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花神(中)司馬遼太郎
日本一丸
いま、上は公家大名から下は百姓にいたるまで、「攘夷」という一点で、おなじ憤りとエネルギーを出すに至っており、この民族が一つの主題のもとにふるい立ったことは有史以来かつてない。
島国の民族意識
極東の島国であるという地理条件が、日本人の意識を特殊なものにしている。
国内問題ではあまりさわがず、外交問題になると、全島のすべてがいっせいに発狂したがるの観で、さわぐ。不幸なことに、外交問題の性質上、時とともに変化せざるをえない。時が過ぎると、忘れたように日常にもどっている。日露戦争のはじまる前、開戦をせよというのが国民運動として盛り上がり、対露戦争に自信のない政府はその世論をそらすことに懸命であった。戦争が一段落して政府が講和にもちこんだとき勝利の値段が安すぎるとして東京で騒乱現象がおこった。太平洋戦争が終わってからは、全面講和論さわぎ以来、大規模な市民的騒乱減少はすべて外交問題に対する緊張心理からうまれている。これら日本人の習性的騒乱癖の祖型をなしたのが、幕末の尊王攘夷論のさわぎであった。
日本人の持つ情念「けがれ」
⋯⋯蘭学者は異人の提灯持ち。
といわれ、京や江戸では蘭学書生には家を貸さないというのが、一般の風であった。
神道的な意味でのけがれというものを士民ともに蘭学者に感じていたが、蔵六は蘭学者でありながら、一面では土俗のつよいというふしぎな性格であった。 が、単に情念だけでなく、蔵六は日本を救うものは攘夷であると考えており、「攘夷の火は、燃えるだけ燃えひろがるがよいのです。国をいったん焼きはらってしまわねば日本は救われません」という、福沢諭吉がきけば気をうしないそうなことを、同藩の来原良蔵という青年にいったことがある。
自国の歴史を知らなかった天皇
「攘夷」
というものの歴史的評価について、ほんの少し考えてみたい。一種の国際知識や感覚の欠陥状態からうまれる排外思想。と、定義してしまえばミもフタもなくなるがエネルギーとして評価すれば、人間社会を組んでいる場合、集団としてこれほどのエネルギーをおこす精神はほかに類がない。
たとえば時のみかどである孝明帝は、外国についての知識は皆無であった。それどころか、天皇というものの歴代のしきたりとして御所の塀の外にでることがなく、京都郊外さえ見たことがなかった。もっとも孝明帝は文久三年に賀茂行幸などをしてわずかに市中の風景に接した経験はもっていたが。
さらに孝明帝は、これは信じがたいほどのことだが鎖国主義は神話時代からの日本の祖法であると信じておられた。徳川初期、徳川家が自家の体制をまもるために外国との交際を断ったという歴然たる歴史事実を御存じなかった。これはこの帝の教養の問題でなく、全国津々浦々に五月蠅のようにわきおこった攘夷志士の九割九分までが、鎖国が徳川幕府によって出発したことを知らず、神代以来のものであると信じていた。
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無知から生まれる土俗感情の崇高性
その理由のすべては、この時代、日本歴史についての全時代史(通史)がなく、ただひとつ、頼山陽の「日本外史」があっただけというものであった。
その山陽の「日本外史」も、はじめ頼家に蔵されて世に出ず、天保年間にはじめて印刷され、列強の極東侵略うわさが高くなった嘉永初年ごろから大いに世に流行するようになった。江戸期というのは世界史に類の少ない教養時代というべきだが、その教養のうちの史学面というのは中国の史書を読むことで逢って、日本史の研究ではなかった。要するに幕末人は、上は大知識人から下は「浮浪」といわれた攘夷志士にいたるまで、「日本外史」一つが
日本歴史を知るうえでの唯一の書であった。このため、幕末のぎりぎりになってから、相当な志士のあいだで、「鎖国というのは、じつは徳川家がつくった制度だそうな」ということが、きわめて新鮮なトピックスとしてささやかれはじめたほどである。
帝が
「この神州をの土を夷どもに踏ませては皇祖皇宗に申し訳が立たぬ。」
と強烈な宗教感情をもって、おもわれたのも、無理のない滑稽さであった。本来、島国で閉鎖的に暮らしている単一民族にとって攘夷感情というのは、ごく自然な土俗感情であるが、この土俗感情に崇高性が付加されたのは、「京の天子でさえ」という風説であった。
無知こそ革命の力
すでに朱子学、水戸学、国学といったものの普及で尊王というのはごく普遍的な思想になり、理論化されており、それが沸騰する攘夷の
土俗感情に行動性をあたえ、さらに集団化させ、物質力にさせて、ついには幕府をゆさぶるにいたったのである。攘夷というこの固陋な感情や理論が革命の力になったのは、そういうことであった。
「攘夷」を思想としてバカにする福沢諭吉
エネルギーとして見る西郷隆盛・村田蔵六
「攘夷」についての余談を続けたい。
福沢諭吉のような開明派からみれば、およそ愚劣な「私は首をもがれても攘夷のお供はできませぬ」と福沢がそうまでののしったその攘夷主義とそのエネルギーが明治維新を成立させたのである。
ついでながら、佐幕開明主義というグループが存在したが、これではとても歴史は動かない。というのは、この時代、むしろ幕府方のほうに開明家が多かった。松本良順のような洋医もおれば榎本武揚のような様式陸海軍の指導者もいる。さらには、小栗上野介のような開明政治家もいてかれは徳川家を保存する方法として徳川将軍家を
ナポレオン三世のような地位にし、大名を廃止して郡県制度を布くという青写真を持っていた。
日本を丸洗いしたエネルギー
「とすれば」という議論がある。「薩長による明治維新がなくても、幕府中心で結構、開明国家になったはずである」
という議論だが、これでゆけば、清帝国のままで孫文の中華帝国もできたし、さらには毛沢東の中国もできたという議論にひとしい。清朝末期にも洋式海軍があったし、開明的な政治家や思想家もいた。しかしながらそれらの開明主義というのは、国家と社会を一新させるエネルギーにはならないのである。
幕末の攘夷熱は、それが思想として固陋なものであっても、しかしながら旧秩序をやきつくしてしまうための大エネルギーは、この攘夷熱をのぞいては存在しなかった。
福沢は蔵六や長州人の「攘夷熱」を嗤ったが、しかし、これがもし当時の日本に存在しなかったならば武家階級の消滅は極めて困難で、明治開明期社会もできあがらず、従って福沢の慶應義塾も、あのような形にはあらわれ出て来なかったことになる。
尊王の意義
さらに反幕攘夷家たちは、日本の中心を天皇という、単に神聖なだけの無権力の存在に置こうとした。天皇を中心におきたいというこの一大妄想によってのみ幕藩体制を一瞬に否定し去る論理が成立しえたし、それによってさらには一君万民という四民平等の思想も、エネルギーとして成立することができた。
「攘夷」というものが、福沢のいうようなばかばかしいものではなく、攘夷が思想というよりエネルギーであればこそ、この時期以後激動期の歴史の上でのさまざまな魔法を生んでゆくのである。
西郷隆盛
さらに「攘夷」についての余談をつづける。まず、薩摩の西郷隆盛について触れたい。西郷の人格というのは同藩人の黒田清隆のことばを借りれば仁者であり、西郷が西南ノ役で死んだとき、西郷の敵にまわった黒田は、⋯惜しき仁者をうしなった。
といって、悵然とした。仁者とは、儒教の政治上の。同時に倫理上の理想的人格のことをいう。博愛の心をもち、もつだけでなくそれを他に及ぼすという人格で、他に及ぼすためには身を殺してもそれをあえてするという人格を指す。黒田にすれば西郷は大革命家というよりも、仁者というにふさわしいというのであろう。たしかに西郷は革命家として大陰謀ができる才能を持ち、しかもそれを実行しながら、一面では少年のようにういういしいユートピアであった。余談の余談ながら、かれにとって明治維新は理想の達成ではなく、理想の幻滅であり、維新後、明治十年非業に死ぬまでの毎日はうつ病患者のようであった。その西郷は、攘夷エネルギー以外に日本を一変させる魔法はないと信じていた。かれは幕末きっての開明君主で同時に攘夷家であった島津斉彬の家来というよりもっと良質な門人であったが、ともかく、幕藩日本をいったん攘夷の火で焦きつくし、それによって理想国家をつくろうとした。
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