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現代語訳 樋口一葉日記 3 (M24.6.11~M24.6.24)◎海難事故、桃水訪問と失望、結髪、迷夢か悟道か

(明治24年)6月11日 今日も空が曇る。入梅(※梅雨入り)と言っていたので、もっとも(な天気)だ。今日の新聞に、小舟町(こぶなちょう)二丁目石崎廻漕店(※かいそうてん/廻船問屋。海運取次業者のこと)所有の汽船、石崎丸が小樽より東京へ向けて出帆し、四日の夜であろう、銚子の沖合にさしかかった時に、どうしてそうなったか、もろくも沈没して、乗組員五十余名全員溺死したとかいうことだ。ならびに五日の朝、銚子の浜辺に一片の救命標(ブイ)が流れ着いたことにより、ようやく人の知るところとなり、まもなく、死体や小荷物などが折々漂着してきた(とのことだ)。それにしても、何故、このような難破船があったことを、灯台局はもとより(他に)知る者が誰もいなかったのか、という(疑問だ)が、(そもそも)救命の汽笛が灯台局に届かなかったところをみると、沈没があったのは海辺から離れること三里(※約12Km)以上の沖合だったのだろうということだ。大方、犬吠埼(いぬぼうざき)の西南長崎浦(ながさきのうら)の前あたりではなかろうか。このあたりは暗礁が多い所であるからだ。確かに、当夜は東の風が強く吹き荒れ,、波は高く、とりわけ濃い靄(もや)さえ(出て)海面を(覆い)閉じ込めていた夜であったとか。とにもかくにも涙ぐまれる話であることだ。
(明治24年)6月13日 今日は小石川の稽古である。朝七時頃より行く。師は今しがた起き出されたところであった。みの子さん(※田中みの子)から乙骨まき子さん(おつこつまきこ※漢学者乙骨耐軒(おつこつたいけん)の孫娘。先述田辺龍子の親友)の手紙をもらう。石田農商務次官の紹介で、大島みどりさん(※東京地方裁判所長の娘)が(萩の舎に)入門する。伊東夏子(※先述。一葉の親友)さんから依田学海さん(よだがっかい※漢学者、文芸評論家、作家で、森鷗外の漢文の師)著作の『十津川』(とつがわ※小説)の物語を少し聞く。(塾の)人々が帰りなさったあと、いつも通り、みの子さんと二人で習字をする。帰宅の時、師の君より四つ入れ(※織り方の種類)反物を一反頂戴する。
(明治24年)6月14日 雨天。今日はみの子さん(※田中みの子)とともに図書館へ行く約束であったが、差し障ることがあって行けなくなったので、はがきを出してその旨知らせる。国子(※一葉の妹、邦子。)が関場(※関場悦子。邦子の友人)さんの所へ行って書物などを少し借りて来た中に、学海居士(※依田学海のこと。居士(こじ)は徳や学問があって官に仕えず民間にある人を言った。)の『十津川』もあった。昨日うわさを聞いて、ひそかに欽慕(※きんぼ/尊敬して慕う意)していたのに、はからずも(その本に)出会う機会を得たのは大変嬉しかった。
(明治24年)6月15日 まき子さん(※乙骨まき子)への返事を出す。昼過ぎから秀太郎(※久保木秀太郎(ひでたろう)。当時小学生。秀太郎の母ふじは一葉の姉。よって秀太郎は一葉の甥っ子にあたる。ここで一葉の家族を整理しておきたい。1857年、一葉の父則義と母たきの間に最初に生まれた子供が長姉のふじであった。次いで1864年長兄泉太郎が、1866年次兄虎之助が誕生(このあと1869年に三兄大作が生まれたが夭折した)。そして一葉こと夏子が1872年に、一葉の妹邦子が1874年に生まれる。長女ふじは17歳で一度結婚するも破綻、4年後に久保木長十郎と再婚。秀太郎は長十郎とふじの間の子である。ふじと一葉は15歳離れている。長兄泉太郎は1887年(一葉15歳)に肺結核により23歳で死去、父則義は1889年(一葉17歳)に58歳で死去している。次兄虎之助は素行が悪く、1881年に15歳で樋口家から分籍され陶工の年季奉公に出されている。長兄の死後次兄の彼でなく一葉が樋口家の戸主に指名された所以である。ちなみに一葉が歌塾萩の舎に入塾したのは父則義存命中の1886年(明治19年)で、一葉14歳の時である。明治24年(1891)時点でのそれぞれの年齢は、母たき57歳、姉ふじ34歳、兄虎之助25歳、一葉19歳、妹邦子17歳である。)が来る。今日も一日中雨天であった。半井先生を訪問する心組みであったけれど、急に気分がすぐれなくなったので、やめにした。
(明治24年)6月16日 朝から雨天。早朝、三田(※地名)の兄上(※虎之助)より手紙が来る。昼過ぎ秀太郎が遊びに来る。日没後、半井先生より手紙が来る。「お話したいことがあるので、明日か明後日来られたい」とのことであった。いつものように小説の事であろうと思うのだが、胸がどきどきする心地がする。何となく気にかかって、一晩中眠れもしない。夜通し大雨であった。
(明治24年)6月17日 明け方早くは、まだ夜のなごりの雨雲が空を覆っていて、晴れそうな様子は全く見えなかったが、昼頃よりは少し雲の絶え間があるようになった。「さあ今日こそは半井先生を訪問するのだ」と思って、急いで支度をして、午後二時頃より(家を)出ようとする折に、奥田の老人(※奥田栄。未亡人。一葉の父則義が生前荷車請負の事業を立ち上げようとした際、この人が多額の資金を貸し、一葉らは父の死後もその返済を続けていた。)が来る。「それではご一緒に」と家を出る。奥田の嫗(※おうな/老女)とは真砂町(※地名/まさごちょう)で別れた。向こうの家に近くなるほど、ここかしこに軒提灯(※のきぢょうちん/家の軒下につるす提灯)がすきまもなくかけ連なっているのは、今日は日枝(ひえ)神社の祭礼なのだろう。「おお、気が付きもしないで」と思った。まもなく、いつものように(半井先生宅を)訪問すると、下女が出てきた。導かれるままいつもの座敷に参り上って、「(先生の)お帰りはまだですか。」と尋ねると、(下女は)少しいぶかしげな顔つきをして、「あなた様は今日郵便を(こちらに)お送りしていらっしゃらなかったのですか。」と言う。「いやいや、私よりはお送りしていません。昨日先生からお手紙があって、『今日あたり来なさい』との仰せであったから(参ったの)です。」と答えると、「それならすぐにお帰りになるでしょう。今朝家をお出になる時に、『今日は会議があるはずなので、帰りはいつもより遅いだろう』などとおっしゃっておられたのです。」と言うので、「それなら今しばらく(私をここに)置かせてくださいな。それでもお帰りにならなかったら、また(あらためて)参ります。」などと話している折に、こう子(※桃水の妹、幸)さんが帰ってこられた。たわいもないことを言いかわしているうちに、五時を過ぎた。「(今日先生は)本当にお帰りにならないのではないだろうか。それなら日が暮れないうちにお暇申そう」と思っていると(その時には)、いつものように夕餉のごちそうを準備されていらっしゃった。お断りするわけにもいかなくて、しばしごちそうにあずかって、(その食事が)終わった頃に先生はお帰りになった。お話は大変多かった。小宮山(※前述即真居士)さんの深いご配慮、いつもの先生の情け深さなど、まったくありがたいことである。だけれども、(何を言われたかをここに)筆にまかせて書き記すにしても、一つには私自身、気が重いこともあり、(言われたことを)ちゃんと出来るのかどうか、今は考えて判断することができないので、これは、いつのまにか、長い年月を経たあとの昔話にでもなったら大変うれしいということで、今は書きもらしておこう(※書かずにおこう、という意)。(※桃水と小宮山は一葉の小説の新聞掲載をはかったが駄目だったらしい。そこで桃水は一葉が書いた小説は新聞小説には向かない、その為には全面的な書き直しが必要だと厳しい話をしたものと推測される。小説ですぐにも生活の活路を開きたかった一葉にとっては過酷な現実であっただろう。)暇乞いをして(家を)出ると、日はだんだん西に傾く頃であった。今日は道を変えて湟端(※ほりばた/皇居の裏側の濠沿い)を帰る。夕風が少し冷ややかに吹いて、御濠の水の面は薄暗く、枝を垂らしている松の姿は、伏していたり起きていたりとさまざまで、いずれも千年(の命)をひそませぬものはなく、「『老いてますますさかんなり』(※ことわざ/年をとっても衰えることなく、ますます意気盛んであるべきだということ)などというのは、このようなものを言うのだろうか」などと思われる。振り返れば、西の山の端(※やまのは/山の空に接する部分)に日が入って、赤い雲の色の「旗手」(※はたて/雲が旗のようにたなびくさま。また、果ての意もある。)などと言うのだろうか、細く棚引いている様もしみじみと風情がある。行き交う人がないのではないが、市路(※いちじ/市(いち/人が集まり物を売買するところ)にある道)ではないので、大変もの寂しい。堤の柳が糸長く垂れてなびくのは、人もこのように世間の風に従えと(でも)いうのだろうか、とてもいとわしい。それに引きかえ、松(風)の響きのどうどうと鳴るのは、高く潔い操(※みさお/固く守って変わらない志の意)(へ)の導きと感じられて、沈んでいた心も引き起こされる(思いがする)。(よく和歌で詠まれる)「秋の夕暮れ」(の寂しさ)ではないが、思い悩むことある身には、見るもの聞くもの(につけて)はらわたを断たぬものはなく(※腸を断つ/悲痛な思いに耐えられないさま)、ともすれば、自分の身をさえ(この世から)なくなるようにしたかったけれど、親兄妹などのことに思いが到ると、わが身一つ(のこと)ではないのだと、思い返さなければならなかった。(※一葉が思い詰めて自殺まで考えていたと思われる場面。本人が「書き漏らす」ことにしたので具体的に何があったのかは分からないが、少なくともそれほどのショックを受けていたことが分かる。前述の推測を生む所以である。)歩むともなく歩いていると、いつしか九段坂上(※地名/くだんざかうえ)にまで来ていた。ここからは大層にぎやかで馬車などの音が絶えず(響いて)、用心しないと足元なども(ふらふらと)危なっかしい(自分の有様だ)。さらに思い悩み続けてうつむきがちに行く(自分の)様子は、どんなにか普通ではなかったことだろう。道行く人が(私の)顔をのぞき見るようにするのも、とても恥ずかしくきまりが悪いのだが、そうも見えまいと思っていたけれど、やはり自然と(その時の悩む心が)顔色に出ていたのであろう。家に帰ったのは、暗くなってからであった。
(明治24年)6月18日 朝から晴れである。めったにないことで嬉しい。人から茄子(なす)の若々しい苗をもらって、母上が植えた。
(明治24年)6月19日 今日も晴れである。朝早く庭先の梅の実を落とす。味噌漉(みそこ)しの笊(ざる)一つ分あった。都合悪く虫食いになっているものなどもあるので、正味はそれよりは少ないだろう。これは先日、ここの家の差配(※さはい/持主にかわって貸家を管理する人。管理人。)が、大方落として持って行ったからであろうか。「残らず取れば、二舛(ふたます)余りはあるだろう」などと言う。昼過ぎから今日も図書館へ行く。先日の約束もあったので、みの子さん(※田中みの子)を誘ったところ、彼女は待ち迎えて、「一緒に(行くわ)」とおっしゃった。六時頃まで(書物を)見て帰る。
(明治24年)6月20日 朝、戸を開けてみると、空は(一面に)残りなく曇っていて、今にも雨が降り出しそうな様子である。「ああ、いやだな。今日は(萩の舎の)稽古日なのに。」とため息をついた。しばらくすると雨が降り出した。家を出る頃には、ますます降りに降る。それだからだろうか、(塾に)お越しなさる人も少なかった。師の君(※中島歌子)は、昨日から並々でないほど気分がお悪くいらっしゃるとのことだ。いつも過度に頭をお使いになられるからであろう。「それでは、今日は静かにお休みになられた方がよろしいでしょう」と言って、(塾生の)人々をみの子さん(※田中みの子)と自分とでお預かりして、稽古などをした。(※一葉は萩の舎では田辺龍子、伊東夏子とともに三才媛と呼ばれ、師の代理が出来るほど優秀であった。)昼頃から日の光がようやく見え始めて、帰りはとてもよく晴れた。今日は、はじめて川越(※地名)の中島さん(※中島歌子の兄)の奥様にお会い申し上げた。(そこで)「動物詠史」(※どうぶつえいし/歴史や物語に登場する動物を題にして和歌を詠んだもの)という不思議な言葉を聞いたのも面白かった。
 結髪(ゆいがみ、けっぱつ)の歴史のようなお話もあった。近いところでは、
 いちょう(銀杏)まげ  わりからこ(割唐子) ちご(稚児)まげ かつらしたじ(※それぞれ結髪の名称。江戸時代から明治初期まではやったものらしい) 今も稀には結う人あり。

 (他に、)島田くずし かたはずし 茶せん
この中には今も結う髷(まげ)もある。だけど、今は大方、

 いちょうがえし(銀杏返し) 
 これは、大人でも子供でも結う、結び髪というものであろう。儀式の折などには結わぬ髪である。

 とう人髷(とうじんまげ)
 これは十歳くらいから十四、五歳まで結う髷(まげ)である。しかし稀には、十九、二十歳くらいで結う人もあるが、皆高貴なお嬢様だけである。

 高島田(たかしまだ)
 これはこの頃の流行であるようだ。十六、七歳より二十四、五歳までで、島田と言えば大方これである。芸者のような者さえこの頃はこればかりである。

 桃わりいちょう  
 品のよい髷(まげ)で、一時大変流行して、東京中の女という女、結わぬ者はいなかったが、しばらくしてすたれてしまった。

 ばちがたしま田
 芸者などの年若くない者が結う(髷である)。素人(芸者でない普通の人)でも、少し年をとって結うものだ。全く品はよろしくない。意気(粋)という感じの方(の型)であろうか。三十歳くらいの芸者、いわゆる「姉さん」株は、大方これである。

 お初丸髷(おはつまるまげ)
 島田から丸髷(まるまげ)に移る時に、この髷(まげ)は本当によく似合う。人の好みではあるが、赤いきれをかけるのも可愛い。

 束髪(※そくはつ/明治半ば頃から流行した女性の髪形で、西洋風に髪を束ねる結い方)は、前髪を切って眉の上まで下げた子供などの、まだ長くない髪を、赤いきれで結い下げたのがこよなく美しい(ように思われる)。
(明治24年)6月21日 終日雨が降る。その夜十一時頃大きな雷。後から聞けば、浅草久右衛門町(※地名/あさくさきゅうえもんちょう)に落ちたとか。
(明治24年)6月22日 晴れ。昼過ぎより、師の君(※中島歌子)のご様子を見るため、小石川へ行く。師と共に中村さん(※中村礼子。前述明治24年6月9日に、各評を送った名古屋の礼子さん。家は東京にあった。名古屋というのは旅先かと思われる。)の家に(礼子さんに)会いに行く。礼子さんは明日東京にお帰りになられるそうだ。今日は国子(※邦子。一葉の妹。)の誕生日(※邦子は明治7年6月22日生まれ)である。少しばかりお祝いなどをする。
(明治24年)6月23日 晴れ。早朝より灸治療に行き、図書館へ行く。弁当などを用意して行って、午後二時に帰る。西村さん(※西村釧之助/にしむらせんのすけ/安政4年(1857)一葉の母たきは、妊娠8か月の身重のまま、夫則義と山梨県から駆け落ち同然で江戸にのぼった。則義の祖父の知己であった真下専之丞(ましもせんのじょう)を頼ったのである。真下は二人を助け、則義に仕事を与えた。たきは無事そこで長女のふじを出産したが、すぐにふじを里子に出し、旗本稲葉家の養女、鉱(こう)の乳母奉公に出る。その乳母奉公の際、稲葉家の奥女中をしていた太田ふさ(結婚後、西村きく)の息子が西村釧之助。樋口家と西村家は親戚同様に付き合っていた。元々農民であった則義は働いて金を貯め、才覚を働かせ、慶応3年(1867)、御家人の株を買い、正式な武士となった。そこからすぐに明治と世は変わったが、樋口家は士族である。明治5年(1872)生まれの一葉はだから歴とした士族として育てられた。則義が倒れるまで、樋口家は上流家庭とは言わないまでも十分に裕福であった。その後長男の泉太郎が結核に冒され相当の金がかかり、さらに則義が事業の立ち上げに失敗、泉太郎と則義亡き後は大きな借金だけが残り、樋口家は生活に困窮、大きな貧に転落していた。)がいらっしゃる。
(明治24年)6月24日

究竟(※くきょう/最高の悟りの意)は理即(※りそく/※天台宗の教えで、悟りに至るまでの6段階の最初の段階。まだ仏の教えを知らぬ迷いの段階)に等しい(※吉田兼好「徒然草」217段の一節にある。悟りと迷いは等しいという意味。)と聞く。(私が)入ろうとした昔の迷いと、(それが)覚め果てた後の悟りと、それらは大方は似ているのだろう。(※小説を書いて生計を立てるという夢、迷いは、そもそもその欲望がなければ、無理だと知った現在の悟りに等しいということ)この「若葉かげ」(この日記の冊子の題)、それも迷夢のはじまりか、悟道(※仏法の真理を悟ること)への道しるべ(となるもの)か。(私という)木が枯れたあとに見る人があればと思って、(一句詠んでみよう。)
 なほしげれくらくなるとも一木立(ひとこだち)

 ※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(小学館)



 

 



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