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〔書評〕親しいもの、懐かしいもの、と、痛さ/(大道珠貴『傷口にはウオッカ』)

古谷利裕

通常、物事の同一性についての判断は、知覚(感覚)だけによってなされるのではない。むしろ、文脈や状況に依存する度合いが高い。例えば、昨日買ってきて冷蔵庫の中に入れておいた肉と、今、同じ位置にある肉とが「同じもの」だという判断は、その肉が知覚に与えるもの(見た目やにおいや手触り)によって確かめられるというより、だいたい似た感じのものが、昨日と同じ位置に置かれている、という事によって確信される。同じ位置にあることで対象の同一性が確信されることで、知覚的、感覚的な印象(色、におい、やわらかさ)の同一性が正当化される、とさえ言える。

特に、日常的で馴染みのある「親しいもの」たちについては、ことさら「よく見る」ことをしなくても、その文脈上の位置をさらっと確認すれば、同一性を確信出来る。それは既に十分に見、触れ、においを嗅がれているものだから、それだけで様々な記憶や感情をも起動せさる。つまり「親しいもの」とは、ちょっとした徴を確認するだけで速やかにそれに位置を与え、同一性を確信出来るような安定し固定した文脈のなかにあるもののことだ。それは、誰かがこっそり、昨日買った肉と一ヶ月前の肉とを入れ替えたかも知れない、という他人の「悪意」を想定しなくても、悪意を想定する「緊張」がなくても、大きな損失はないと感じられるような「世界への信頼」が緩く成立している範囲でもある。

『傷口にはウオッカ』の冒頭で、主人公の二人の妹はぶっきらぼうに「妹1」「妹2」と記されるし、子供たち(甥や姪)も、主人公が気に入っている一人を除いてはたんに「子供たち」とか「Sサイズ」とか記されるのみで、何人いるのかもよく分からない。これは主人公の無関心のあらわれではなく、彼女にとってそれらがわざわざ名付ける必要がない程に「親しいもの」であるということだ。

この小説は主人公=話者の短く断片的な(一行ごとに細かく気分が振幅するような)モノローグのリズムによって展開し、事物や風景の描写が極端に少ない。頻繁な改行や、小説の文章とは思えない投げやりな表現が、主人公のグダグダ具合と重なりあう。これらの特徴は、主人公の永遠子がことさら周囲を注意深く観察する必要がなく、他人の悪意をあまり想定する必要もない「親しいもの」のなかで、それに保護されていることを示す。彼女は不活性の状態で休らい、それは実家という結界に守られ、ほとんどユートピア的な様相さえみせる。

大道珠貴の小説にはいつも「実家」や「故郷」との関係が描き込まれている。「スッポン」や『ひさしぶりにさようなら』『銀の皿に金の林檎を』といった優れた作品において、その主人公たちは皆、自らがそこから生み出された環境である「故郷(懐かしいもの)」によって決定的な何かを刻み付けられていて、しかしそれに愛着と共に齟齬、疎外感も抱いている。その「懐かしいもの」に対する関係の仕方や距離の設定、緊張の度合いの微妙なさじ加減が、それぞれの小説の調子を決定し登場人物を形作っていると言えよう。

だがそこでは、愛と憎しみ(重力と切断)の激しい交錯や対立、それによる発熱があるのでも、対立の止揚が目指される(未来が夢みられる)のでもなく、摩擦はクールとも投げやりとも言える感触によって放置される。大道的人物は「懐かしいもの」から疎外され浮遊しながらも、それとは別の新たな場所、ここではないどこか(未来)を希求することはない(新たに「生まれ直す」ことの不可能性が受け入れられている)。親しく懐かしいものの内部に居ようと外部に居ようと、同じように世界から軽く乖離していて、世界の自動的な進行に対してほぼ受動性をもって応じる。

どのような状況も受け入れてしまうような強さ(弱さ? )と、受動的なのにも拘らず、無自覚なままに(いわば斜めに)状況から不思議とズレていってしまうという傾向に、大道的人物の魅力がある。だが実家で始まり実家へ戻って終わるこの小説では、その緊張がすっかり緩んでいるようにもみえる。

しかし、緊張感や抵抗感が消失しているかのような筆致も、表面には現れない「痛さ」が裏地にあり、小説の持続はそれに支えられているように思う。永遠子が実家から離れられないのは、その親しく懐かしいものが自らを癒し保護してくれるからだけでなく、そこが「弟」との関係が刻印された場所だからだ。弟との関係(の記憶)によって、実家はたんに休らいの場ではなく、輝かしくも痛切な場である。

彼女にとって弟は最初で唯一の恋愛対象であり、それが彼女にとってのあらゆる「良いもの」との関係の根底にあり、それを規定してしまっている。弟との強く持続的な感情は、禁止によって燃え上がるようなものではない。弟(との関係)は親しく、懐かしく、常に近くにあるが、決して直接的には触れることが出来ないものとして予め隔てられている。彼女にとってあらゆる「良いもの」は、弟をどこかで匂わせ、その「良さ」は自ずと「懐かしさ」へ接続され、しかしそれは親しくても密着は許されない禁止されたものとして逃れ去る。この関係性こそが「痛い」のだ。

弟以外の「良い(好ましい)」ものとの関係にも常にその影は纏いその都度「痛さ」は生起する。彼女は肉体的な「痛み」を好み、それに浸り、血を流す身体で自身の生を実感するが、それは彼女が例えば、明らかに不幸な傷としてある自らの性的な体験を他人事のように淡々と語るというような、軽い乖離(解離)によって世界と関係することで、世界から「痛さ」を縮減していることの代替物だろう。それは「痛さ」を縮減させるが、世界との繋がりを疎遠にする。そこで、堪え難く捉え難い「痛さ」を、生々しいが耐え得る「痛さ」で代替する。これは切実な生の技法だ。

捉え処のない飄々とした一人称で語られるこの小説の表層には、だから、ある範囲を越える激しい「痛さ」や「愛憎」は浮上しないが、この不在の強度こそが世界の裏側から小説に貼り付き、その語りを支え、震わせる。

この小説には「ここではないどこか」としての未来(希望)はない。しかし、今ここにある(目で見、手で触れられる)未来としての「子供たち」が存在する。この未来=子供たちこそが、過去=弟との関係(の記憶)と拮抗し得る。その未来は決して私(永遠子)のものではない。私に未来はない。だが、手で触れられる目の前で未来はうじゃうじゃと動いている。世界が変わるという意味での未来はない。かつての弟のような甥がいて、かつての友人のようなその娘がいる。それは退屈な反復かも知れない。だが彼らは若々しく飛び跳ね、過去ではなく未来なのだ。
(了)

初出 「新潮」 2005年5月号
*このテキストは、電子書籍『フィクションの音域 現代小説の考察』に収録されています。
https://note.com/furuyatoshihiro/n/n707f2b804fbf

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