自己防衛としての虚無

わたしたちは空気を感じることができる。
明るい空気。よどんだ空気。目には見えないのだが、敏感に察することができる。
この機能や感覚は、思い返せば幼いときから備わっていたようなのだが、
社会経験を積むに従ってより鋭敏になってきたようにも、
逆に鈍くなったようにも感じられるのだ。

EQ、共感能力という概念がある。他人の表情から感情を読み取ったり、状況に即した行動をしたりという力の基準であるようだ。(IQにも同様の感想を抱くのだが)これで知性や感性が測定できるのか、はなはだ怪しい。とはいえ「IQが高ければEQは低い傾向にある」という意見には妙に納得させられた。

「空気を読む能力」これはEQの範疇であろう。そもそも人間には、客観的データや言葉に助けられずとも、状況を判断する力が生来的に備わっているのではないだろうか。原始社会を想像してほしい。我らが人類の始祖は言葉を介さずに社会生活を営んできたのではないか(ここらへんの考え方は『サピエンス全史』とその続編『ホモ・デウス』に大きな示唆を受けた)

こう考えていくと、言葉や科学という道具を経て、人の空気を読む力は退化してきたのではないか。「勉強バカ」という言葉が成り立つのもこの所為だろう(一方で、語彙が思考や感性をつくる、という考えが言語学にある。悩ましいが、これは一旦すくない語彙を手にしたら、すべての表現や思索をその語彙に依存してしまう、というのがカラクリではないか。例。すべて「ヤバイ」で済ますということは思考が「ヤバイ」という抽象に支配されているということ)。

本来は縦横無尽、天真爛漫であるはずの人の感性。それを制限するのが、言葉や科学という枠なのではないか。つまり大義や理念によって、人間が共同できるというのも、言い換えれば、原初の動物性と人間性を殺すことにほかならないのではないか。しかし、いくら科学や社会が発達しようとも、私たちは多くの状況で「空気を読み」「空気に左右」される。

全体主義、ファシズムとは反ヒューマニズムの親玉のような印象を与える言葉だが、じっさいのところ実に人間という種族特有のイデオロギーであり、社会体制なのではないかと思える。すべてを同じ色に染めようというムード、反論異論を許さぬ気づまり。主義、ismと名のあるものの、その中身は空っぽなのである。内容はない。ただ、この空気に従えという空気。それが全体主義の正体である(ここらへんハンナ・アーレントに大きな示唆を受けた)。帝国主義、社会主義との相性がよいことは歴史が証明したが、じっさいのところ、資本主義でも平和主義でも菜食主義でもなんでもよい。じつに放埒で節操のないものだ全体主義というやつは。私たちは常にこれに取り巻かれている。家庭で職場で学校で地域社会で(あらためて社会に参加すること、働くことは人間の勉強になるものである)。

歴史的に見れば全体主義への対処のしかたとしてオススメなのは「闘わずに放っておくこと」であるという。システムの構成上、いずれ自壊するからだ。とはいえ、私たちは知っている。「敵」の攻撃力、吸引力、官僚体質的なしぶとさを。ただ身を潜めていれば安全だという保証はない。

ここで先日の読書会でも飛び出した「若者の反抗」というテーマに再びぶつかる。学生運動から暴走族、カラーギャングまで、昔の「ワル」には団結があった。今はどうだろう。もしかしたらネットの裏側で、知らないうちに何か着々と進行しているのかもしれない。私が時流に疎いだけかもしれない。しかし、縦だけでなく横、同世代間でも分断が起きているのではないか。そうなると反抗は内向を帯びる。かつての私のように。団結しない、しかし社会の空気に違和感を覚える人間はどうするか?どうやって闘いを挑もうとするのか?どうやって自分を保とうとするのか?

それは外見には「無気力」のかたちをとる。これは案外強力だ。社会をクールな視線で見つめ、「お前たちのやっていること、夢中になっていることに意味はない」と沈黙のうちに切り捨てる。虚無主義、ニヒリズムである。
世間を捨てた隠遁者を気取るが、往々にして悲劇的結末をたどる。人間、そんなに簡単に悟りに入れるものでも、社会性を捨てきれるものでもないのだ。「おれは負け犬ではない」「認められたい」「ナメる前にナメろ」という自我の暴走が起きる。それが周囲をくさす態度となって現れるのだ。最悪なのは、そして残念ながらよくあることとしては彼ら虚無主義者たちは周囲へ虚無を強いる。彼ら自身がファッショになるのだ。全体主義に対抗する小さなテロルは無辜の市民を巻き込まずにはおれない。周りのやる気を削ぎ、嫌われ、虚無をさらに深くするという負の螺旋構造。

私はしかし、かれら虚無を抱えるものを責める気にはなれない。大小は問わず壁(じっさいは空気だが)に挑んだものは傷つく。勝率はあまり高くないだろう。そもそも挑むことが得策ではないのだ。しかし、賢さと高潔さはまた別の問題である。見てみぬふりができなかった戦士を誰が咎めることができる?尚早とはいえ、彼らの勇気をあざ笑うことが正しいのだろうか?

私は曖昧でラディカルではない提案をしたいと思う。
それは休憩場所としての虚無主義である。呼び方は何でもよい。中継地点、サナトリウム、DMZ...。要は戦士にも休息の場が必要なのだ。迷ったり、心が折れたら、一旦銃を置け。思想も主義も宙ぶらりんにして、無為を過ごそう。惰眠、暴食、趣味、あらゆる怠惰、あるいは生産的なルーティーンへの逃避。思考の一時停止。虚無というのは毒である。撒き散らしてはいけない。万能薬たる時間によって、体内の毒を少しずつ中和させる。「大人」としてその際必要なのは「仮面」なのかもしれない。皮膚を「空気」にさらさず、安全地帯に寝っ転がる。青空を見上げる。空が赤く染まり、星が瞬くのを飽きずに眺めれば良い。平和。安穏。
 そうして幾日かを経る。自分のなかの秤に触ってみる。「平穏」と「退屈」の天秤。それが後者に傾いたとき。そこでまたシャバの空気を思いっきり吸い込むといい。また闘いを挑むか、一旦、冷静に「見」をするか。その時決めればよい。運がよければ風が変わっているかもしれない。

 無気力かつ反知性的なムード華やかなりしゼロ年代に生まれ育った身として、「同志」たちにはうまくやって欲しいと願うのです。あまり身を削りすぎることなく。

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