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〔美術評〕Re: play 1972/2015―「映像表現 '72」展、再演/東京国立近代美術館企画展ギャラリー

古谷利裕

※以下は、2015年10月6日~12月13日まで、東京国立近代美術館企画展ギャラリーで行われた「Re: play 1972/2015―「映像表現 '72」展、再演」のレビューです。


 油絵の技法は15世紀にファン・アイクが完成したと言われる。その後、ヴェネチア派やチューブ入り絵具の登場などにより技法の革新は繰り返されるが絵具そのものは基本的には変わりない。今売られている油絵具でファン・アイクのように描くこともマティスのように描くことも可能だ。油絵具は文化的なスタンダードとして生き続けている。

 一方、テクノロジーと密接に関わる工業製品は、技術進歩と資本主義の要請により常に変化しつづける。映像を記録する媒体として、フィルムやビデオテープと現在のデジタル技術とでは、内容以前に映像を出現させる仕組みが異なっている。一つの形式がスタンダードとして長続きできず、常に過渡期にあり、最新技術も十年後には別の形式に取って代わられる。

 だからこそ、技術的作品は自分自身を成立させる条件である「技術の形式」に自覚的になる。フィルムに焼き付けられた画像が映写機によりスクリーンに投射されて映像が得られる映画と、零と一の数字の羅列であるデータが一定の規則(プログラム)に従い変換されることで映像が生じるデジタル動画とでは成り立ちが異なる。ある形式による表現が、その形式の成り立ちと深く絡み合っている場合、表現は形式と不可分になり、別の形式で代替することができなくなる。

 映画というメディウムは、投射されるもの(フィルム)、投射するもの(映写機)、投射されたもの(映像)、投射を受け止めるもの(スクリーン)、投射の条件である暗い部屋(上映室)、という複数の要素の配置-関係によって成り立つ。「映像」だけが問題ならデジタルに取って代えられるが、配置-関係の全体が問題となる作品の場合は他のメディアで代替は出来ない。成り立ちも含んで映画=装置が空間化されている本展の場合、虚構の時空としての映像と、それを成立させる現実的時空という、虚実二層にまたがるものになっている。

 その場合、絵画のように「物の展示」だけでは済まず、戯曲の上演のように配置全体を「再演」する必要がある。本展は七二年に京都で行われた当時としては先進的な展覧会を忠実に再現-再演したものだ。

 オリジナル作品が虚実両面を問題とするのと同様に、本展-再現では「過去の再現」だけでなく、再現を成り立たせる(それを再現している)「現在」もまた問題とされている。

 「再演された作品(過去)」のまわりを「当時の状況を説明する資料」を掲示したパネルが取り囲んでいるという展覧会の構成は、再現-作品そのもの(過去)と、当時の文脈の説明とそれを今再現する意図の提示(現在)という、二つの時間の層にまたがっている。そのあり方は、虚構とその条件である現実の二層が同時に問題となっているオリジナル作品の構造とパラレルとなっていると言える。

初出 2015年11月6日 「東京新聞」夕刊

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