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〔映画評〕現在にまみれて身動きが出来ない/アモス・ギタイ『キプールの記憶』

古谷利裕

*以下のテキストは、2002年に「批評空間Web CRITIQUE」に発表されたものです。

いきなりいる男

 アモス・ギタイはイスラエル生まれの映画作家であり、『キプールの記憶』は第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)でのギタイ自身の体験を題材としている。この映画を観る者のほとんどは、前もってこの程度の予備知識は持っているだろう。しかし、このような予備知識とは無関係にこの映画を観る時、これが一体どのような戦争で、登場人物がどのような経緯でこの戦争に参加しているのか、この人物はそもそもどのような背景をもった人物なのか、それらが明確にされることはない。

 戦場以外での主人公の姿は、ただ無人の街を歩いていたり、原色の絵具にまみれて恋人と性交している場面が示されるのみで、彼はほとんど「いきなり」部隊からはぐれて車を走らせている兵士として登場する。
この車に同乗しているもう1人の男は、どうやら仲の良い友人であるらしいのだが、彼との関係も、幼なじみと言えるような古い仲なのか、それとも部隊に配属されて知り合ったのか、そのような過去を匂わす描写はなく、いきなり友人として車に同乗している(中古車とマルクーゼに関する会話から、彼らの知的な背景が多少匂わされはするのだが)。

 この主役の人物は間違いなく監督のギタイをモデルとした人物であり、誰もそれを間違うことのないように、この映画に関するあらゆる文章にそのことが記されている。にもかかわらず、彼は過去も未来も持たない(過去からも未来からも切りはされた)、ただ戦場というひたすらな「現在」においてしか存在しないような抽象的な人物、「ある男」として登場するのだ。

「現在」にまみれて

 この映画の特異な印象は、それを構成するショットに流れている時間が、ただ「物語」に奉仕しているのではないというだけでなく、「映画」にも奉仕していない、というところからくるのではないだろうか。

 言うまでもないことだが、映画においてはワンシーン、ワンショットの長回しのショットであっても、それは「現実」の時間をそのまま写し、切り取っている訳ではない。そこには当然「映画的」な時間の伸縮がある。むしろ切れ目のないひと繋がりのショットであるからこそ、そこに映画的に圧縮されたり引き延ばされたりした「時間」が濃淡のように演出されて配置され、そこに映画独自の濃密な時間の体験があらわれる(例えば、同じギタイの『ゴーレム、さまよえる魂』での流麗な長回し)。

 しかし、『キプールの記憶』における長く切れ目なく持続するショットは、そのような映画的な幻惑する時間を産み出しはしない。深みのない、あっさりした印象すら受ける。確かに、冒頭近くにみられる、自動車のフロントガラス越しに見られる戦場のショットなどは、いかにも映画的と言うか、シネフィルを喜ばせるに充分な素晴らしいショットと言えるだろう。 

しかし、断続的に響く爆発音と土煙りのなかで、まるで地を這う巨大なゴキブリのように砂漠を右往左往するだけの戦車と、太古の恐竜のように空を舞っているヘリコプターを延々示すショットや、足元もおぼつかないような泥のなかで、泥にまみれながら負傷兵を運ぼうとする兵士たちを、彼らの行動を、やや離れた位置から望遠ぎみのレンズでずっと捉えているショットや、戦車のキャタピラの跡が縦横無尽にはしっているその沼地を、ヘリコプターからの俯瞰で延々と捉えているショットや、終幕近くの、兵士たちが担ぎ込まれた恐ろしく混乱している野戦病院で医師が患者たちに語りかけてゆく長いショットなどでは、映画的に緊密に制御され構成されているような時間とは別種の、ただつかみどころのない混沌のままに放り出されたような時間が現れているように思う。

 ここでは、映画的な持続の質や、アクションの流れや連鎖ではなく、一つ一つの出来事や表情が、前後の関係から切れて、その都度その都度(しかも複数のものが一挙に)プツッ、プツッと浮かび上がっては消えてゆく、という感じなのだ。

 これは恐らく、カメラの都合によってシーンの段取りを組み立てない、まずそこで起こっている出来事があり、カメラはそれを追う(あるいは追い切れない)のだ、と言うような演出の態度(これを「ドキュメンタリー的」と言うことも確かに可能だろうし、事実『フィールド・ダイアリー』の冒頭のショットなどに近い感覚がある)によるものだと思われるのだけど、それだけではなく、主人公たち兵士が、過去からも未来からも切り離され、戦闘という緊急事態によって「現在」に閉じ込められ、時間の厚みを奪われているからでもあるだろう(兵士たちは、まるで泥にまみれて身動きが出来なくなるように、「現在」にまみれて身動きが出来なくなる)。主人公の男からは、原色の絵具のなかで恋人と抱き合うという抽象的なシーン以外には、過去も未来も奪われている。

ギタイ、ソクーロフ

 この、即物的に投げ出されてしまっているような時間の感覚に近いものをあえて探すとしたら、そこにはソクーロフという名前が浮かびあがってくるのではないだろうか。

 勿論、ソクーロフとギタイとでは映画全体の構成の仕方がまるで違う。ギタイの『キプールの記憶』では、一方に戦場における混沌とした、全体的な状況など全く掴めず右も左も分らないままにただひたすら負傷した兵士を運搬するための苛酷な運動(状況も分らないまま続けられる行為は、ほとんど抽象的な「運動」に近づいてゆく)に従事する兵士たちの姿と、もう一方にそのような昼の混沌とした喧噪がウソのような、本当に戦争が行われているのか分らなくなってしまう程静かな夜の兵舎での時間とを、対比的に交互に反復して示している(ギタイの映画は、いつも弁証法的な運動によって出来ている)。その反復のなかで、徐々に時間の感覚が磨耗して、そこに心身ともに蓄積される疲労なども加わって、夢なのか現実なのかも分らない、一体いつから始まっていつ終わるのか、終りなどないのではないか、と思わせるような永遠に続いてしまうかのように浮遊した時間の感覚があらわれてくる。

 それに対して、つかみどころのない気味の悪い時間が、つかみどころのないままにでろでろっとどこまでも拡がってゆき、全てを包み込んでしまうようなソクーロフの例えば『精神の声』とはまるで違うと言える。だが、ひとつひとつのショットが内包している時間、時間の即物性、散文性のという部分では共通した感覚があるように思える。

ある感覚、「疲労」

 しかし、ショットそのものが内包する時間が即物的なものであったとしても、この映画が示しているのは時間の即物性そのものではなく、主人公である「ある男」の身体を媒介として産み出される「ある感覚」、世界についての、時間についての「感覚」なのだ。

 『キプールの記憶』が示しているのは、兵士たちのドラマではないし、戦場の臨場感を体感させることでも勿論なくて、そこではただ負傷兵を運搬するという行動が、行動の段取りが、ヘリコプターで乗り付け、負傷した兵士たちに駆け寄り、診察し、ほう帯を巻き、気道を確保し、重傷の者を選り分けて担架に乗せ、それをヘリコプターへ運び込む、という行動だけが、沼地にはまり込み、負傷兵を抱えたまま身動きも出来なくなり、泥まみれになりながらもがいているというその状況だけが、彼らが降り立った場所が何処で、一体そこがどのような状態であるかなどは一切分らないままに示されてゆくばかりなのだ。

(新聞を読んでみても、状況を俯瞰的に示す情報はなく、そこには「緊急事態のために炭酸水の供給を制限した」とか、そんなことしか書いてないのだった。)

 そのような、因果関係を失い、過去とも未来とも繋がりを断たれてバラバラに生起する複数の出来事の集まりでしかないショットたちを、一本の映画作品として束ねているのは、昼の混沌と夜の静寂との対比の果てない「反復」という形式の他は、その状況に参加している主人公である「ある男」の身体であり、その身体の同一性、連続性なのだった。

 注意深く人称化することを避けて演出されているショットの連なりは、しかし「ある男」の身体がそこに参入することで、その「ある身体」によってバラバラなまま接着され、構成された「ある感覚」へと変化してそこに生起するのだ。因果関係が希薄なままたちあらわれ併置される視覚的聴覚的な記号の束は、そのなかを走り抜けてそれを知覚し感受する身体によって「感覚」へと変質する。

 そしてその「感覚」をあえて一言で表すとしたら、監督自らが述べている通り「疲労」ということになるだろう。そこにあるのは、慢性化した恐怖と、展望のない反復、ひたすら蓄積されてゆく疲労と、どこまでも続いてゆくような磨耗した時間の感覚なのだ。

過去からも未来からも切り離された時間

 主人公たちがいつの間にか迷い込むようにして入り込んでしまったそのような時間(=戦闘)は、彼らの乗ったヘリコプターが、どこからどのようにして飛んできたのか全く分らないミサイルの攻撃によって、何の前触れもなく唐突に中断させられるまで、まるで永遠のようにつづいてゆくのだ。

 そこに至る経緯も、現在の状況も、行動の成果も、未来に対する展望も示されないままに、ひたすら即物的な時間のなかでの具体的な行動ばかりが要求される時、つまり「ある身体」にとっての時間が過去へも未来へものびてゆくことが許されずに、常に緊急事態によって切断され、純粋に「今・ここ」だけに孤立させられる時、生はひたすら抽象的な運動に近づいてゆき、そこには疲労だけがただただ蓄積されてゆくばかりなのだった。

初出 「批評空間Web CRITIQUE」 2002年

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