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〔書評〕豊かな地を孕む貧しい図/山下澄人『月の客』

古谷利裕

 死と直に接するかのように、きわめて死に近い場所で生きている人々、また、「わたし」という機構による統御のゆるい人々が、人称による統御のゆるい文章によって描かれる。人は、あるいは言葉は、殻や形に守られて長く持続するのではなく、その都度、地のなかから立ち上がり、すぐに消える。何度も何度も、立ち上がっては消える。その、立ち上がっては消えるものたちが、様々な形の関係を結ぶ。ある立ち上がりと別の立ち上がりには強めの連続性があるように見えるが、それとはまた別の立ち上がりとは弱い関連性が認められるのみだ、といった具合に。

 読んでいる時に「ご長寿早押しクイズ」を思い出した。テレビバラエティ「さんまのからくりTV」等のコーナーで、高齢の人に簡単なクイズを出してその解答のズレ具合を楽しむものだが、一見悪趣味にも思えるこのコーナーが素晴らしいのは、複数の高齢の回答者たちの無意識が外に開いて連結してしまったかのように見える瞬間が訪れることだ。

 アーティストで研究者の小鷹研理は次のように書いている。《(……)ご長寿は、隣から聞こえてきて言葉を、あたかも自分の無意識の中の響きとして受け取っている感じがするんです。(……)みんな、隣の回答者から漏れてきた言葉に対して、「ハッ」としてひらめいた表情をみせて、目をすごく輝かせて、堂々と全く同じ回答や、少しだけずれた回答を被せてくるでしょう?(……)「ご長寿早押しクイズ」でよくみる、矢継ぎ早に怒濤のごとく言葉の連想が展開していき、次第に音楽的な塊へと成長していく時、ご長寿たちは、すごく楽しいんだと思います。(……)「ご長寿早押しクイズ」の気持ち良さは、この種の、「ひらめき」が発動する条件に対する寛容さ、自由さにあると思うんです。》(原文ママ)(「からだの錯覚」

 他人の発言をあたかも自分の閃きであるかのように扱う自他間の垣根の低さと寛容さの感覚が、『月の客』の、跳ねるように立ち上がってくる言葉の運動と近いところにあると思われた。

 余白が多い。しかし余白という言葉は十分ではない。地と言うべきだろう。余白という語では、あらかじめフレームがあって、そこに形が描かれた時の、形以外の部分を指すことになってしまう。そうではなく、まず不定形で未分化、未限定の何かがあり、そこから形(図)が立ち上がることで、地が背景として後退する。地とは、図の背景であると同時に図を支えるものであり、そこから図が生まれる土壌でもある。図と地は常にセットになってフレームをつくる。

 つまり、未限定のものから形が生まれることで、図と地のセットであるフレームが生じ、最初の未限定はさらにフレームの背景へ後退する。二重の意味で背景化して見えなくなる最初の未限定なものこそが、図が立ち上がるためのより根底的な土壌だと言える。そして図は、背景として潜在化する未限定状態を表現するもの(未限定状態の、他にもあり得る一つの表現)である。

 余白が多いという感じは、一つの図が表現している(内包している)未限定のものの領域が大きくて深いということではないか。図そのもののシンプルさ、あるいは貧しさに対して、それが含んでいる背景がとても大きく、かつ深いように感じられる。二〇一五年に磯﨑憲一郎との『電車道』という作品についてのイベントで保坂和志が、磯﨑の文章には地がなくて図だけが連なっている(書いてあるところだけが「ある」)と発言し、とても的確な指摘だと納得した記憶があるのだが、だとすれば『月の客』の文章はまったく逆の特徴をもつと言えるのではないか。図のスカスカさに対してアンバランスな地(さらにその背景)の密度が感じられる、と。

 図の貧しさとはある意味で意識の貧しさでもある。たとえばトシの母は、トシが六、七歳の頃には毎日チョージのことを思い出した。しかし母にはその理由が分からないし、それを考えることもない。《トシの顔がチョージに似て来ていたから!/母はそのことに、気がついてすらいない》。母にはチョージがトシの父であるという認識もない。『月の客』に登場するのは概ねこのような人物であり、ある状況に対する反射的な行動や感情のみでできているようだ(ただこのエピソードは、意識の貧しさと同時に母の持つ自動的反射機構の正確さを示してもいる)。登場人物たちの死への親和性の高さは、このような存在のシンプルさから来るのかもしれない。

 その都度ごとに立ち上がっては消えていく一つ一つの形(図)は、時空の秩序としても、視点の位置(誰がどの位置から語っているのか)としても、その都度異なったものとして現れる。それは、その都度異なった背景を暗示させる。図として連続していないだけでなく、地としても連続していないようにみえる。その一つ一つを(この、これ、として)受け取りながらも、同時に、どうしてもそこに時空の秩序に沿った、あるいは人物の連続性に沿った配列を見つけようとしてしまう。

 この小説に登場する大勢の人物たちのほとんどが、意外な形で関係づけられているのが面白い。たとえば終盤に出てくるまっさんは、序盤に出てくる、トシの顔を切った少年の、父の弟だったりする。それはこの作品が内輪といってもよい狭い圏内の話であることをまずは示す。だがそれだけでなく、一つ一つの図から、それ以外の図たちとの間に複雑なネットワークが伸びて、図たちによる複雑なトポロジーが形成されていることの現れでもあるのではないか。

 その都度立ち上がっては消えていく図たちは、それぞれ異なる背景の上に現れるものであるから、それらを空間的な領域によって(丸で囲むようにして)内と外との境界を引くことはできない。それぞれの図が各々異なる内と外との関係をもっている(外とはこの場合「死」であろうか)。

 ならば、これらの図たちは宇宙空間に離れてある星々のようにバラバラにあるのだろうか。おそらくそうではない。この小説を形作る多くの図たちを束ね、作品世界の内と外との境界線を引いているのは「穴」という形象ではないか。穴の内側こそがこの作品の外側と言える。そしてまた、ラザロという、作中ではあきらかに浮いている名もまた、作品内の外として他の部分を内化する境界線となっている。さらに、ほとんどの人物に何かしらの関係があるなかで、誰との関係も示唆されない、トシに砂漠の話をする「ちんこのついた女」もまた、自分自身を外として他の部分を内化するだろう。この作品には、外と内とを分ける境界線も複数存在する。 

(了)

初出 「新潮」2020年9月号

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