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禅と日本文化

禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字ふりゅうもんじ
と言うのである。

言葉は哲学には要るが、禅の場合には
さまたげとなる。なぜであるか。
言葉は代表するものであって、
実態そのものではない。
実体こそ、禅において最も高く評価されるものなのである。

一、禅は精神に焦点をおく結果、
 形式フォームを無視する。

二、すなわち、禅はいかなる種類の
  形式のなかにも精神の厳存げんぞんをさぐりあてる。

三、形式の不十分、不完全なる事によって
  精神がいっそう現れるとされる。
  形式の完全は人の注意を形式に
  向けやすくし、内部の真実そのものに
  向けがたくするからである。

四、形式主義フォーマリズム慣例主義コンペンショナリズム儀礼主義リチユアリズム
  否定する結果、
  精神はまったく裸出らしゅつしてきて、
  その孤絶性こぜつせい孤独性こどくせいかえる。

五、超越的な孤高ここう、または、
      この「絶対なるものアブソルート」の孤絶こぜつ
      アスセチズム(清貧主義、禁欲主義)
      の精神である。
  それはすべての必要ならざるものの痕跡こんせき
  いささかも止めないということである。

六、孤絶とは世間的の言葉で言えば
  無執着むしゅうちゃくということである。

七、孤絶なる語を仏教者の使う絶対という
  意味にかいすれば、それは最も
  いやしいと見られている野の雑草から、
  自然の最高の形態といわれているものまで、
      森羅万象しんらばんしょうのなかにしずんでいる。

わび


多様性の中に超越的ちょうえつてき孤絶性こぜつせい
日本の文化的用語辞典ぶんかてきようごじてんでは「わび」と呼んで
いるものをわれわれは鑑賞かんしょうするのである。

「わび」の真意は「貧困ボヴアティー」、
すなわち消極的に言えば
「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、
 おらぬ」

ということである。

貧しいと言うこと、すなわち世間的な事物じぶつ
-「富・力・名」に頼っていない事、
しかも、その人の心中には、
なにか時代や社会的地位を超えた、
最高の価値をもつものの存在を感じること
これが「わび」を本質的に組成そせいするものである。

日本人のいちじるしい特色の一つとして、
南宋なんそう大画家の一人「馬遠(ばえん)」に
源を発した「一角」様式を挙げる事ができる。

第二章「禅と美術」

禅の特色

禅には一揃ひとそろいの概念がいねん知的公式ちてきこうしきを持つ
特別な理論があるわけではない。

ただそれは人を生死の羇絆きずなから
解こうとするのである。

しかも、これをするために、それ自身に特有な、
ある直覚的ちょっかくてきな理解方法によるのである。

それゆえに、その直覚的ちょっかくてきな教えが
さまたげられぬ限り、
いかなる哲学にも道徳論にも、
応用自在おうようじざいの弾力性を持っていて、
極めて抑揚よくよう富んだものである。

禅は無政府主義アナーキズムやファシズムにも、
共産主義や民主主義にも無神論アシ―イムズ
唯神論アイデアリズムにも、
またいかなる政治的、経済的な教説ドグマにも結び付いている。

ある意味では、禅はいつも、革命的精神の鼓吹者くすいしゃ
ともいえる。

また過激な叛逆者はんぎゃくしゃにもなれば、
頑固な守旧派しゅきゅうはにもなうるものを、
その中にたくわえている。

なんでも危機—いかなる意味でもよいが、
それにひんした時は、
禅は本来の鋭鋒えいほうを現わして、
左右いずれとも現状打破の革新力となる。

日本宗教の特色

日本につぎのいいあらわしがある。

天台てんだい宮家みやけ真言しんごん公卿くぎょう
 禅は武家、浄土じょうどは平民』と。

この言葉は日本の仏教各宗ぶっきょうかくしゅうの特色をよく表している。

天台と真言は儀礼主義ぎれいしゅぎんでいて、
その諸儀式しょぎしきを行うや、
なかなか煩雑はんざつで、手の込んだ華麗豪奢かれいごうしゃなものがあるので、それが洗練された階級の
嗜好しこうに投ずるのである。
浄土宗はその信仰と教義が単純であるから、
おのずから平民の要求に応じている。

禅では究極の信仰に到達するために、
最も直接的な方法をえらんだほかに、
これを遂行すいこうするに異常な意力を要求する宗教である。
そして、意力は武人のぜひとも必要とするところのものである。
もっとも禅は意力だけでなく、
最後は直覚ちょっかくによって解決を
つけるものではあるが。

哲学は知的精神の所有者によって安全に保存せられてよい。
禅は行動することを欲する。
最も有効な行動は、ひとたび決心した以上、
振りかえらずに進むことである。
この点において禅はじつに武士の宗教である。

第三章「禅と武士」抜粋

禅と茶道

禅の茶道に通うところは、
いつも物事を単純化せんとするところにある。

この不必要なものを除き去ることを、
禅は究極実在きゅうきょくじつざい直覚的把握ちょっかくてきはあくによって成しとげ、
茶は茶室内の喫茶によって
典型化させられたものを
生活上のものの上に移すことによって
成しとげる。

禅は原始的単純性げんしてきたんじゅんせい洗練美化せんれんびかである。


禅の狙うところも、
人類がおのれ勿体もったいづけるために
工夫したと思われるような、
いっさいの人為的じんいてき
おおいものをはぎとる点にある。

温和な国民性

日本は近来好戦国こうせんこくとして知られてきたがー
全然あやまりである―自己の性格について持つ意識は
自分たちは、全体としては、
温和な性質の国民だということである。
そう考えるのも道理である。

日本全体をとりまく自然科学的しぜんかがくてき雰囲気は
気候上のみならず気象学上からも
相対的そうたいてきに温和という特色を持っている。
これは多く空気中の水蒸気の存在にもとづく。

山嶽さんがく・村落・森林などは水蒸気につつまれて
柔らかな外貌がいぼうていする。
花はがいして色がはげしくなく、
やや和らぎをびておだやかである。
そして、春の葉ぶりは目にもさわやかである。

このような環境に育てあげられた感じやすい心は
あやまりなくそこから多くのものを吸収するが、
それが心の和となる。

しかし、われわれは
社会的・経済的・民族的種種みんぞくてきしゅしゅ
難題に接触するにつれ、
この日本的社会の基礎的な美徳からそれやすい。
われわれは汚染おせんに対して自分を守らねばならぬ。
禅がこのときに際してわれわれを助けにくる。

茶は日本では鎌倉以前すでに知られていたが、
これをひろく一般に伝えたのは栄西禅師といわれる。
(中略)
茶の作法は
禅院に人を饗応きょうおうしたり、ときとして
己が寺中の者たちを饗応したりするときの作法である。
それを日本にもたらしたの禅僧は
栄西より半世紀ほど後の大応国師であった。
大応の後、数人の禅僧が来朝して茶の湯の師と
なったが、
ついに有名な大徳寺の一休和尚がその法を
弟子の一人の珠光に教え、珠光の芸術的天才は
これを発展させて、
日本的趣味に取り入れる事に成功した。

第六章「禅と茶道」抜粋

悟り


仏陀の言葉や文字上の教えにしたがったり、
また、より高い存在を信じたり、
また、戒律的な鍛錬の公式を実践したり
することなどにたよらないで、
ある内的体験を無媒介的むばいかいてきにうることである。

これは直感的な理解の方法に訴えるものであり、
日本語で「悟り」という体験がそれから起こる。
悟りが無ければ禅はない。
禅と悟りとはほぼ同意語シノニムである。
この悟りという体験の重要さは、いまでは禅独特
のものとみなされるようになった。

悟りは心理学的に言えば「無意識」を
意識することである。

「無意識」は蓄積ちくせきされた知識の宝庫でなくて
れることを知らぬなま源泉げんせんであるからだ。
ここには知識が貯蔵ちょぞうされてるのではなくて
あたかも巨木が極少一粒ごくしょうひとつぶ種子しゅしから
生長せいちょうするように、ここから成長するのである。

以上引いた場合で判るように、自覚に関する
禅の技術の心理状態は
「人間の極限は神の機会である」
東洋的に言えば
きゅうして通ずるという真理に身を置くのである。

偉大な行為はみな、人間が意識的に
自己中心的な努力をて去って、
「無意識」の働きにまかせるときに成就じょうじゅせられる。
神秘的な力が何人なんびとの内にも隠されている。
それを目覚ましてその創造力を現わすのが
参禅さんぜんの目的である。

芸術は創作家として、われわれのように
常套的じょうとうてきな方面にのみ心を動かしているもの
と違って、高次元の面に生きている。
このより深い霊感の源泉げんせん燧口ひノくち
つけることが、異常な方法論を持って
禅のねらうところである。

禅の世界は五感、常識、陳腐ちんぷな道徳論
理論的な議論をれる通常の世界と
別段変わりはない。
ただ禅にはそれらのもとをなす原理とか真理とか
いうものの直覚がある。
原理とか真理とかいう言葉は、
私のいいたいと思う意味を表すには
適当ではないが、いずれにしても
禅はわれわれと同じ宇宙、同じ自然に面し、
同じ対象物、同じ特殊存在とくしゅそんざいに対して
興味を持っている。

かえるが水に飛びこむ、蝸牛かたつむり芭蕉ばしょうの葉に眠っている、
ちょうが花に舞う、月が水に影を宿やどす、
百合ゆりが野に咲く、時雨しぐれ茅葺屋根かやぶきやねを打つ…。
禅は季節に移り変わる自然のこれら普通の
できごとに深く関心を持つ。
これらの直覚が俳句という詩的形式してきけいしき
表現されるとき、世界文学史における、
まったくユニークなものを
われわれに与えるのである。

第七章「禅と俳句」






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