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〔映画評〕地縛霊とモンスター/事前と事後 (ツァイ・ミンリャン『楽日』、アルノー・デプレシャン『キングス&クイーン』について)

古谷利裕


モノマネの創造性

 似顔絵やモノマネで問題になるのは、「似ている」という感覚をつくりだすことであって、オリジナルにどこまで近づけるかということではないだろう。モノマネ芸人は、自らの声を使い、それに自分の身体による仕草や言い回しを付け加えることで(つまり、自分が持っている、オリジナルとは別のマテリアルをかき集め、それを使い、それを合成して)「似ている」という感覚を新たに構成する。本人とまったく同じ声、まったく同じ言葉を発したとしても、それでは面白くない。

 「似ている」というのは「違う」ということを前提にして(異なるマテリアルによって構成されることを前提として)はじめて成立する感覚だろう。違うからこそ、本人よりも本人らしい声、本人よりも本人らしい喋り方、という感じ方が生じる。面白いモノマネは、それを観る人にしばしば、そのモノマネ以前には気づかれなかった本人の特徴的な癖を意識化させる。その意外な驚きがまた「面白さ(リアルさ)」にも繋がるだろう。つまり、新たなモノマネは(対象を模倣するのではなく)、「新たな類似」を創造する(モノマネのモノマネは、その「新たなもの」が欠けているから、どんなに「似て」いても面白くはない)。

 しかしまた、それを「似ている」と感じるためには、いままで「気づかれ」てはいなかったにしても、その特徴を、観客たちがあらかじめ「潜在的に知って」いる必要がある。明確に意識化はされてはいないが、多くの人にとって薄々感じられていた癖や特徴がモノマネによって顕在化された時、人はそれを面白いと感じるだろう。本人の特徴的な癖や特徴は、このようにして、モノマネによって事後的に意識され、定着される。

 当然のことだが、モノマネによって創造された「似ている」という感覚が成立するためには、オリジナルな本人の「(物質的)存在」がそれに先立ってあり、人々がそれと事前に接していなければなければならないだろう。モノマネによって事後的に定義される以前の本人の印象は、流動的で掴みどころがない(物質として存在している「本人」の状態は、刻一刻と流動的に変化しているだろう)。モノマネには、そのような確定されていない感覚的な印象の不確かさを、ある種の単純化によって暴力的に確定するという機能がある。

 モノマネが「似ている」ことは、本人とは「違う」ことによって(つまり切り離されていることによって)成り立っているのだが、しかしまた、モノマネはそれに先行する本人の存在(本人から受ける不確定な印象)なしにはあり得ない。本人の「印象」(の不確かさ)は、モノマネによって(確定的に)「記述」されることで扱いやすくはなるだろう。しかしモノマネの生む「似ている」という感覚は、オリジナルな本人の存在(印象や固有名)という「場所」が先にあって(そのような場所があらかじめ開かれていることによって)、その場所に憑依するようにして生まれ出ることが出来る。

 いわば、本人の(不確かで流動的な)印象と、モノマネがつくりだす、それとは「違うもの」としての「似ているという感覚」は、固有名というひとつの「場所」で、分離しつつも重なっているというか、共立している。常に流動的で掴みづらい、物質として存在する本人から受ける「印象」と、そこに起因しながらも、新たな「違う」ものとして創造される「似ている」という(分かり易い)感覚的印象とは、固有名という場所に、異なるレイヤーで、どちらも共に地縛霊のように貼り付いている。

ツァイ・ミンリャン『楽日』

 地縛霊は、あるフレーム(土地)の範囲内に閉じ込められているが、そのフレームのなかでは常に不確かに移動している。そして、その浮遊する地縛霊は複数存在する。同一の「場所」に縛られている複数の地縛霊たちは、その場所を共有しながらも、それぞれが孤独に、異なるレイヤーに存在しているので、同じ空間内を頻繁に移動しているにも関わらず、互いにぶつかったり、出会ったりすることはない。

 ツァイ・ミンリャンの『楽日』は、そのような映画だと言える。我々が観るのは、それらがぶつかり合うことも混じり合うこともなく、分離したままさまよう姿であり、その孤独の感触である。ひっそりと、ただざわめくように存在している彼らは、その場所によってかろうじてその存在が許されているかのようなのだが、しかし実は、彼らの存在によってこそ、その、至るところから水が漏り、滲み出て来る、今にも崩れてしまいそうなその場所が、かろうじて幻として立ち上がり、持ちこたえられているのかもしれない。

 『楽日』は、最後の営業日を迎えた古い映画館を舞台に、三つの(あるいは四つの)、異なるレイヤーが分離したまま重ねられることで構成されている(古い映画館という大きなフレーム=場所が、複数の異なるフレームたちを束ねている)。

 一つは、足の悪いモギリの女性が、上映技師への思いを秘めつつ、やたらと起伏のある映画館の空間を、悪い足を引きずりつつ彷徨する、というもの。一つは、パートナーを探すゲイたちが、客席やトイレや倉庫のような場所を、うろうろと怪しげにさまよう、というもの。そしてもう一つは、往年の映画スターとその孫が、過去の自らの出演作品を、かつては人で賑わっていたが、今夜で閉館になってしまう閑散とした映画館の、彼らの他には誰も本気で映画を観ていない客席でひっそりと映画を観ている、というもの(さらにもう一つ付け加えるとすれば、その映画館でスクリーンに投射されている映画そのものも、一つの独立した系としてあるだろう)。

 それぞれの人物たちは皆孤独で、何かを求めるために、今にも崩れてしまいそうな古い映画館へと集まって来る。だが結局、モギリの女性は上映技師に思いを伝えることが出来ず、ゲイの日本人はパートナーを見つけることが出来ず、往年のスターは孫とただひっそりと映画を観ているだけだし、上映されている映画は、その映画にかつて出演した年寄り以外の誰にもまともに観られてはいない。モギリの女性は、トイレにたむろするゲイたちと遭遇することはないし、往年のスターは、ゲイの青年の秘められた欲望に気づくことはない。ゲイの青年は、モギリの女性の上映技師への思いや、過去への郷愁とともにそこ訪れた往年のスターの想いが、この映画館という同じ場所に息づいていることを、想像もしないだろう。

 だが、この映画では、それぞれの孤独な流れの分離だけが描かれるのではない。(上映されている映画に興味などない)モギリの女性は、スクリーンの裏側で、スクリーンに投射された映画に映し出される女優と、ふと一瞬視線を交錯させるように見えるし、(古い映画館の歴史になど興味のない)ゲイの青年は、劇場内をうろつくうちに、かつて映画館がにぎわっていた頃の幽霊と出会ってしまう。そして、孤独に映画を観ていた俳優は、同じように映画を観に来ていた別の俳優と映画館の出口で出会うのだ。

 つまり、それぞれ分離された孤独な流れは、ほんの一瞬だけ、事故のようにして他の流れと交錯(あるいは混線)する。だが、その交錯=混線は何かを変化させることはなく、一瞬の鈍い閃光を放って消え、映画館は閉じられる。この映画は、その一瞬の交錯=混線を生じさせるためにこそ、周到に構築されているとみるべきだろう。

 しかし、この映画が、周到に構築された良く出来た作品ではあっても、素晴らしく面白いというわけではないのは、この「分離した系のふいの交錯」という「出来事」のあり方が、あまりにも図式的であり予定調和的であって、事故のような出来事の新鮮さがないことによるだろう。それは例えば、新たなモノマネが(事後的に)生む「似ている」という感覚の新鮮さではなく、モノマネのモノマネがつくりだす安定した(事前に確定的に記述され、その記述が既に共有されていることが分かっている上で改めて確認される)「似ている」という感覚に近いと言える。
(この映画における唯一の「新鮮な混線」は、ラストに流れる唄の作曲者の名前だろう。)

アルノー・デプレシャン『キングス&クイーン』

 アルノー・デプレシャンの『キングス&クイーン』は、無数の死体を切り刻んで、その部分を繋ぎ合わせた、歪なモンスターのような映画だ。そのモンスターを構成しているマテリアル(断片)の一つ一つは、どこかからの借り物であり、わざとらしく、小賢しく、これ見よがしなものと言えるだろう。
ツギハギのモンスターであるこの映画には、外からその展開やフォルムを規定し、調整するような基本的なトーンや枠組みが失われているだけでなく、登場する人物の同一性すら危ういと感じさせる唐突な断絶が随所にみられる。

 この映画は、二人の登場人物による二つの異なる生、それぞれに独立した二本の調子の異なる流れが、次第に交錯してゆくような作品だと、とりあえず、映画が示す「物語」の上からは言えるかもしれない。しかし、この二つの流れ(流れが「二つ」であること)を基底的に支える指標であるはずの二人の人物それぞれの同一性からして、既に、きわめて危うく、新たなシーンが付け加えられるたびに、全く異なる人物(人格)があらわれるかのようですらある。

 とにかくこの映画には、様々な切断の線がはしっている。二人の主人公の、一方の人生からもう一人の人生へとジャンプし、悲劇的な調子は喜劇的な調子に唐突に接続され、頻繁に舞台が移動し、新たな登場人物がほとんど説明抜きに次々と物語に介入し(見ず知らずの人物がいきなりフレーム内に当然のように居座っていて、それが一体「誰」なのかは、随分後になるまで説明されなかったりする)、展開は折れ曲がり、きれぎれの回想が現在を切り裂き、登場人物の印象はあらたなエピソードがつけ加えられるたびにころころ変化する。

 唐突な切断、あるいは、あらたな要素の不意の導入は、現実では必ず存在するはずの因果関係やそれを匂わせる徴候や連続性をすっとばしてしまうため、個々の要素はえてして薄っぺらで深さを欠いている。

 実際、この映画の頻繁で唐突な調子の変化は、作品としてはほとんど破綻しているという印象さえ感じられるほどだ。同じ俳優によって演じられているという目印がなければ、シーンごとに別の映画があらわれているようにみえるのではないかとさえ思える。二本の流れと書いたが、それは独立した系として線を描くにはあまりに途切れ途切れで、むしろ無数の切れ切れの線が、俳優の身体的イメージの見かけ上の同一性によって二つのグループに分けられているだけと言うべきかもしれない。

 以前のデプレシャンの映画ならば、いくつかの主題の順列組み合わせ的展開として「線(系)」といえる連続性が成立していたが、ここでは、シーンごとに、異なる主題、異なる感情が、流れを無視するかのような唐突さで浮上する。

 編集という次元でもこの映画は徹底して切り刻まれている。例えば、ノラを演じるエマニュエル・ドゥヴォスが、それまで平静だったのに、ふいに感情が昂って、嗚咽をもらすシーンが何度かある。だが、いかに唐突な感情の変化があらわれたのだとしても、それが「生身」の人間において現れる時(俳優が演じようとする時)、平静な状態から嗚咽へと至る中間地帯を通る他ないはずだ。つまりそれは、速度は速いとしても連続的な変化であるはず。しかしここでデプレシャンは、ジャンプカットのようにして、その中間地帯を切って、平静な状態のショットからいきなり嗚咽したショットへと繋いでしまう。

 このことによって、エマニュエル・ドゥヴォスの演じる女性の身体の自然な連続性がにわかに危うくなり、いくつもの側面に分裂した、モンスターめいた表情が浮上する。

 あるいは、人物の造形という面で、マチュー・アマルリックが演じるもう一人の主要人物もまた、掴みどころがない。最初に登場した時の、精神病院に強制的に収監されるエキセントリックな人物と、最後に出てくる、子供に養子縁組を断った理由を諭している落ち着いた人物とが、同一人物だとはなかなか信じがたい(いや、観客は、同じ俳優であれば簡単に同一人物であるととりあえず「受け入れて」しまうしかないのだが)。

 この人物は、新たなシーンが一つ付け加えられるたびに、新たな側面(性格)が付け加えられると言ってよいほど、その性質を常に変化させ、それらのツギハギとしてある。この人物はつまり、事前に与えられたキャラクター設定のなかで動いているのではなく、バラバラな断片が寄せ集められた結果として、事後的に「このような人物だった」と言えるだけなのだ。

 そして、バラバラに切断されているようにみえる個々の要素が、思ってもみなかったところで繋がったり、あるいは、繋がらないまま、二時間半という時間の持続のなかで次々に畳み掛けるように蓄積されてゆくことで、その結果として、(事後的に)不思議な厚みが「あらかじめその人物に備わっていたかのようにして」感じられる。

 デプレシャンが徹底して避けていることの一つに「断言する」ということがある。「断言」を避けるためにこそ、様々な手を使い、バリエーションを展開し、一繋がりのものをわざわざ切り刻み、言い訳を考え、深読みを誘うような(わざとらしい)細部をあちこちに仕込む。だから、デプレシャンの映画の個々のシーンは決して映画として「強い」ものではない。

 たった一つのショットで全てを言い尽くし、人々を納得させてしまうような決定的なショットというものほどデプレシャンから遠いものはない。人々から言葉を奪うような強いショット、強いシーンがあってはならなくて、常に、人々から途切れることのない無駄なお喋りを誘い出し、様々な解釈を導き出すことこそが重要とされている。だからショットやエピソードはそれ自身で自らの意味を決定することはなく、常に後からくる別のショット、別のエピソードによって読み替えられる可能性に開かれたままである。

 一つ一つは大した意味のない、断片的で無駄なお喋りが、際限もなく、幾重にも折り重なり寄せては返すこと。そのざわめきの振れ幅こそが、デプレシャンにとって真実であり、人生の厚みであるように思われる。

 つまりこの映画には、「二つのフレーム(流れ)」も、その異なるフレームを「共立させる場」も、あらかじめ事前に確定的にあるのではなく、それらは、バラバラの断片がツギハギされた結果として、その混乱のなかで、事後的に(映画を観つつ、それについて考える観客の頭のなかで)新たな要素が付け加えられる度にその都度、幻として構成されては、またバラけてゆくのみだと言える。

同一性を「事後的」に引き受ける

 切れ切れのイメージを、ツギハギ状ではあっても(ある程度の連続性をもって)繋ぎ合わせることを可能にしているのは、その役を演じている俳優の(現実上での)身体(のイメージ)の同一性なのではないだろうか。デプレシャンが、同じ俳優たちと長く仕事をしつづけていることも、これと関係があるように思う。

 つまり、デプレシャンの、切り刻み、寄せ集め、ツギハギする、容赦のない形式=内容上の探求は、いつも一緒に仕事をしている俳優たちの、見かけ上の、あるいはその性格まで含めた、安定した同一性への信頼を基盤(定点)とすることで成立するのではないか。

 『キングス&クイーン』で、男女二人の主人公(の身体の自然な流れ)を大胆に切り刻んだ上で再び構成し直すことが出来るのは、それを演じているのが古くから一緒に仕事をしているエマニュエル・ドゥヴォスやマチュー・アマルリックだからなのではないだろうか。現実的な身体の同一性と連続性とを根拠としてもつからこそ、それを切り裂き、ツギハギして、別のものへと、つまり似ているが、違う、何ものかへ、と、作り替えることが出来るのではないだろうか。

 至るところに切断の線がはしる、死体を切り刻んだ上で縫い合わせたような歪んだこの映画で本当に面白いのは、その乖離=解離の具合ではなく、勿論、そこに過剰に張り巡らされた隠された作為を読み解くことでもなく、それらの全てを最終的にエマニュエル・ドゥウォスが演じるノラという女性が引き受けるところにあると思う。

 これらの雑多なもの、これらの矛盾、これらの取り留めのなさ、これらの下らなさ、これらの混乱、その全てを、「私」が「私」として(実在するエマニュエル・ドゥウォスの身体イメージの同一性において)「事後的に」引き受ける。この強さ、このしれっとしたずうずうしい確信こそが、この映画の恐ろしさの正体なのではないだろうか。

初出 「映画芸術」416号 2006年


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