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〔期間限定公開〕死を置き換える/『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(大江健三郎)論

古谷利裕

※この記事は、三月いっぱいの期間限定公開の予定です。

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 小説も終わりに近づき、大方の問題は片づいて残りのページもあと僅かというところで、不思議にひっかかる細部があらわれて、すこしたじろぐことになる。癌に犯され自身の死が近いことを自覚したかつての大学の同期生木守を見舞った主人公の《私》が、その帰りに混んだ地下鉄に乗って、病人との会話でも話題に出ていたマルカム・ラウリーの本を読もうとすると、《あまり年齢の違わぬ紳士に席をゆずられ》るのだ。
 冒頭から《肥満した老人》と記されもし、KensanroとかKenzaburoとか呼ばれて作家本人を連想させる《私》は、その年齢からしても電車で席をゆずられることには何の不思議もない。しかし、《あまり年齢の違わぬ》男にゆずられるのだ。さらに、その件についてはそれ以上何も語られず、すぐにラウリーの本の最後のページを開いたと記されるのだから、《私》はそのことに何の疑問も躊躇も抱かず、ゆずられた席にすんなりと座ったということだろう。
 七十歳を越えている《私》と同年代の男が、自分とかわらぬ年齢の男に席をゆずり、ゆずられた《私》もそれをすんなりと受け入れる。小説の終わりに、なにげなく置かれたこの奇妙な細部は、この小説の隠された企てを静かに明かしているように思われる。つまり、この影のように存在感のない《あまり年齢の違わぬ紳士》とは、小説の進行中《私》の相棒として行動していた、《私》と対照的な存在であり双子のようでもある木守の影でもあり、ここでそのような男に席をゆずられるということは、木守が《私》の身代わりとして死の危機を引き受け、《私》と入れ替わって《私》に生の座をゆずるということではないか。
 この小説での《私》の密かな野心は、自身にまとわりつく重たい死の影を、まるで身代わりの人形のようである木守に転化して、それによって自身は死の影から逃れることであるかのようなのだ。この文章は最後に、再びこの点に戻ってくることになると思われる。

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 だがまず、小説の中心にいるのはサクラさんという女性であるし、その中心的な磁力もサクラさんの外傷的な過去にあるだろう。もう少し丁寧に言うならば、《私》のサクラさんに対する緊張(関係)がこの小説の基本的なトーンをかたちづくり、その持続の緊張感を支えている。少女の頃のサクラさんを素材としたポルノグラフィーを見てしまったという記憶があり、さらに、自らの気がかりを正直に話すサクラさんに、彼女の「気がかり」について、自分の知っている本当のことを言えずに隠さざるを得ない《私》は、サクラさんに対し常に「うしろめたい」感情をもちつづけるはずだ。
 サクラさんにとってとても重要な問題を、《私》は彼女に対して隠している。真相を知っているというのは言い過ぎだとして、それを充分に推測出来るだけの情報を《私》は持っている。それは一方で、《私》のサクラさんに対する優位を意味している。本人も知らない重要な出来事を知っており、それをあたかも知らないかのようにしてサクラさんと接する。それによってサクラさんを保護しているかのように。
 しかし、きわめてオープンであるサクラさんに対して、この優位は同時に引け目でもあり、うしろめたさとなる。この小説において、事実を知っているのは《私》であり、木守であり、ディヴィッドであり、あるいは柳夫人であり、知らないのは、当の本人であるサクラさんである。読者は、最も知っている《私》や木守たちよりは知らないが、サクラさんよりは知っているという位置に置かれる。
 サクラさんの事件は、この小説のプロットにおいて一つの謎として機能しているようにもみえるが、しかしそれは真に謎ではなく、読者にとってもごくはやいうちに推測できてしまう。つまりサクラさんは読者からも見透かされており、まわりは皆知っているのに、知らないのはサクラさんただ一人ということになる。我々は皆サクラさんについて知っているのに、サクラさんだけが(「事実」を知らないだけでなく)、皆がサクラさんについて知っているということを知らない。つまり読者もまた、《私》と同様に、サクラさんへの優位とうしろめたさを共有する。それによって、サクラさんへの緊張をも共有することになる。
 《私》はサクラさんに対し性的な感情を抱いている。そのような彼女の、彼女自身も知らない性的な秘密を知っている。それはどうしたって、男性の性的な感興を刺激するものだ。しかし、目の前に存在する彼女のオープンな態度は、強いられているとは言え、彼女に対してそのような秘密をもってしまっていることへのうしろめたさを意識させられる。このうしろめたさは、自身の持ってしまう(「秘密」を知っていることによって高まる)性的な感興そのものへのうしろめたさへも繋がるだろう。だから《私》には、この性的な感興を素直に享楽することは出来ない。《私》は密かに、サクラさんの苦しみの源である外傷そのものを、それを本人に隠すことによって享楽してしまっているかもしれないのだから。
 かといって、彼女に回復不可能なダメージを与えてしまうかも知れない本当のことを言うことは出来ない。《私》のサクラさんへのうしろめたさは、そこに性的な感興が加味されることでいっそう増大し(あるいは、このうしろめたさがまた、性的な感興を亢進させもするかもしれない)、複雑になり、それによって、《私》がサクラさんとの関係のなかで感じる緊張もまた増大する。そして、ほぼ《私》と同等の位置に立たされる読者にもまた、この緊張は伝染する。
 実はこの《私》と読者に分け持たれる緊張こそが、サクラさんという登場人物を際立たせ、輝かせてもいるようにも思われる。そして、この緊張に《私》にかわって落とし前をつける「汚れ仕事」を引き受けてくれるのが木守なのだが、その点について触れるのはもうしばらく先になる。


 「それ」は既に起こってしまっている。それは世界のなかに既にある。それがなかった、それ以前の状態に戻ることはけっして出来ないし、それを想像することも出来ない。むしろ世界はそこからはじまっているかのようにさえ感じられる。サクラさんの外傷、サクラさんに与えられた性的な暴力は、そのようなものとしてある。そして《私》は、その出来事を撮影したフィルムの断片を観ているという点で、その暴力に荷担しているとさえ言える。それはフィルムに撮影されているのだから、上映されるたびに繰り返し起こる。サクラさん自身、その何度目かに再生された事件の現場を自らの目で観ることになるだろう。
 だが、このような言い方は転倒しているかもしれない。「それ」はフィルムに撮影されていたから反復するのではなく、既にそれ自体として反復されている。サクラさんの「恐ろしい夢」として。「恐ろしい夢」によって招き寄せられなければ、フィルムはサクラさんのもとへと戻ってくることはなかったかも知れない。サクラさんは、何度も反復されるその出来事=夢をおそらく「見て」いるはずなのだが、《目がさめた頭に残っているのは、恐ろしかった、酷たらしかった、という感情だけ》だという。断片的なものが幾分かは記憶にも残っているようだが、それを明確な場面として構成する手だてはない。そのことがより一層「気がかり」を重くする。だが勿論、夢を憶えていないことは、サクラさんが自身を守るために働かせている防衛的な装置の作動であり、それによって恐ろしい出来事を「夢のなか」だけに閉じこめ、蓋をし、自分を支える。サクラさんの防衛的システムの外に外在的な物質としてあるフィルムによってはじめて、「それ」は完全な形でサクラさんのもとに還ってきてしまう。
 サクラさんにとって、暴力の加害者は同時にその存在なしには生きてゆくことが出来なかった保護者でもある。加害者であり保護者であり、後に夫にもなったディヴィッドにとって、彼女の保護者としてありつづけることは、そのまま自らが犯したの罪のつぐないの行為であったのかもしれない。とはいえ、ディヴィッドはサクラさんに対し自らの罪を隠していたのだから、その罪のつぐないは欺瞞に満ちたものだと言わざるを得ない。
 しかしだとしたら、自らの「知っていること」を故意に言い落とすことで結果として嘘をつき、それによって彼女を保護しようとする《私》もまた、ディヴィッドと同様な欺瞞に陥っているとは言えないだろうか。そして、サクラさんに「真相」が写し撮られたフィルムを観せようとする木守は、その行為によって再びディヴィッドの暴力を反復するとも言える。つまり、《私》と木守とのペアによって、ディヴィッドによるサクラさんへの行為=暴力は反復されるのだ(木守の癌は、その結果としてディヴィッドから転移したかのようですらある)。


 しかし間違えてはならないのは、この小説は、男性による女性への性的な暴力を告発するための物語ではないということだ。
 この小説においては、サクラさんを襲った事件は、サクラさんにだけ固有のものではなく、それはサクラさんに訪れた時にはもう既に、別の時空で無数に反復されたものの無数回めの回帰であり、その後も別の場所で反復されるような出来事であった。
 「それ」は既に起こってしまっている。それは、サクラさん以前にも、世界のなかに既にある。それがなかった、それ以前の状態に戻ることはけっして出来ないし、それがない世界を想像することも出来ない。それは、サクラさんにとっては唯一の、その出来事のまわりに自分自身の生涯がかたちづくられてしまったような決定的な傷である。しかしその傷は、けっしてサクラさんだけに固有なものではなく、この世界のなかに既にあって、繰り返し刻まれつづけている傷なのだ。
 それ自体は悲惨なことであるが、だからこそ、その反復という事実によって、サクラさんはその傷の固有性という重力から逃れ得る。傷は消えないし、なかったことにはならない。だが、その傷は自分のもとにだけ訪れたものではなく、傷を負い、その傷とともに生きた、無数の女性たちが存在する。暴力そのもの、傷そのものの反復ではなく、その傷とともに生きた無数の女性たちの生の反復と反響こそが、サクラさんの力となる。傷は、その交換不可能性によって他の交換不可能な傷をもった生と響き合い、その時、その傷はもはやサクラさんのものではなく、サクラさんは、「傷のまわりに形成された(傷のもとに滞留させられた)主体」としてのサクラさんから離脱する。

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 この小説では、めまぐるしいばかりの置き換えや位置の移動があり、そこに無数の異なるメディウムの浮上と、あるメディウムから別のメディウムへと次々に移行する運動が畳み込まれる。
 現実が書かれたものへと置き換えられるだけではない。原文から翻訳文へ。小説から映画シナリオへ。村の演劇へから映画へ。歴史的記録から民間の伝承へ。民間の伝承から村の演劇へ。詩(ポウ)から八ミリ映画へ。八ミリ映画から詩集(ボードレール)に挟まれた写真(フィルム)へ。ポウからナボコフ(アナベルからロリータ)へ。あるいは、完成された映画を描写したかのような脚本=小説、というのも登場する。
 そのような異なるメディウム間の移動にともなって、時代や舞台、人物なども次々と置き換えられるだろう。神聖ローマ帝国から四国の森へ。あるM(ミヒャエル・コールハース)から別のM(メイスケ)へ。さらに「メイスケ」から「メイスケの生まれ変わり」へ。「メイスケの生まれからり」から「メイスケ母」へ。祖母から母へ。「サクラさん」から「アナベル・リイ」へ等々。映画の出資者さえ「M計画」から「サクラさん」へと移行する。
 置き換えとは、異なるものが重ね合わされ、移行しつつ同一の本質が受け渡されることだが、それは、同一の何かが受け渡されるのと同時に、別の何かへとズレ込むことであり、そこにはズレがあり、ノイズが孕まれ、軋みが生じる。根拠(オリジナル)が、別のものへと重ねられ、置き換えられることによって、根拠=中心がいつの間にか他所へとズレ込んでゆく。そのような置き換えの連鎖のなかでは、根拠と思われたものさえが、既に他の何かの書き換えであることが知れる。様々なフレームが重ね合わされ、ズレを含みながら移行し、それらが反響し、軋み合ううちに、今、ここという位置、あるいは私という固有性は見失われそうにさえなる。
 木守は同時に、駒場の美少年であ離、やり手の国際的プロデューサーでもあり、奇妙な特殊メイクをした老人でもあり、「私」は同時に、老人であり、中年の危機を迎えた作家であり、田舎から出てきたばかり駒場の学生でもあり、ある写真から性的なショックを受けた高校生でもあり、母の下半身の熱を感じながら田舎芝居の舞台に立つ少年でもある。サクラさんは同時に、長い療養生活を経た老人であり、経験をつんだ中年の女優であり、少女スターであり、アナベル・リイを演じた無名の少女でもある。
 この小説が回想形式によって書かれ、その回想先であるはずの三十年前の場面からもまた頻繁に、松山時代や駒場時代への回想へと送られてゆくのは、基底となる現在という時間の支配を弱め、複数の時間を同時に並立させるためだろう。
 それだけではなく、サクラさんはその複数の時間と複数のメディウムのなかで、アナベル・リイそのものであり、ロリータであり、リースペトであり、ジプシー女であり、メイスケ母であり、《私》の母であり、祖母であり、芝居に集い涙する女たちであり、という風に、その身に次々と分身を孕み、転移し、分岐してもゆくのだ。そして読者にとっては、バレエ教室の少女や、《ムナクソが悪くなる写真集》の被写体となった少女もまた、サクラさんの分身のようにみえるだろう。

(付け加えるべきなのは、ここでサクラさんの、アナベル・リイやロリータへの転移は、男性の視線によって媒介されたものであるが、ジプシー女やメイスケ母への転移は、自らの生の肯定のために積極的にそこへと向かおうとしたものであり、この違いは明確にされなければならない。とはいえ、男性である《私》にとっては、依然としてサクラさんはアナベル・リイでありロリータの延長であるかのように捉えられる。この点に、この小説の一方側には解消されない緊張がある。)

(3)


 この小説の、そのような効果を生じさせるための時間構造を端的に示している場面をひとつ引用したい。《私》とサクラさんが京都で会食をし、サクラさんが自らの性的な遍歴を語った後、二人でシダレザクラを見物しにゆく場面。

狭い通りの両側の濃い人通りの間を、車が行く。通りの明るみには高さがなく、すぐ上から量感のある暗がりが覆いかぶさって来る。そのような空間は、それまで辺境の集落調査をした友人の話にだけ聞いていた空間同様、京都の市街になじみのない私にはめずらしいが、同様に懐かしくもリアルに感じられる……
(中略)
それから半年たって、私はひとりメキシコシティーで暮らすうち、市の中央の広場でタクシーに乗り(深夜だということで、料金はメーターと無関係にふっかけられた)、大学都市の宿舎に向かうため、インスルヘンテス南大通りに出ようとして入り込んだ道の、人通りは多いが暗く、頭上には漆黒の巨大な暗闇がある静けさに、ああ、いま現在の、この感情を先取りして懐かしがっていたのだから、サクラさんの対応は不思議なほど正確だったと考えた。
そしてまた時がたって、私はいま、あの夜、車を駐めた場所から円山公園の雑踏に降って行く道筋の雑踏こそ、小さいが広場に似ていた、と思い出す……

 《私》が、京都の時点では未だ経験していないはずのメキシコシティーの暗闇を、あたかも既に知っているかのように先取りして、その闇の類似に懐かしさを感じるのは、この場面そのものが事後的な視点から書かれているからであろう。
 《私》は確かにその時の京都で、懐かしさに近い、あるリアルな感情を経験した。しかし、それを経験した時点では、その感情は未だ意味の確定されない、ただ強い印象として、そこに何かがありそうだと「しるし」がつけられたものに過ぎないだろう。そして半年後のメキシコシティーでの経験によって、意味づけられる以前の状態で開かれた謎としてあった京都での「懐かしさに似た感情」の行き先が発見され、感情の着地点として機能した。
 《すぐ上から量感のある暗がりが覆いかぶさって来る》という共通の本質が発見されたことで、メキシコシティーが京都と繋がり、そのメキシコシティーでの発見の驚きが、京都での《懐かしくもリアル》な感覚へと逆流してゆく。あくまで時間の進行の順番に沿うのならば、そう考えるのが普通であろう。ここで、過去が未来を先取りし、二つの異なる時間が順序を超えて響き合うような感触がリアルなのは、その二つの時間がどちらも共に過去であるような現在の地点から回想されているからだ。
 二つの時間が共に過去である、という言い方はやや正確さを欠くかもしれない。そうではなく、その二つの時間が共に想起であり、今、思い出している京都の場面と、それに次いで、次の今、思い出しているメキシコシティーの場面とが響き合うのだ。
 京都の場面を思い出している「今」は、メキシコシティーの場面を思い出している「今」よりも一歩手前にあり、京都の場面を思い出している時は未だメキシコシティーの場面は思い出してはいないのだが、しかし、経験としては既にメキシコシティーの場面は過去であり、その記憶は保持されているから、二つの場面は通底し、京都の場面を思い出している「今」にも、未だ思い出してはいないメキシコシティーの場面の記憶が紛れ込む。おそらく先取りされた懐かしさは、このような想起メカニズムによって発生するのではないか。
 では、引用部分の最後の段落で《また時がたっ》た後で改めて、広場が京都に似ていたのではなく、京都こそが広場に似ていたのだと時間の逆流を強調している時にあらわれる《私はいま》の《いま》とは、この小説の物語としての現在時、つまり《私》とサクラさんが京都で会食した三十年後のことなのだろうか。
 おそらくそうではなく、この《いま》は、《私はいま》という言葉が書き付けられている《いま》であるように感じられる。言葉が書き付けられている《いま》においては、物語の現在時ですらも、経験としては既に過去のものになっている。このような言い方は、小説の物語内容をあたかも実話のように扱う素朴な見方であるように思われるかもしれない。しかし決してそうではなく、この小説の語りを基礎づけている想起の構造こそが、そのように感じさせるのだ。この小説において、物語の現在時は、「現在として想起されている」場面であり、だからそれは既に想起であって事後的な視点によって書かれていて、だからこそ「過去として想起されている」場面と、どちらも「想起」として、同等な重さ、強さとして並立され、響き合い、通じ合い、時に時間の逆流すらも可能になるのだ。
 だからこの小説での本当の「現在」は、その出来事が想起されている地点としての現在であり、つまり、それがそのような形として書かれている《いま》なのだ。
 語っている今、語り直している今、書いている今、書き直し、書き換えている今。そして書かれたものを読んでいる今。その「書く」「語る」「読む」という行為がなされている現在に、書き直し、語り直され、読み直されるというその行為によって、書き、語られ、読まれている内容=経験が、それが実際に起こった時点と同等の強さで改めて経験し直される。
 想起され、語り直されるたびに、再び、三たび、ある過去が別の過去との新しい関係や響き合いを獲得し、新たな意味という新しい着地点を見出し、つまり新たな経験として経験し直される。書かれている物語内容としての現在ではなく、それが語り直され、書き換えられ、読み直されることで、新たに経験とその意味とが更新されている、されつつある。その現在、その場所こそが、この小説の現在であり、この小説の力が生じている場所であろう。
 この力こそが、この小説を支える「置き換える力」の源泉であり、サクラさんを固有の外傷という重力から離陸させる。この小説は、まさにそのような意味での、語ること、書くこと力に賭けられている。


 引用部分では、《すぐ上から量感のある暗がりが覆いかぶさって来る》という共通した本質の発見が、京都とメキシコシティーとの重ね合わせを生じさせたわけだが、しかし、京都とメキシコシティーの重ね合わせという「(置き換え可能な)関係」は、メキシコシティーでそれを経験したその時に成立したというよりも、京都とメキシコシティーとの二つの経験が、引用した部分のような形で継起的に書き並べられたその時に、その語り直す行為によって成立した、ということなのではないだろうか。《すぐ上から量感のある暗がりが覆いかぶさって来る》という共通した本質は、それが経験された時ではなく、それがそのような言葉でそう書かれたその時に、事後的、遡行的に見出された、とさえ言えるのではないだろうか。
 しかしそこで、語り直し、書き直すということが、恣意的な、誰かの思い通りの改変であっては意味がない。それはあくまで、記憶に、他者の存在に、原典に、可能な限り忠実であることが要求される。そうでなければ、それは経験と同等の重さと強さをもつことはないだろう。次に引用するのは、「ミヒャエル・コールハースの運命」の映画化のために《私》が書いた脚本の第一稿に対してなされた、台詞が《長すきる、この三分の一にしたい》という要求に従い、当初困惑しながら、それでも書き直しをてしているうちに、《自分の文体感覚で整える書き換えとは別の、挑発的な刺激》を発見し、それについて書かれたくだり。

私は若い頃から、出版の意図があるのではないが、エリオットやオーデンの詩句をひとり翻訳してみることをした。まず、逐語訳することを心がける。(当然、原詩より長くなる)。それを短かくする。自分の散文のスタイルとは別だが、意識してできるかぎり口語的にする。そのうち、自分のなかから出てくるのではない、新しい響きの声が聞こえてくることがある。私は少しずつではあるが、自分の文体の作り直しをみちびかれた。あれに似ている…

 ここで、書き換えることが《翻訳》の経験と重ねあわされていることが(よく言われていることであるとはいえ)重要であることは何度も確認されるべきだろう。その書き換え、置き換えは恣意的なものであってはならないし、その主体が《私》であってはならない。《自分のなかから出てくるのではない、新しい響きの声が聞こえてくる》という出来事として現れるのでなければならないのだ。
 何度も繰り返し行われる、想起(語り直し、書き直し)と翻訳(書き換え)が、時間やメディウムや人物を超えて様々な事柄を重ね合わせるという、この小説をかたちづくる基本的な運動を可能にする。
 共通の本質があるから置き換えが可能になるというよりも、ある事柄から別の事柄へ、あるメディウムから別のメディウムへの置き換えが成立することによって、その新たな関係の出現によって、事後的に、両者を貫く新たな「本質(意味)」がそこに再創造されるのだ。そのような、想起と翻訳が響き合い、混じり合う地点に、固有の外傷を解き放とうとするこの小説の野心が賭けられていると、ひとまずは言ってよいように思われる。

(4)


 この小説はただサクラさんの話というだけではない。この小説は、《私》とサクラさんの関係についての話であり、《私》と木守の関係についての話でもあり、つまりは、《私》の話でもあるのだ。ここで《私》が「サクラさんの外傷」を問題にするのは、それを通じて「《私》の問題」が問題となっているからであろう。この小説が、書き換え、置き換える力に賭けられている小説なのだとしたら、《私》は何を、どのようにして書き換えようとしているのか。
 まず《私》と木守とはどのような関係にあるのかをみてみたい。木守は、《背後から》きざまれる《強い足音》とともにあらわれ、《What! are you here?》と声をかけてくる男として登場する。この、唐突にあらわれた少年のような老人が旧知の人物であることを《私》はすぐに認め《思いがけない人物だった》と記す。この《思いがけない人物》の正体はすぐには明かされず、この後、読者に謎をかけ、ほのめかすような言葉が連なるうちに少しずつ情報が知らされる。
 このような、きれぎれになされる情報開示の遅延は、この小説の記述の一つ特徴でもある。例えば、第一章でサクラさんに初めて会った数寄屋橋の場面での《私》の赤面の理由が、三章の終盤でようやく明かされるといった風に、高度に操作的な情報開示の遅延は、「場面」という概念を解体するようなもので、それはこの小説の記述の非現前的(非描写的)性格をよく表しているように思われる。つまりこれもまた、現前的であるよりも想起的であるということだ。
 突然あらわれた男(木守)の《英国風に発音する日本人の英語》の問いかけに、《私》は、《---なんだ、君はこんなところにいるのか、……ということかい?》と答える。読者は、未だこの人物の正体も《私》との関係も知らされないうちから、暗号めいたやり取りによって、二人が過去に浅くはない関係があったであろうことを瞬時に察知する。だが、この謎めいたやり取りが、エリオットの詩句の引用と、その西脇順三郎訳による応答であったことを読者が知るのは、そこからさらに数ページ後のことになる。
 ここで特に指摘したいのは、この小説での二人の最初の会話が、詩句の提示とその翻訳という関係であることだ。オリジナルの提示に対してその翻訳で応える。つまりこの二人は、互いに、互いの書き換え、置き換えのような存在であり、そのような関係が最初に示されている。
 駒場の教養学部では、《私》は田舎から出てきたばかりの学生に過ぎなかったのに対し、木守は高校演劇で活躍し、入学前から既に周囲に知られたいわばスターのような存在であるという風に、《私》と木守はなにかと対照的に語られるのだが、しかし同時に《木守は見た感じが小柄で、じつに華奢なのに、肩を並べて歩いてみると、上背も歩幅もほとんど私と変わらないのだ》とも記されている。《肥満した老人》である《私》と、逆に《じつに華奢である》木守とは、その見た目の違いにもかかわらず、ほとんど《変わらない》のだ。そしてなにより《私らは一緒に歩き始め》る。


 もう一つ指摘したいのは、実は二人はこの場面より少し前に、互いに視線を交わし合っている点だ。
 コンサートからの帰り、新宿の雑踏で癲癇の発作で倒れた光さんへの周囲の対応に苛立っていた《私》は、自分たちを取り囲む大勢の人々のなかに木守の顔を見出す。《一瞬だけどもおれときみとの視線が合った》気がすると言う木守と、《気にかかる顔を見た》《幻影を見た》かと疑ったと記す《私》とは、たしかに視線を交わしている。
 ここでさらに重要だと思われるのは、新宿での光さんの一件が、木守の視点から、つまり《私》の外側から、語られているという点であるように思われる。そしてそこに絡めて気になるのがこの小説の冒頭だ。《肥満した老人が、重たげな赤い樹脂製のたわむ棒を左手に、足早に歩いて行く》ではじまる第一段落は、まるで三人称で《私》の外側からの視点によって語られているように読める。それが次の段落のはじめで《老人が(私だ)、不整脈を発見されて…》という記述によって一気に一人称へと着地する。この第一段落も、《私》と光さんとが二人でいる場面だ。
 この二つのことを考え合わせると、この冒頭の一段落は、《私》から切り離されて外在化したもう一人の私、つまり木守の視点によって語られているとみることも可能なのではないだろうか。木守は、実際に《私》の前に姿を見せるよりも前から、《私》から切り離された私として、少なくともその気配として、既に《私》の視点に組み込まれて小説内に存在していたとは言えないだろうか。木守は、《私》と光さんを見守る、外在化された《私》の目のようでもあるのだ。この二人は、そのような関係にある。


 木守が、《私》から切り離された私でもあるからこそ、《私》の身代わりに、京都の夜、サクラさんと性交するのだし、サクラさんに「真実」を告げるのだ。
 《私》は、サクラさんと性交する権利を木守に譲り渡すことによって、サクラさんに「真実」を告げるという汚れ仕事の義務を放棄することが出来る。そして、サクラさんに真実を告げるという責任を負うということはつまり、その後、三十年に渡ってサクラさんを保護する責任を負うということと同じなのだ。
 ディヴィッドによる、「嘘」を保持したままの欺瞞的な罪の償いではない、真実が開示された上での、罪と償いのやり直しが改めて行われる。木守が真実を告げてくれるから、《私》は、サクラさんに嘘をついているといううしろめたさから開放され、同時に、サクラさんを保護する、長い時間を共にするという責任からも逃れられる。その代償は、サクラさんとの性交を諦めるということだ。
 《私》には既に光さんが存在し、光さんと共に過ごす長い時間を負っている以上、サクラさんとの時間を負うことは出来ない。しかし《私》は、かつて松山でサクラさんの性器が映った写真(8ミリフィルム?)を見てしまっているのだから、その責任(罪)がまったくないということはない。そこへ、木守がやってきて、それを代替わりしてくれる。サクラさんの性器を見てしまったという《私》の外傷は、木守へと譲り渡されることで解決する。

(5)


 そうだとしても、この小説で最も重要な問題は、サクラさんの外傷や《私》の外傷ではおそらくない。この小説にもっとも深く、濃く、影を落としているのは死の気配であるように思われる。
 それは、三十年前の時点では、恩師である渡辺一夫教授の死であり、現在時では、それほど遠くはないだろうと予感されている《私》自身の死であろう(渡辺氏の死の直後のハンストで、トイレから戻ると《居場所を占領されていた》という場面は、ラストで席を譲ってもらう場面と反転的に響き合う)。
 三十年前に、「ミヒャエル・コールハースの運命」を脚本化するという本来の自分ものとは異なる慣れない仕事に《私》を強いたものは、一義的には木守とサクラさんの出現だが、《私》にとって切実だったのは渡辺先生の死によって訪れた精神的な危機からの脱却であったはずだ。
 《私》は、サクラさんの問題を理解し、サクラさんの動機に応えるよう、あるいはサクラさんの熱意に押されるように仕事をするのだが、だとしても、自身にとって重要な問題はそれとは別にあり、《私》は、《私》にとっての問題を脱却するというモチーフによって仕事をしたのだ。サクラさんにとっては外傷の乗り越えのために必要だった書き換え、置き換える力は、《私》にとっては、恩師の死の乗り越えのためにこそ必要であった。
 私の分身でもある木守は、自らの老いに抗するように、特殊メイクで自身を飾っている。そのような死を遠ざけようとする身振りによって、逆説的に、当初より濃厚な死の気配をまとった存在である。この小説ではその冒頭から、深刻なのは死の影なのだ。


 だが、三十年前に問題だった死と、現在時に問題となっている死とは、その質が異なる。三十年前には、師匠が亡くなって、この世界に《私》が残されるのだが、現在時において問題なのは、《私》がこの世界から消滅してしまった後に、光さんが残される、ということなのだ。三十年前に師匠のもとに訪れた死が今度は《私》のもとへと位置を移動し、《私》のもとへ訪れた師匠=保護者の消失が、今度は光さんへと位置を移動する。だが、そこで決定的に違うことは、《私》はまだ死んではいないということだ。
 この小説では、保護者(師匠)-被保護者という関係がいくつかみられる。渡辺教授-《私》、《私》-光さん、ディヴィッド-サクラさん、木守-サクラさん。サクラさんの物語としては、ディヴィッド-サクラさんといういつわりの贖罪の関係が、木守-サクラさんの関係としてやり直され、さらに、サクラさんが保護者であり抑圧者でもある男たちから解放されて自立し、女性たちの共生のネットワークのなかに入ってゆくことになるという移行が行われる(もともと国際的な女優としてキャリアを重ねてきたサクラさんは、実は既にそのようなネットワークのなかにおり、自立しているのだが、それが偽りの保護者たろうとするディヴィッドによって疎外され、抑圧されていただけだとも言えるが)。
 ここで、サクラさんの解放と自立が、渡辺教授を失った《私》、遠くない未来に《私》を失うであろう光さんと重ね合わせられ、置き換えられることで希望が生まれるだろう。かつて《私》が、渡辺教授を失って仕事への意欲をなくしかけた時に、木守やサクラさんとの関係によってあらたな仕事への意欲へと駆り立てられたのと同様に、サクラさんもまた、木守の死によって保護者を失うとしても、彼女の現在の仕事が彼女に新たな関係を、あらたな生の環境をひらきつつある。そしておそらく光さんもまた同様に……。
 サクラさんの映画が、監督という全体を束ねる中枢的な存在を持たずに、サクラさん、《私》、木守、そして、村の女性たち、NHKのスタッフたち、千樫さん、光さん等々の共同作業によってつくられることの意味もここにあろう。前述した通り、書き直し、語り直す主体は「私(特定の誰か)」であってはならないのだ。なぜならばそれは、「私(特定の誰か)」の死後も存続する力でなければならないから。
 しかしそれと同時に、死を意識した木守や《私》は、死後も存続する自身の影響を想像し、死後の時間をも生きようとする。だがそれも、「私(個人)の仕事」としてではなく、私と誰かとの関係の痕跡としてなのだ。
 《私》は、深夜まで仕事をつづけ、光さんが《トイレに起き出す物音がすると》、部屋で《かれのベッドをととのえ直して待って》いて、帰ってきたヒカルさんに《イーヨー、えらいねえ! と声をかけて毛布で包んでやる》という習慣を三十年以上つづけている。

----イーヨー、えらいねえ! といって頭を据え直してやる自分が、永遠にこれをやっている、これをやっている瞬間、永遠の時を生きている、と感じる……
(略)あと数年たらずで(来年私は、渡辺さんが去って行かれた没年に達する)父親が実在しなくなってからも、毎夜十二時には、ベッドに横たわって自分で自分の身体を毛布で包んでいる光は、
----イーヨー、えらいねえ! というわずか上方からの声を聞くのではないか……

 あるいは木守は、サクラさんの映画の脚本について、マルカム・ラウリーがフィッツジェラルドの小説を脚本化した例を持ち出し、《フィッツジェラルドの小説を完璧に映画にしたものがあるとして、それをマージュリーと見ている自分。この視点を設定して、その視点で映画を見てゆく。そしてそのまま三人称現在形の小説を書いてるんだ》と説明し、《私》にそのような形式で脚本を書くことを要求する。

サクラさんは永生きするはずだが、おれやきみ二人の協力者が欠けたために実際のブランが流れてしまったとしても、きみの書き上げておく小説としてのシナリオを読むことで、まさにわれわれの映画を見ることができる。しかも Kenzaburo の小説をつうじて、将来かなりの人数が、サクラさんのその映画を見てるのと同じ体験をするだろう。サクラさん自身、百歳まで生きれば、きみの小説を読むことで、映画のなかの自分を懐かしく思い出すことだろう!

 この部分はそのまま、この小説自身を要約しているようにも感じられるだろう。Kenzaburoによって書かれたものは、Kenzaburoの小説というだけではなく《われわれの映画》でもあるのだ。そしてその《われわれ》には、なんと多くの人が、その声が、含まれていることか。

 繰り返すが、そうだとしてもしかし、《私》はまだ死んではいない。《私》は生きているのだ。いや、生きていたいのだ。
 例え、《あと数年たらずで(来年私は、渡辺さんが去って行かれた没年に達する)父親が実在しなくなってからも》と書きつけられているとしても、当然のことだが《私》はまだ、そう簡単に死にたくはないはずなのだ。年齢を考え、周囲の状況を考えれば、自身の死後について思いを馳せ、その準備を意識せざるを得ないだろう。
 しかしだからといって、《あと数年たらずで》と書かれるほどに、そうすんなりと生の領域からフェイドアウトしようとは思わないはずなのだ。小説のラストちかくにひっそりと置かれた、同年代の紳士から席をゆずられるという奇妙な細部は、生きたいという願いこそを静かに強く語っているように思われる。死ぬのは自分ではない別の誰かなのだ。自身の分身である木守には去ってもらうが、《私》はまだ、当分こちら側に残っているつもりだ、と。
(了)

『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)所収


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