なぜ読書クラブは姿を消したか


A:主催が多忙のため
B:内紛
C:飽きた(オワコン化)

事実としては「C」が最も近い。
が、一言で終わらせるのも、38も回数を重ねた会合の消滅の説明としてはちょっぴり寂しい。
恣意的に考察を述べようと思う。真理とは常々、手短な言葉で語られるものだとしても。

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お気づきの方は(もしいたら嬉しい)第38回のクロポトキン「共産食堂」の感想が放ったらかしになっていることに不満を覚える(もしそうであれば幸甚である)かもしれない。
じつをいえば、わたしはこの100年ほど前に書かれた一篇のレポートと、それに続く読書会での議論によって、
思考の迷路から出られずにいる。
この問題を解決せずして、第38回の感想は書けない。あまりに不完全になってしまう。
テーゼのひとつに手をつけてみよう。
人は銭湯によって満足しうるか?
簡単に議論の経過を述べよう。
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・今昔のパリにおいて「誰でも無料で食事ができるレストラン」の試みが行われた。

・過去においては「相互扶助の精神」、現在は「人間の尊厳の保持」。いずれも資本主義のルールによらないヒューマニズムに基づく。

・その本質は、「人間はイコールな存在である」という前提だ。

・では銭湯はどうか。安い価格でフラットな存在になれる場所ではないか。
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ここにいたり『浪曲銭湯道場唄』なる名曲があることも知り、
「銭湯ってすげーじゃん!」と興奮と感動のうちに読書会を終えたのであるが、
心のどこかに引っかかりを覚え、しばらく感想を書けずにいた。

銭湯。たしかに素晴らしい文化だ。長崎に住んでいた頃、オランダ坂近くの銭湯に立ち寄った。常連らしい年配客がふたり。湯船に浸かる前に徹底的に身を清める。その凛々しい背中に共同湯の神聖を見た心地がしたものだ。もし、年の頃10ほどの少年に世の中を見せたいと願うのであれば。500円ほど持たせて、銭湯に行かせてみればよかろう。そこで人生の先達の敬虔に打たれ、甘やかな子ども時代に別れを告げる支度をはじめるにちがいない(つまり、わたしはその洗礼が10年ほど遅れた計算になる)。

と、上記はわたしが銭湯の信奉者であり、けっして無闇矢鱈に銭湯にケチをつけたいがためのアンチテーゼではないということの宣言である(長崎の思い出にかけて誓おう)。

以下のアンチテーゼの父は新渡戸稲造『自由の真髄』であり、ママンはハンナ・アーレント『人間の条件』であるといえよう。やや、カカア天下の色が強いが、下の図を見てほしい。

画像1

アーレントは古代ギリシャ時代において、人間(まあ、一部だけを指したのであるが...)は「私的領域」と「公的領域」を有していたと説く。ざっくり言うと、プライベートな領域は無茶苦茶しても誰に咎められず、価値ある人間かどうかは公的領域、すなわち政治の場における勝負だったのだそうだ。その勝負のルールは、「卓越せよ」すなわち、自分がイケてる人間であることを存分にアピールしろ、である。
 しかし、時代を経るにつれ、私的領域と公的領域が消滅し、人間は「社会」に取り込まれていく。社会におけるルールは「同質化せよ」である。
 図は共同体(コミュニティ)分析のマトリクスである。

・上方に公的領域的、つまり卓越が拍手喝采されるコミュニティを、
・下方に社会的な同質化のプレッシャーを受けるコミュニティ、
・左にいくほど誰でも入れる、右に向かえば条件が厳しくなる とする。

ちなみに図上に私的領域がないのは

・ふたり以上の人間がいてコミュニティが成立する、とし、
・ふたり以上の人間がいれば「政治」が働くという前提に立つ

からである。

この図から言えることを、足早に述べると

・上に向かうほど、個人のアイデンティティ及び承認欲求の満たされやすいコミュニティである。
・底辺に属するのは、皆兵制の軍隊や崩壊した学級やブラック企業だが、そのコミュニティから右上に抜け出すための方策は「専門化」である。
・理想的な友情(や愛情)は上方に位置する(たぶん友情とはアナーキーなものだ)。

となると、銭湯は左下に位置することになるだろう。そのため、銭湯に通っていても、それだけでは精神的に充足ができない、と考える。

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最後に、読書クラブが休みになってからも、わたしは相変わらずから揚げ屋に足繁く通っている。会合のルールも、テーマもいまはない。気軽に集って、しゃべるだけだ。
ここでルール無用の弊害をひとつ。ここ最近を振り返ると、会話の内容が下世話(それも大変物理的な意味において)になってきている。青少年もいるなかで、不穏当だ。この場で陳謝・反省申し上げる。だが一応言い訳をさせていただくと、たとえすべての人間が生まれながらに「善」であるとしても、きっとすべてのルールが悪ではないはずだ。ルールのないゲームやスポーツが成立するだろうか?遊びの面白さとは線を規定することからはじまる。これはアナキズムへの反論である。人はルールを自ら求める。同時に「読書クラブ」という規定がなければシモに流れるはコレ自然の摂理であろう。男子三人寄らば、ロクな話はしないものだ。なにか本末転倒の感もあるが、コミュニティのために、何かしらのテーゼがあるとよいのだろうか...。

以上、不完全であるが、第38回の感想の代わりとする。

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読書クラブはおやすみといえど、短文精読の真剣勝負は思考を磨くにうってつけのため、
ひとり黙々と継続している。特に面白いものがあればnoteに更新する予定。
では、皆々様、再見!

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