経験主義は犬に喰わせろ

わたしの友人たち、というか仲良くしていたコミュニティでは、
「旅好き」なのかあっちこっち出かけている人間が多いのですが、
不思議なほどに「旅行」について微に入り細にうがった話を聞くことは少ないのです。
旅をするために職を捨てるような人間ばかりにも関わらず。

世間では「土産話」という呼称があるほどなのですが、
「世間」そのものの変容で人間が露骨になった結果、
「他人の旅行話なんぞツマラン」と正直な空気が流れ始めた気がします。
これはもしかしたら、全体的なトレンドが変わりつつあるのかも、とも。

たとえば消費活動も「モノ」から「コト」へ。
ではその先はあるのか?
「本当に興味深い旅の土産話」について考えることで、
その答えに近づけるように思えるのです。

***

我がコミュニティにおける特殊性は
人間に対するその評価基準にあります。
「年齢」「職業」「資産」などは毛ほども尊重されず、
「おもしろいかどうか」のみが問われるのです。
その「おもしろさ」もいわゆる「キャラ立ち」などコミック的に消費されうるものは、
尊敬の対象とならず、「考え方に独自性があるかどうか」それのみを競い合うのです。
「実用性のありやなしや?」も考慮されません。
ですので、「経験」や「ソース(引用)」「誰と、何をしたか」は脇に置かれ、
独自の思想をその狭い「天下に発表」するのです。
これはこれで一種の「自由で知的な遊びの場」と呼んでもよいのではないかと思います。
少なくとも発言の平等は保障されている。

コミュニティのこの不文律は社会への反骨をはらむ、とすら考えられます。
コミュニティがいまのかたちを取り始めたのは、わたしを含め、多くの構成員が、
無職のときでした。
我らは夜な夜な福岡の片隅で安酒を喰らい、公園でフリスビーをしながら、
時間と無生産ながらに持て余したカロリーを浪費しておりました。
そのような温もりある積み重ねも、世間の「働け」のひとことで一蹴されてしまう。
議論をすればオトナ(まあ、わたしたちもいい年齢でしたが)は、
最後には「経験」で丸め込もうとする。
それに対する反抗が暗黙のルールを醸成したのです。
「経験主義クソくらえ」と。

そんな青臭さの発露たるわたしたちが旅行先でのありふれたエピソード(「ex.エッフェル塔は東京タワーよりも高く感じた」)をおおっぴらに語らないのは自然なことです。
コミュニティで喜ばれるのは、
ガイドブック的なものでは全然なく、かといってテレビ向けの奇譚でもなく、
むしろその辺に転がってそうな人間の下卑た姿の描写です。
なけなしのカネを出して(時間は有り余っていたとしても)、
ときには危険な思いもしながら、遠くの見知らぬ土地で、
わざわざそれを見出すことにウィットを感じるのです。
語り手はサービス精神で誇張や偽悪を織り交ぜ、むしろ旅先でも「素材づくり」なのかおおげさに自嘲的に振る舞うのです。
もはや、語られる「土産話」がほとんどフィクションだと言えるほどに。

我がコミュニティから未来の社会を見る。
多少強引な演繹を展開してみましょう。
将来的にはこのように社会的ステータスが「モノ」「コト」ではなく、
「ホラ話がうまいかどうか」に変わってくるような気がします。
それが良いことか悪いことかは置いておいても。

その愛すべきコミュニティもそれぞれが人生の岐路を向え、以前のように意味もなく集うこともなくなってしまいました。

非英雄的な小話を多く聞いたなかで、そろそろ時効だと思えるものを
少しずつ開陳していければと思っています。

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