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〔書評〕何が映画なのか、何故映画なのか/『日本映画時評集成 2000-2010』(山根貞男)

古谷利裕

 本書は「キネマ旬報」誌で一九八六年から継続されている日本映画時評の二〇〇〇年から二〇一〇年までの十一年分がまとめられたもの。十一年分を通して読む圧倒的な経験から私が感じたのは「何が映画なのか」と「何故映画なのか」ということだった。それについて最初は外的に、次に内的に考えたい。

 まず外的に。「何が」というのは境界設定であり、一体どこからどこまでを「映画」とすべきかということ。三七四ページで、二〇〇八年に製作された日本映画の本数が、日本映画製作者連盟の集計で四一八本、丸山尚輝の手による一覧表では優に五〇〇本を越えるとされる。おそらくここで映画とは、利潤をあげる目的で製作された商業映画であり、劇場で一定期間上映されることを前提につくられた映画を指すであろう。こんなに多くてはその大部分を観ることは出来ず、《うっかりしていると重要な作品を見落とすこと》もあると著者は書く。

 だが問題は本数ではない。八十年代までならば、メジャーな五つの映画会社といくつかの独立プロダクションによってつくられるものが「商業映画」であり、非商業映画と明確に線引き出来た。それは主に三十五ミリのフィルムで撮影され、十六ミリという中間的な媒体もあるが、主に八ミリフィルムで撮られる個人映画とは支持体のレベルでも明確に違った。

 しかし現在では製作の形態は多様化し、デジタル機器の発達が技術的にも資金的にも映画製作のハードルを下げ、噂で聞いただけだが製作費数十万円という商業映画も存在するという。これでは商業映画(プロ)と非商業映画(素人)との境界が確定できず、集計の仕方次第で製作本数に大きな食い違いも起こる。このような状況で「日本映画」という「全体」を想定することが可能だろうか。そして「日本映画」全体を想定することが困難である時に「日本映画時評」が可能だろうか。

 本書はまさに、時評の困難の中においてなされる、時評の困難についての時評であるように読める。そして、「何が映画なのか」という困難はそのまま「何故映画なのか」という困難に通じる。

 例えば著者は、うっかりと見落としてしまったかもしれない作品として『オカルト』(白石晃士)を挙げる。実際、劇場で『オカルト』を観た映画ファンは少ないかもしれない。しかし白石晃士はホラーファンには有名であり、DVDなどの映像ソフトではそれなりに多くの人に観られているはずだ。であれば、何故「映画」として観られなければならないのかという疑問が湧く。『オカルト』は「映画」というカテゴリーに保護されなくても映像ソフトとして成立している。

 あるいは著者は、『誰も守ってくれない』(君塚良一)について、最終的には映画独自の《ザラザラした現実感覚》を認めるが、そこへ至る過程では《感心しつつ》も《テレビドラマで充分ではないか》と書く。しかし裏返せば、感心する程の質があるならば、別に「テレビドラマ」が上映されてもいいじゃないかという疑問になる。現在、映像と音響を用いてつくられる様々な形態の作品があり、映像ソフトやネット配信など、発表や流通の形式も多様に存在する。そのなかで「映画」という製作、流通、上映形態が特別視される理由はなくなりつつある。

 様々な方位から波及する外的状況による切り崩しで、映画を映画として確定づける明確な輪郭は失われつつあると言える。しかし本書では、それでも映画は映画であり映画でなければならないのだということが、「困難な時評を継続する」という行為によって主張されているように読める。「日本映画」という「全体」が前提としてあって、その上で(その内で)これは良い/悪いと判定するのではなく、「時評の継続」によって「全体」への求心性を作り出し、それによって映画という輪郭を生み出そうとする。

 だから本書は、作品を公正、客観的に評価するという立ち位置にはない。著者の位置は映画に加担する関係者であり、時評を書くことは、作品を評価するというより映画を成立させ持続させようとする行為=運動のひとつで、それはいわば「映画をする」ことと言えよう。

 その時、「映画」が空疎なマジックワードでないとすれば、その語はどのような内実をもつのか。どんなものであれば「映画」と呼び得るのか。おそらく著者は、それを探求するためにこそ映画を観つづけているのだ。そして本書は、その過程を記録した膨大な思索ノートという意味合いももつ。

 ここで問いは内側からのものになる。「映画」という語の意味が、事前に、かっちりとした輪郭に仕切られて存在しているのではなく、その都度改めてやり直される輪郭画定の行為を通じて事後的に顕れるものでしかない以上、それは、新しい作品を観つづけることを通じて、そのなかから改めて発見し直されるしかない。

 映画は、過去と断絶していてはならないが、過去の反復であってもならない。新しいものとして現れなければならないが、過去との秘密の繋がりをもった新しさでなければならない。著者がスクリーンから探し出そうとしているのはそういうものとしての映画だろう(例えば『鴨川ホルモー』に「全員集合」シリーズとの連続性を見出すのは「映画的教養」ではなく「映画の輪郭の創造=発見」である)。

 その時、描写(指示性)、活劇、肉体性、時間、過剰、フィクション、ショット等、いくつかのキー概念が過去と未来を繋ぐ導きの糸となる。テクニックに走るあまり指示性(描写)をおろそかにしてはいけない、アクションはたんなる派手なアクロバットではなく有機的に連鎖することで活劇たりえる、物語と人物は地と図の関係にあるはずだが、時には図が魅力的で地が邪魔に思えてしまうことがある、普通なら興ざめにしかならない《どの顔も映画に出演中という表情》の素人芝居が、カメラの即物性とフィクション性を絡め合わせて別の次元へと変換されることがある、等々。

 記述は何かを決めつけるというより何度も仕切り直し揺れながら進む。最も魅力的なのは、作品を称賛する時でも貶す時でもなく、例えば『バトル・ロワイヤル2』(深作健太)や『剱岳 点の記』(木村大作)について書く時のように、どう捉えてよいか分からず揺らいでいる部分だろう。その揺らぎにこそ映画が息づくようだ。

 最後に余談。あとがきには、二十一世紀の最初の十年は相米慎二のいない十年だったと書かれているが、私が本書から受けた印象は深作欣二の不在だった。

初出 「新潮」2012年4月号

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