見出し画像

〔映画評〕「十函」には内側も境界もないし、入り口も出口もない / 『にわのすなば GARDEN SANDBOX』(黒川幸則)

古谷利裕


https://www.youtube.com/watch?v=wdItUtRNVzQ&t=10s

 

地元とよそ者


 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を楽しいコメディとは思えない。そこにあるのは、高校生時代の人間関係が大人になってもそのまま続き、さらにはその息子、「パート2」を含めると息子の息子に至るまで同様の関係が固定したまま継続している、閉ざされた地方都市のディストピアだ。そのような土地(カルフォルニア州ヒルバレー)の高校生マーティにとって、地元を形作る諸関係から外れている独り身で変人のドクが、土地の外への唯一の通路だった。

 二十世紀にスペイン語で書かれた最高の小説の一つとされるフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』では、かつて栄えていたが既に滅びたコマラという土地を訪れたフアン・プレシアドが、土地の幽霊たちに捉えられ、墓の中に閉じ込められた上に、死者たちの上演する「嘆きの劇」の観客にさせられる。街は滅び、人々は死に絶えたが、当時の関係は幽霊たちによって保存・維持され、持続的に上演されている。幽霊たちは、観客となるよそ者を必要としている。

 十函という土地=地元でタウン誌のライターをしているキタガワ(新谷和輝)は、土地の外から友人であるサカグチ(カワシママリノ)を共犯者として呼び込もうとする。ここでサカグチは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のドクのような外への通路として招かれているのか、『ペドロ・パラモ』のフアン・プレシアドのように、内に取り込まれるものとして召喚されているのだろうか。

 『にわのすなば』という作品は、このような問いが「間違った問い」であることを、作品としてのあり方によって示しているように思われる。十函という「地元」は、ヒルバレーともコマラとも異なる形で生起している。

 ここで「地元」として提示されているものは、空き地ばかりで捉えどころのない平坦な風景であり、大型車両が常に行き来する騒音であり、タウン誌の紋切り型の「地元愛」の言葉であり、旧家のヌシのような女性であり、地に足がつているとは見えない「地元内よそ者」のような人々であり、鋳物工場であり、二枚の地図であり、わずかな斜面と川と水門である。きれぎれに提示されるそれらからは「地元」という強い磁場を発生させる濃厚な関係性は見出せない。

リサーチとフェスと地図


 とりとめのない諸要素を、ともかくもひとまず地元として束ねるのは、タウン誌を編集するタノさん(柴田千紘)による「十函愛」という空疎な言葉と、彼女の書いた地図だろう。「十函愛」を強く主張する彼女によって確定された区域こそがまずは「十函」なのだ。しかしそのタノさんの地図を、十函で生まれ育ち、在住しているはずのキタガワは読むことができない。目的地にたどり着けないだけでなく、迷った挙句に出発点に戻ってしまう。これは、タノさんによって表現される十函と、キタガワにとって生きられている十函が一致していないことを示す。十函は一義的に確定できず、外からやって来たサカグチは、まずはタノさんの言葉と地図として、次にキタガワと歩く迷路として十函を経験する。

 タノさんの言葉は確かに空疎だが、空疎な言葉が外枠をつくることで、後にその内側に充実した出来事が満たされる。タノさんの地図が二人の彷徨を生み出したように。

 タノさんの口にする「リサーチ」と「フェス」という言葉はいかにも軽薄だが、その薄っぺらさを弄るように戯れに反復される「リサーチ」という語が、古民家を真剣に「リサーチ」するヨシノさん(村上由規乃)とサカグチとの出会いを導くのだし、唐突な思い付きで実行されるショボい「フェス」によって、キタガワとヨシノさんの再会が果たされる。この作品のクライマックスを形作るといえる、なんとも名づけ難い奇妙な「集まり」は、それを無理やりに「フェス」だと言ってしまうことによって実現されたものなのだ。

 そのフェス中にタノさんが唐突に、誰でもない誰かに向かって、自分自身の言葉の空疎さについて語り出すモノローグによって時空が変質する。その時、実はタノさんの紋切り型の言葉と地図こそが、この作品で起こる重要な出来事のほとんどを準備していることに気づく。

 だが、そんなタノさんを、硬いまっすぐさをもつように見えるヨシノさんは嫌っているようで、彼女はタノさんに話しかけられた途端に態度を硬直させる。しかし二人には地図を描く人という共通点がある。フェスの予定地やリサーチの対象が書き込まれているタノさんの地図に対して、ヨシノさんの地図は空間的な関係性だけが描かれる。この違いが二人にとっての「地元」の違いであり、二人を相容れないものとしているかもしれない。それでも、タノさんの地図にフェスが行われる工場へ至る「階段」が予め描き込まれていることは見逃せない。ヨシノさんもまた、この階段を下ることで「フェス」に行きつくからだ。

浮遊するリズムと平坦な風景


 十函の平坦な風景を、まずはサカグチとキタガワという二つの身体が歩く。サカグチには独自のテンポとリズムがあり、これはリズムの異なる他者と接する時にも揺らぎも同調もなく維持される。サカグチを追うことで展開するこの作品では、サカグチのリズムが、あるいは、サカグチのリズムが他者からズレることが、作品そのもののリズムと質感を形作る。

 サカグチと同行するキタガワは、身体をくねくねさせ、片足重心で反対の踵を浮かせてフラフラさせたり、腕を妙な形で曲げていたりで、ピシッとした姿勢をとることがほぼない。つまり二人とも、環境に対してピタッと着地している感じがない。サカグチの浮遊感はよそ者であることの表現だとしても、キタガワも同じくらい風景に馴染んでいない。最初の歩行では、二人のよそ者が彷徨うかのようだ。

 だがこの後、元高校教師の釣り人(遠山純生)によって、キタガワもまた地元の重力圏に捉われてあることが語られる。キタガワにとっての地元とのつなぎ目は、ヨシノさんとの過去の顛末だった。地元内よそ者であるキタガワと、同じく地元内よそ者であるヨシノさんが出会った(出会い損なった)場所として「地元」がある。内の外と内の外とが出会う場としての「内」は、内輪(内側)とは違う。この作品において「地元」とはそのような場だ。

 サカグチとキタガワの歩行によって切り取られたとりとめない風景の断片は、翌日、サカグチとヨシノさんの歩行によって反復されることで、ささやかな「領域」をたちあげる。異なる人物、異なる目的で風景がなぞり返されることで、地図によって区画確定されたものとは別種の、経験された空間としての十函が立体化する。

 二度目の歩行は、一度目の反復であり、読み替えであり、展開である。一度目の歩行で徴候的に示されていた、水門、スケボー、わずかな斜面、そして鋳物工場という諸要素が、二度目の歩行において全面的に展開される。

女たちの集会所


 一度目の歩行の後にキタガワと別れたサカグチは、マジカルなグミに導かれるようにしてアワズさん(西山真来)のバーに行きつき、彼女を介して女たちの集会所であるマスコさん(風祭ゆき)の家を訪れ、そこでヨシノさんに出会う。キタガワとの歩行の目的地もマスコさんの家だったが、彼の道案内ではたどり着けなかった。それは、そこが「女たち」だけのための場所だったためかもしれない。

 だがここでもヨシノさんは「女たち」の外にいる。彼女の目的は集会ではなく、古い建築(空間そのもの)の「リサーチ」だ。彼女は「女たち」のコミュニティに興味がないようだ。土地のヌシのようなマスコさんは、サカグチとヨシノさんを内側に取り込もうとするかのように二人に白いドレスを着せる。だが策略は叶わず、その行為は、内の外であるヨシノさんと外の内(あるいはたんに外)であるサカグチを出会わせる結果となる。マスコさんの家もまた内輪をつくらない「内」として機能する。

水門と希少な斜面


 二度目の歩行でははじめからアルコールが入っている。ヨシノさんがサカグチにお気に入りの場所として水門を案内する、その道行として一回目の歩行の反復と展開がなされる。ふにゃっとしたキタガワと異なり凛然としたアテンドをするヨシノさんだが、「あまり心配かけるな」という友人カノウ(佐伯美波)との会話から彼女に危うい側面があることが匂わされる。凛とした様子は脆い硬さに通じる。

 平坦な土地にも数少ない斜面があり、それを下る度に二人の仲は深まっていく。最初の坂では、サカグチの「スケボーの夢」と、ヨシノさんが語る「かつては人の数よりスケボーの数が多かった」街としての(架空の)十函像が交換される。水門の土手では、フェンスを越えられないサカグチとそれをアシストするヨシノさんが手をつないで傾斜を下るさまが見られる。三つ目の坂では、スケボーを媒介とした、この作品で最も無邪気で幸福なアクションが見られる。

階段とバス


 二人の歩行は最後の傾斜である階段を下って「フェス」に行き着く。会場となる鋳物工場を提供する「十函スピリットに溢れ」た工員(中村瞳太)は関西出身者だ(彼は「内の外」の逆としての「外の内」であろう)。ここにきてこの作品が、「(キタガワという媒介によって実現した)サカグチとヨシノさんの出会い」を示すだけでなく、キタガワとサカグチ、キタガワとヨシノさんとの決定的な出会い損ないをも示すことが明らかになる。三人の腕にはしっかりと同じタトゥーが刻まれているが、それを知るのはただキタガワ一人だ。彼はそれを二人に伝えられない。三人のダンスはほんの一時しか持続しない。

 フェスの後に、作品の流れは「キタガワの孤独なダンス」「サカグチとヨシノさんの酔った彷徨」「花火」の三つの場面の並行モンタージュへと分離していく。「酔った彷徨」においてサカグチとヨシノさんの仲は最も密な深さを獲得するが、それも次の朝には、スンとしているヨシノさんと二日酔いのサカグチへと分離する。そして、ヨシノさんは地元に残り、サカグチは待っている猫の元に帰る。

 だが、ぐったりしたサカグチはバスに乗ろうとする気配を見せない。そもそも彼女は十函にバスに乗って来たのだろうか。彼女は冒頭で大型車両の騒音と共に現れるが、車両の騒音は十函を構成する要素の一つだ。ただ騒音は、十函の外にもある。十函とは、様々な互いに矛盾する要素の重ね合わせのなかに辛うじて浮かび上がるものだった。ある要素は、他の要素との構成(接合)のされ方によって、内のものともなり、外のものともなろう。

 ならば、十函の外に出るためにバスに乗って境界を越えなくてもよい。その場にいたまま、別の関係性のなかに入ることで外に出る。領地を確定する、地図に描けるような境界線や出入り口は十函にはない。「酔った彷徨」のなかで「そこにはない海」を目指していた二人が体現しようとしていたのも、そのような時空における「外=海」だったのではないか。
(了)

初出 「キノコジン vol.02」(『にわのすなば GARDEN SANDBOX』特集) 2022年


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?