見出し画像

〔美術評〕「ながめる まなざす Division-2」展の山方伸の写真について

古谷利裕

*以下は、2010年6月4日(金)~6月22日(火)に、アップフィールドギャラリーで行われたの「ながめる まなざす Division-2」展から、山方伸の作品のレビューです。
(初出 東京新聞 2010年6月4日 夕刊)

https://www.tokyoartbeat.com/events/-/2010%2F800D

 写真は、全てを等しく「見えるもの」として一元化してしまう。山方伸の作品を見ることで感じるショックは、まずは、写真という装置がもっているこのような性質を露わにしていることによる。

 山方伸の写真には何が写っているか。まずは坂道や斜面、土地の高低差、遠くにそびえる山などの地形であり、地形の上に建つ、家や小屋、電柱、石垣、塀、柵、杭といった人工的な建築物である。そして、木々や畑の作物、雑草など、その表面を覆う植物も見られる。家の屋根や壁には影が射し、老朽化した建物には塗料の剥離跡や汚れも見える。

 山や斜面は何百年、何千年と、ほぼその姿でありつづけている。対して、壁に射している影は数時間もすれば消えてしまう。建物や庭先の木は、何十年という単位でそこにあり続けるが、徐々に老朽化したり、成長したりする。雑草や木々の葉は季節ごとに変化する。

 そびえる山、斜面や石垣、家の壁、トタンで組まれた小屋、板で組まれた柵などは、水平な視線に対してそれを遮るように立ち上がっているものたちだが、その成り立ちや堅牢さや耐用年数は皆異なる。

 実際にその場所にいてそれを見ている人にとっては、歴史性も重要度も意味も関心の度合いもそれぞれに違うものたちが、モノクロ写真では黒から白までのトーンに一元的に翻訳され、全て等しく「見えるもの」として並列される。感光紙には絵画のようなマチエールの違いもない。写真は、人に対しても物(世界)に対しても無関心で、ただ自らの光学-化学的メカニズムに忠実に世界を視覚化する。

 山方伸は写真という非人情のメカニズムに忠実であろうとする。だがそれは写真装置が自己主張するための作品ではないし、視覚の専制的優位を主張するものでもない。むしろ真逆だ。写真は、あらゆる物事を一元化するからこそ、世界の無数の表情を同じ強さでひしめくようにフレーム内に共存させるための媒体となる。

 眼差しはそこから、地球規模での造山運動、人工物に流れる時間、瞬く間に移ろう影などの異なるリズムやスケールの出来事が、この瞬間、この世界で同時に進行し、交差している様を感知し、撃たれるだろう。
(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?