的な反省(吟味)が加えられる。いわば「なぞなぞ(謎)」とその「答え」の間を行き来する、という二段構えになっている。このことが「感覚」と「思考」とを結びつける。

 なぞなぞの答えを知って満足するだけでもそれなりに面白いだろう。トリックによって生まれる幻影を楽しむ手品という段階があり、次に、謎とその答えという二段構えによって「仕掛け(機知)」を楽しむ、なぞなぞという段階がある。そして、芸術作品はもう少し先まで進もうとする。

 パトリック・ヒューズの作品は、平面の上に描かれた風景のように見える。しかし、作品を見ながら移動すると、絵の向こう側にも空間が広がっているかのように、描かれた風景も変化するので驚く。実は、平面上ではなく、山と谷のような凸凹のある面に描かれているので、見る位置によって像が変化するという仕掛けだ。

 だが、巧妙に作られているため、「頭」で仕掛けを知った後でも、「眼」は依然として描画された面を平面として知覚するから不思議さ(違和感)は消えない。答えを知った後でも、なお謎が持続するなぞなぞのようだ。

 杉本博司の作品は、野生動物を撮影した写真のように見えるが、実は博物館のジオラマを「自然らしく」撮影したものだという。ここではタネ明かしこそが「仕掛け」であり、タネを明かされてしまった者は、単なる逆説として処理するには美しすぎるモノクロ画像による「偽の自然のイメージ」から、一体「何」を見いだせば良いのかと途方に暮れる。もはやそれを自然として見ることはできないが、かといってジオラマのようにも見えない。

杉本博司 「Polar Bear」 1976年 ゼラチンシルバープリント 
画像引用元  The New York Times Style Magazine : Japan
https://www.tjapan.jp/news/17356252/album/16790648/image/16881606 

 この時、観者は、「騙す仕掛け」を見ている(知っている)人であると同時に、その仕掛けに騙されている人でもある。感覚的な入力(視覚)と、思考による情報処理との間で齟齬が生まれ、(偽のイメージが美しくきめ細やかであるために)どちらか一方によって他方を制圧できないという状態になる。そこで観者は、それを見ている「わたし」の方が分裂するかのような感覚を得るだろう。

 このような分裂によって、感覚と思考の「連結のあり方」が意識される。感覚と思考の両者がともに刺激され、両者の関係が吟味されるだろう。このような作品は、何かを表現するというより、分裂状態を発生させる装置としてある。
(了)

初出 東京新聞 2014年9月26日 夕刊


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