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〔美術評〕「資本空間 vol.2 村上華子」展について

古谷利裕

以下は、2015年5月30日(土)から7月4日(土)まで、ギャラリーαMで行われた展覧会のレビューです。
https://gallery-alpham.com/exhibition/project_2015/vol2/
(初出 東京新聞 2015年6月19日 夕刊)

 一枚の千円札、十枚の百円玉、カードにチャージされた千という数字。紙、白銅、情報。物としてもイメージとしてもまったく似ていないこの三つは全て千円として等価である。しかし千円という価値の実態はどこにもなく、価値は、異質なものが等価として交換されるという事実のなかにだけ現れる。

 本展における「作品」は、どこにもない「千円」と同様のものだ。会場には、物と(キャプションに記された)文章がある。千円札や十枚の百円玉が「千円そのもの」ではないように、そこにある物も言葉(文章)もそれ自体が作品ではない。では作品はどこにあるのか。それは間にある。

 会場には八組の一対一対応する「物と言葉(文章)のペア」がある。物と言葉は、作品とその解説ではなく等価であり、アイデア(概念)とその実行という関係にある。つまり、物と言葉の間には、論理的、因果的な規則に基づく関係がある。一組を一点と考えることも出来るが、会場全体として作品を構成する八×二個のパーツと考えることもできる。全体として考えると、対をなす物と言葉だけでなく、言葉と言葉、物と物の間にも関係が生まれる。

 八つの文章にはテーマ的な類似性が感じられ、つまり言葉と言葉の間には、連想的、イメージ的、詩的な関連がある。物と物との間には一見して明らかな関係性はみられないが、同じギャラリー内にあることで、空間的配置関係を必然的にもつ。言い換えれば、物と言葉の関係は論理的空間、言葉と言葉の関係は想起的空間、物と物の関係は知覚的空間を開くように関係づけられている。

 物と言葉は一対一で関連し、言葉と言葉は全体として密接に響き合っているが、物と物との関係はそっけなく見える。八つの言葉と物のペアを追ううち、それを観る/読む者は、頭=論理(物と言葉の間)、心=想起(言葉と言葉の間)、体=知覚(物と物の間)が、それぞれに別に働きだすのを感じるだろう。

 紙幣と硬貨と情報が、物質として別の系列に属しながら、交換の成立によって等価となり得るように、会場の「わたし」は、頭、心、体という異質な秩序の間に成立し得る交換を試みる。交換が成立する保証はないが、そのような試みを誘う、物と言葉の関係のさせ方こそが作品と言えよう。

(了)

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