音の都のならずもの

 劇場の、なんとも息の詰まる回廊におれたちは閉じ込められていた。じっさい、おれは自由な空気を吸いに町に出てきたというのに。

 2週間のヨーロッパ旅行だった。ウィーンはそのはじまりと終わりの場所。母の友人の音楽家の宅に厄介になるためだった。荷物を置かせてもらったことはそれからの身軽な行程において大いにありがたかったし、もろもろの送り迎えにも感謝している。しかしながら、学生時代も終焉を迎える段になって、安全を第一とし、身内に頼り切ってしまったこと、学童の立場に自分を巻き戻したことに、自業自得ながらいらいらを募らせていた。家庭的な空気とやらにも嫌気が差してきた。とくにお尻の部分、ヨーロッパ諸都市をひとりでぶらついたあとだと、もう我慢がならなかったのだ。日本に戻る前のあと数日で、おれは自分を取り戻さなければならないのだ。
 「仕事場に行くのも嫌でしょうから」不器用ながらなんとか最低限の気遣いをみせるためのオペラ鑑賞という口実。ウィーン郊外の落ち着いた住宅街からの脱出。意味も発音もわからぬドイツ語表記。メモと照合させるその行為は隠れ絵本の児戯の如く刹那的である。じじつ、おれの記憶からはウィーンの小さな地名も駅名もまるごと抜け落ちてしまっている。すべて目的地にたどり着くための情報に過ぎない。そんなに急いでおれはどこを目指していたのか?
 古色蒼然たるウィーン中心街は、それでも保護者同伴の景色とは違って見える。教会。馬車。カメラを持つ観光客。そういうものに囲まれても、保護されているという感覚は、もはやない。自由だ。しかし自由には責任がある。時間を持て余してはならない。切符を得るためには、せいぜい1時間。この時点でおれは何重もの罠に絡み取られていたことにもちろん気づいていない。
 ひとまず第一の罠。おれたちは自由な時間に恐怖を感じる。無為に圧しつぶされる不安に耐えられないから、いかにも意義のありそうなスケジュールで自分をがんじがらめにしようとする。そうして自分というものを変形させるのだ。欲望の奇形化。おれたちは大事ではない仕事を、ものを、予定を、人間を、いかにも大切に扱う。悲しいけれどおれたちは自身を嵌めることに関して、はるかに多くの熱情を注ぐ。そういう意味で他人に騙されまい、と疑心暗鬼に駆られる人間は幸福なのかもしれない。夢のなかに生きている、という意味においては。蜘蛛の糸を振り払っている気になっていても、繭のなかで安眠を貪っているのだ。
 いずれにせよ、おれは1時間をガイドブックの思惑に操られてはいけないと鼻息を荒くした。そう、おれは独創と自己決定を何よりも尊ぶものだ。はるばるヨーロッパに降り立ったのだ。そこらの旅行者とは一線を画す体験をしなければ収まらない。おれは隘路を進む。徐々に、ありがたいことに大変おれの意にかなった様相を呈してくる。ここはマイノリティの巣だ。ケバブ屋台。ターバン。その他のごたごた。よし。2頭立馬車なんざ犬に喰わせろ。あらゆる種類のチーズがぞんざいに並べられた露天がある。日本だと、こういうものはデパートにうやうやしく、ガラス張りの向こうにリボン付きでふんぞり返っていることだろうが。さすが本場は違う。といっても、店を切り盛りするのも買っていくのも近所の住民。少数派の人々だ。ときは9月。強烈なものが鼻孔をつつく。常温のチーズ、健気なる本場のチーズはこういうものかもしれない。正直なところ、これが香気なのか臭気なのかわからないが、おれの口には唾が湧いてくる。これはきっと本能的な食欲ではない。西洋趣味と判官贔屓の絶妙なミックス。コーヒー。ビール。チョコレートにいかの塩辛とかそっちのほうの美味しさ。後天的な嗜好。おれの生半可にインテリな脳が欲望しろ、と命令した結果なのだろう。こんなふうに傍流を歩いていれば約束の時間はやってくる。おれは何らかの成果があったと一応の満足を感じる。
 問題の冒頭の劇場のシーンである。切符を得るため、オペラという高尚にじかに接するために、おれたちは2つの選択肢を突きつけられる。1.然るべきユーロを払う 2.ケバブサンド程度を出す代わりの立ち見。そして2時間廊下で待ってろ。
 おれたちは後者を選ぶ。いま改めてそのシーンを思い描く。疑問もいくつか。おれたちは貧しかったのか?ノー。少なくとも周りの連中、そのほとんどは外国人旅行客だった。つまりおれを含めて航空券なり切符なりホテルなりに相当の金額を払える立場にいた。つまりおれたちに立ち見を選ばせたのは貧乏ではなく不遜だったのだ。ここで浮いた金額をディナータイムのデザートなり、土産物なり、エッフェル塔からの景色なりへ埋め合わせようという魂胆。そういうふうな見方をすれば、おれたちの大半が卑屈であったこと、皮肉な態度だったことは説明がつく。はじめから劇場、オペラ、そして芸術に対する敵対者だったという見方である。あるものは自由主義的に振る舞う。いわく、芸術はこういうふうに多くに開放されるべきなのよ。またあるものは市場原理を説く経済学者である。いわく、ショービジネスとはこういうものなんだ。しかし実態として俺達のほとんど全部は海賊である。いわく...いや海賊にマニフェストは必要ないだろう。むき出しの欲望と行動あるのみである。船上パーティが開催される豪華客船。そこに忍び込むならず者ども。よだれを垂らし、脅し、まさぐり、金になるかならんかのシンプルな評価を下していく。奪っていく。高尚なものに対する本能的な畏怖と憎悪。だからこそ理解を拒む。あざ笑う。破壊のカタルシス。ただ、いまはその時期が来ていない。暴れまわる内面を抑制しないといけない。飼い犬のようにおとなしく待ってろ。さもなくば客船に乗り込むチャンスすらないぞ。
 いかにも下っ端の海賊見習いだったおれは早速痛めつけられることになる。しわしわの、菜食と宗教と離婚と、それに伴う精神科通いで疲れ切ったような旅行者に目をつけられた。視線が合うとハァイ!と快活に声をかけてくる。列にして3つ、人間にして15は隔たった距離。知り合いのふりをしておれの後ろに割り込もうとする。すぐさま他の待機客が糾弾する。魔女はもといた場所に追いやられる。海賊の集団にも規律と自浄は成立するらしい。と考える暇もなく、なんの対策を講じることもできず、おれはまた保護されてしまった恥辱に顔を赤らめるばかりであった。
 こうした悶着がいくつか起き、海賊どもは次に退屈に襲われる(そういう意味では先程のようなパフォーマンスは歓迎されてよいのかもしれない)。もはや誰もが自分たちが置かれた状況に憎しみを抱かずにはいられない(前言を撤回しよう。そういう意味では、癪に触るパフォーマンスには永久追放を突きつけられるかも知れない)。おれたちはいかにしてこの音の都にやってきたのか?何も考えずに訪れた人間。本当に音楽を愛していたかもしれない人間。しかしいまは一緒くたに、単純な思考を共有するひとつの集団になりつつある。それは身内での裏切り(例:割り込み)は許さないし、さっさと窓口を開けない劇場もクソだ、それ以上に正規の料金を支払って悠々と座席にもたれる上品な紳士淑女の野郎が気に食わない、という思考。要するにおれよりもいい思いをするやつには黙っちゃおけねえという駄々。かくして海賊行為は正当化される。もう経済学者は経済学者ではない。間違っても「きちんとしたユーロを支払ってくれるきちんとした方々のおかげで芸術は維持されているのです」と取り澄ましていることはできない。彼の頭も煮えたぎっている。
 窓口がいざ開く。殺到。怒号。まるで秒刻みで空気が失われていく密室に閉じ込められているかのような悲壮。むろん窓口係は意に介さず、冷酷かつ正確にちょっとしたユーロと切符を交換していく。おれも切符を受け取ると、脱兎のごとく会場に突入した。
 タイタニック号もかくや。すでに日は暮れ、古都の夕焼けを見逃した事実に歯噛みをする。貴族たちは続々と到着する。今宵のタイムスリップを楽しむために。世が世ならば彼らがどれほどの春を謳歌していたかを偲ぶために。絨毯やオレンジの照明に映える石段になかば陶然としつつも、おれはかろうじてケッと唾を吐いてみせる。海賊のお仲間たちも露悪的に振る舞っていることが予想される。大声でくっちゃべったり、ジーンズを絨毯に引きずってホコリを立てたり、轟々と小便をしたり。まあ、これはすべて手はじめだ。粗暴。略奪。酒池肉林。
 しかし、劇場のなかに入ると、おれたちの最盛期はすでに終わってしまったことを悟る。何もかも理解ができない。ゲームに入れてもらえない。はたして劇がドイツ語によるものかイタリア語によるものか(かろうじて「英語ではない」ことが聞き取れるのみである)。「翻訳機は使われますか」。悪魔の囁き。仲間の半分くらいは従順に翻訳機をつけて懐柔される。やめろ。言葉がわかったところで、おれたちにストーリーが理解できるか?詩を理解できるのか?芸術をいまさら愛することができるのか?これは罠だ。かつての侵略者たちは飼いならされていく。バケツには上等のドッグフード。
 そんなおれも気概を大いに失する。おれの後ろにふたりの音楽学生。ひとりはピュアだ。まさに文化を担う意志に燃えている。もうひとり、背の高い巻き毛の学生。こちらは一から十までアイロニーに浸りきっている。金縁眼鏡の向こうの半眼。彼の目は語る。すべてが馬鹿馬鹿しい。大時代な劇場も、死にかけた古典芸術も、金をたんまり払うやつも、出し惜しみしている隣人も。そして、その勉強に人生ほとんどを費やす僕こそが阿呆だ、と。
 金縁の退廃思想家におれは衝撃を受ける。もう、おれに価値はない。海賊を、革命家を気取って芸術を高みから引きずりおろそうとした。でも、怖気づいた。なぜっておれより徹底したやつがいるから。金縁の彼は芸術の賛美者であった。おれは目の前で起きている劇に理解が及ばない。金縁の彼は芸術に多くを捧げた、だから憎悪も本物だ。おれは常に出し惜しみをしている。そして彼は皮肉をもって芸術に復讐を試みる。おれは何もない。気まぐれの破壊衝動があるだけだ。そしてこれが肝腎だが双方とももはや古典に傷はつけられない。長く続く芸術のまえでは無能と無価値を否応なく晒す。
 たとえばおれがいきなりわめき出すとする。おれはもちろん野良猫のようにつまみ出される。それだけの個人的犠牲を払ったとしても古典はびくともしないだろう。なぜならば、古典芸術はこの劇場にも、オペラ歌手にも、観客の胸にも依存していないから。何らかの悲劇で世界中の歌劇場がぶっ飛ばされたとする。どういう理由かで観客も見向きもしなくなる。歌劇デートはステータスシンボルではなくなるかもしれない。だが、古典はいずれ、何年か、下手したら幾世紀かを要するかもしれんが、どうにかして土の中から掘り起こされる運命にある。だからこそおれたちはこうして呆然と完全に阿呆みたいに突っ立っていられる。はからずも芸術の賛美者であるかのように。『フランダースの犬』最期の瞬間のネロ少年のように。歌劇はこのように多くの屍のうえに成り立ち、これからも多くの犠牲を求めるだろう。ならずものはせいぜい指を咥えてみていろ。

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