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読書計画 イギリス文学 女性の小説家 その1

イギリスには十八世紀から十九世紀に女性小説家が何人もいて、それだけで系譜が成り立ちます。ゴシック小説ではアン・ラドクリフ、エリザ・パーソンズ、レジーナ・マリア・ロシュ、メアリー・シェリー、恋愛小説でジェーン・オースティンなどが十八世紀末から十九世紀前半までで、十九世紀半ばではシャーロット・ブロンテ、エミリー・ブロンテ、アン・ブロンテの三姉妹、十九世紀後半では、エリザベス・ギャスケル、ジョージ・エリオット、ウィーダ、アメリカに移住したフランシス・バーネットなどです。二十世紀になると、ヴァージニア・ウルフ、アガサ・クリスティなどが続きますがやはり世界文学の中でも集中しているのが十九世紀のイギリスです。

アン・ラドクリフの生涯はよく知られていません。しかし1790年代には最も人気の作家でした。『ユードルフォの秘密』1794年は当時のゴシック小説の中では突出した出来になっています。これは非常に長い作品で最近になってようやっと全訳が出されました。主人公の少女が両親の死によって孤児となり叔母夫婦に連れられてイタリアの城に閉じ込められその城で恐怖の事件が次々に起こるという話です。アン・ラドクリフは他にもいくつかのゴシック小説の歴史小説や恋愛小説を書いています。中世スコットランドの復讐話『アスリンとダンベインの城』1789年、シチリアの北岸にあるマッツィーニ城の廃墟を舞台として貴族の恥ずべき秘密が明かされる『シチリアのロマンス』1790年、借金取りを逃れてパリを出奔した夫婦が逃れた先の廃墟となった修道院で展開する物語『森のロマンス』1791年、18世紀の異端審問の時代のナポリを舞台にした『イタリア人』1797年、13世紀イギリスを舞台とした主人公の結婚式を巡る陰謀の物語『ガストン・デ・ブロンドヴィル』1826年、最後の作品は死後に残された原稿を基に出版されました。人気の絶頂期に出版された『イタリア人』には破格の高額な原稿料が支払われました。しかし、『イタリア人』の後には新しい作品は発表されず、亡くなったのは1823年でした。発狂したとか喘息が悪化して再起不能になったとか色々な説があります。アン・ラドクリフは同時代に作風が模倣され、多くの女性のゴシック小説家が生み出されました。なぜかこの時代の女性は恐怖の物語を好んでいたようです。マルキ・ド・サドもエドガー・アラン・ポーも彼女の作品から影響を受けています。他にもウォルター・スコットやバルザックやユゴーやデュマやボードレールやドストエフスキーなどの多数の文学者から評価されています。

エリザ・パーソンズは夫が破産して病気で亡くなったので家族を支えるために当時はやっていたゴシック小説を参考に『ウォルフェンバッハ城』1793年や『不思議な警告』1796年を書きました。

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』1818年は、19世紀初頭のゴシック小説の代表であると同時に、空想科学小説の始まりとも見なされています。夫の詩人パーシー・シェリーや友人のバイロンとの交友の中で書かれたという事情もあって、特にパーシー・シェリーの作品と呼応しています。書簡体小説の形で書かれています。メアリー・シェリーは1814年に既婚者だったパーシー・シェリーと駆け落ちし、大陸とイギリスを行き来する間に、スイスのバイロン邸に招かれた時に『フランケンシュタイン』の着想を得て1818年に夫の助力で出版しました。同年から一家でイタリアに移住し、1822年に夫は海の事故で亡くなってしまいました。イタリアでは近親相姦を扱った『マチルダ』1820年、14世紀のルッカを舞台とした歴史小説『ヴァルペルガ』1823年が書かれています。1823年にイギリスに戻ります。その後の作品は、謎の伝染病で人類が絶滅する21世紀後半の話『最後の男』1826年、15世紀末から16世紀初頭のヘンリー7世の時代を舞台にした歴史小説『パーキンウォーベックの運命』1830年、『ロドール』1835年、『フォークナー』1837年と小説を書き続けています。今では『フランケンシュタイン』しか知られていませんが、それなりに活動期間が長い小説家でした。

ゴシック小説にのめり込む少女が主人公の話というのが、ジェーン・オースティンの最初の作品『ノーサンガー・アビー』1803年です。ゴシック小説の話は実際にはそれほど出てきません。とりあえずアン・ラドクリフの『ユードルフォの秘密』1794年が頻繁に話題になっています。『ノーサンガー・アビー』に題名だけ登場するのは次のような作品です。アン・ラドクリフ『イタリア人』1797年、エリザ・パーソンズ『ヴォルフェンバッハ城』1793年、エリザ・パーソンズ『謎の警告』1796年、レジーナ・マライア・ロッシュ『クレアモント』1798年、フランシス・レイサ『真夜中の鐘』1798年、エリナー・スリース『ライン川の孤児』1798年、グロース侯爵『恐ろしき謎』1796年、これらが主人公の読書友達が紹介した本です。さらに別の場面で話題としてマシュー・グレゴリー・ルイス『修道士』1796年、ファニー・バーニー『カミラ』の題名が出てきます。『ノーサンガー・アビー』を書いた時の同時代の流行を反映しています。『修道士』はアン・ラドクリフが影響を受けた作品です。『修道士』は最近映画になりました。単なる流行りものではない普通の小説としてヘンリー・フィールディングの『トム・ジョーンズ』1749年、サミュエル・リチャードソン『サー・チャールズ・グランディソン』1754年が出てきます。『トム・ジョーンズ』はやはり18世紀から19世紀のイギリスの基本となる小説のようですが、それ以上にゴシック小説の影響は非常に強いようです。十九世紀のイギリスの女性が書いた小説には謎の屋敷の話がほぼ必ずといっていいほど出てきます。ブロンテ姉妹の作品にもゴシック小説の仕掛けが登場します。ジェーン・オースティンの恋愛小説には、『ノーサンガー・アビー』の他に『分別と多感』1811年、『高慢と偏見』1813年、『マンスフィールド・パーク』1814年、『エマ』1815年、『説得』1816年があります。最初の作品『ノーサンガー・アビー』が出版されたのは1816年だったので、ほんの5年の間に全部の作品の発表が集中しています。

ブロンテ姉妹の作品でよく知られているのはシャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』1847年とエミリー・ブロンテ『嵐が丘』1847年ですが、末の妹のアン・ブロンテ『アグネス・グレイ』1847年は同時に書かれて出版されています。シャーロット・ブロンテが二人の妹とともに最初に書いたのは『教授』という作品でしたが『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』と同時に出版社に持ち込んだところ、これだけ断られて直ぐに勧められて二作目を書いて成功したのが『ジェイン・エア』でした。しかし、これはどうも妥協の産物のような気がします。エミリー・ブロンテは大変な才能の小説家ですが、すぐに亡くなってしまい、小説としては『嵐が丘』しかありません。アン・ブロンテはもうひとつの小説『ワイルドフェル・ホールの住人』を書いて翌年に亡くなってしまいます。シャーロット・ブロンテは『ジェイン・エア』が成功した後、『シャーリー』1849年、『ヴィレット』1853年を書いて39歳で亡くなってしまいました。最後に『エマ』という作品のわずかな草稿が残されました。

ジョージ・エリオットは本名はメアリー・アン・エヴァンスです。雑誌編集者だったのですが小説は男性名で発表しました。十六世紀の宗教改革の時代の架空の町を舞台にした『牧師館物語』三部作1857年、イギリスの十九世紀の農村社会を舞台にして心理的道徳的葛藤を描いた長篇小説『アダム・ビードゥ』1859年などの初期の作品の到達点として比較的短い『サイラス・マーナー』1861年がよく知られています。『サイラス・マーナー』は確かに手堅い教訓小説としてよくできています。登場人物の心情の変化や劇的な展開がうまく作られていて非常に完成度の高い作品です。勤労を美徳とするプロテスタントの倫理観が主人公の養女の主張として前面に出てきてしまうところは、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』と同じような欠点ですが、『サイラス・マーナー』は微妙に登場人物の役割が分散されていて、直接的な主張と作品の自立性を両立させているところがよく出来ています。その当時は直接的な主張が読者に大きな共感を呼ぶ場合もあり、それに答える必要もあったのでしょうが、作品が一方的な発言の手段になってしまったら自立性は失われてしまいます。その点で比較すると、ディケンズやサッカレーの作品は、語りの枠組みを重層化させて直接的な倫理観の表明からは距離を置いて一面的ではない複雑な材料を提供してくれるので、文学作品としては幅の広さを持っています。ジョージ・エリオットの作品は、その意味では、逆に物語の集中度を保ちながら直接性を回避させるという技を駆使していると見なせるでしょう。ジョージ・エリオットには、更に15世紀イタリアのサボナローラの時代を舞台にした『ロモラ』1863年、『急進主義者フィーリクス・ホルト』1866年、大作の『ミドル・マーチ』1872年、『ダニエル・デロンダ』1876年、『テオフラストス・サッチの印象』1879年があります。


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