第十三回 モーパッサン『首飾り』

新年あけましておめでとうございます。
今年も「インテリゲンチャのための読書クラブ」を、
どうぞよろしゅうお願いもうしあげます。

年明け一発目で読後感すっきり..ではあまりありませんが、
モーパッサンの『首飾り』を題材とした議論が展開されました。

テキストはこちら↓
https://www.aozora.gr.jp/cards/000903/files/43555_70058.html

まずはざっくりとあらすじ

ミもフタもない感じになりますが(非常にミの詰まった短編小説なので、概略すると、いろいろ落っことしているキケンが)、あらすじはおおよそ下のようなものです。

(1)高慢と現実

「わたしけっこうイケてんじゃないの!」
「玉の輿も夢じゃないわ!」
若い頃はチヤホヤされてた女性が主人公。
でも現実はそう上手くはいかないようで。
ウダツのあがらん役人と結婚して不満の日々。
「こんなハズじゃなかったのに」

(2)一夜の夢 

ある日、夫がダンスパーティの招待状を持ってくる。
夫「こういうの好きだろ、いっしょに行こう」
妻「着ていく服もないじゃないの!」

夫はなんとか衣装を工面する。

夫「ほら、これなら恥ずかしくないだろう?」
妻「首飾りがないとイヤッッ」

近所のマダムから首飾りを借りてくる。
満悦の妻。

喜び勇んで夜会に出かける妻。
夢のような一夜。
かつてのように男たちに讃えられ、
「わたしもやっぱり捨てたもんじゃないのよ!」

(3)一転、絶望が始まる

妻「やばい!首飾り、どっかに落としちゃった!」
必死で探す夫妻。でも見つからない。
なくした、とは近所のマダムに言えない。
だから借金して同じような首飾りを買い求め、
マダムに「返却」するのである。

そこからはツメに火を灯す生活である。
ギリギリまで費用を切り詰め、ふたりして働けるだけ働く。
10年後、ついに借金を返し終えるときには、
妻はかつての美貌とは程遠い、
くたびれ果てたルックスになってしまっているのである。

(4)あまりに無慈悲なオチ

ある日、妻は例のマダムにばったり出会う。
「じつはあの首飾り、別のものなのよ」
と告白する。そろそろ時効だ、と思って。

「えッ」
驚くマダム。
「あの首飾り、偽物の、安物だったのよ...」
ちゃんちゃん♪(ちなみに夏目漱石はこのオチを「胸糞ッ」と断じている)

さて、以下より感想を述べていきます。

権利と義務のバランスについて

ノブレス・オブリージュ(貴族の義務)という言葉があります。
一見、華やかな貴族階級には、
「その(めぐまれた)立場だからこその責任」が大きいとする考え方です。
だからこそ寄付や社会貢献、ときには大きな自己犠牲などを、
儀礼的・慣習的なレベルで「義務化」していたのです。

うえはヨーロッパ的な文化ですが(『首飾り』の舞台はパリ近辺)、
洋の東西は問わず、このような「バランス機能」は文化としてあるようです。
(サム・ライミ監督『スパイダーマン』より。ベンおじさんの名言
「大いなる力には大いなる責任が伴う」を彷彿します)

人間に限らず「社会的な動物」は群れの危機にボスが命がけで闘う、
という制度があるように。
ようするに「トレードオフ(何かを得れば何かを失う)」
「ギブアンドテイク」を「集団」としては本能的に心地よく感じるのでしょう。
「義務の放棄」「傲慢な態度」が嫌われる、というのは感情的でもあり、
しかし、遺伝子レベルでの当然の態度ともとれるのではないでしょうか。

『首飾り』の女主人公はこのバランスが理解できていない。
「美しい」という先天的なアドバンテージだけで、
「華やかな生活」をも天与の権利だと勘違いしている。

このバランス感覚の乏しさは、
普遍的な「愚かさ」と断じて良いのではないでしょうか。

大胆な文学的仮説:「首飾りをなくす」のはメタファーではないか?

読書クラブの完全なる私見(今回は独身男ふたりの会でした...)は、
『首飾り』の「女主人公の変化」に既視感を感じたのです。

女性がこのように変化するとき、それは子どもが生まれたとき、
ではないでしょうか?

すなわち「首飾りをなくす」ということは、
高慢ちきな女性が「子育てで苦労して」まるくなる、
という現象のメタファーなのではないか、と。

まあ、解釈は自由ですね。
こうやって勝手な仮説をたてて分析するのも、
文学ならび芸術作品の「クリエイティブな楽しみかた」
なような気もします。

以上、『首飾り』感想・まとめでした。
ちょっとセンシティブな散文が続きましたので、
次回は無骨に(?)新渡戸稲造『自由の真髄』をテキストにいたします。
ごきげんよう!

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