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臼子城 奥平氏暗躍の舞台

臼子城と聞いて「ああ!あの!」という人は、ほぼいない。(と、思う。)
愛知県『中世城館跡調査報告Ⅲ(東三河地区)』(1997年 愛知県教育委員会)の臼子城の概要欄には、あっけない記述があるのみ
城主には「佐宗大膳、同勝重、同重昌」とありますが、これも
誰?
となる方が記載。
佐宗家といえば、代々作手村の村長を出してきた家柄として地元では有名な一族ですから、きっとこのご先祖なのでは、と、推察されます。が、戦国時代の佐宗大膳は、この記述で初めて知りました。
作手へと登る道の平野部側の入口が臼子、という関係。(三河カントリークラブの辺りに臼子城。作手はつくで手作り村や古宮城のある辺り。)

三河カントリークラブの辺りに臼子城はあります。

新城市史の記載量も少なく、愛知県の報告書でも淡白な縄張図となっているので、さほど期待せず行ってみました。

国道301号から望む。入口に旗が立ってて判りやすい。

時刻は逢魔時。隙間時間を縫って日暮れ前にささっと見て帰ろうと思ったのですが、これが、なかなかどうして・・・。

おお!

結構な高低差。

やはり人工的な土の形状を見ると血湧き肉躍るというのが城好きの性
夕暮れ時のちょっとした散歩気分が吹き飛ぶ。
吹き飛んだのは気分だけでなく、心拍数的にも影響があったのは否めない。

坂がヤバい。

角度急!こんなに急だと攻めにくいじゃないか!
そりゃ城だからねぇ。

と、勝手に始まる脳内会話。ひょっとして独り言として口をついて出ていたかも知れない。側から見れば変質者。でも誰も居ないから別に良い。
が、その先に進み凍りつく。

突然のお墓!

いきなりのお墓。ガチ墓が一杯。前回の笠頭山といい、他人の墓荒らしのような状況になってしまう。速攻念仏を唱え見学させていただくことの許しを乞う。
帰宅後、城館調査報告の概要欄をよく読むと
頂部は現在墓地となるが、位置・規模から櫓台が想定される。」
とある。
縄張図だけささっと見て出ていったので、現在墓地になっている情報が欠落てました。よく小学校時代、問題文を読みなさいと言われ、そして今、息子に同じことを言っている身でありながら、文章をよく読んでなかったことを反省させられる秋の夕暮れ。

土塁?

こんな土塁状の形状も発見し、お墓の中で意気が揚がる。
櫓台と言われる部分も結構広いが、そこから下を見下ろすと、これまた壮観。

広い。

広い。
だいぶ藪があるので、ここを突き進むか悩む。が、思ったよりも広いので探索したい誘惑に負ける。そうすると、あちこちに高低差が見られ、曲輪を区切っていたり、腰曲輪があったりとなかなかの城。
どうやら国道301号から墓へ直登するルートは墓参り用に取り付けられたようで、そのまま直進するのが本来のルートの様子。草が生い茂って進めませんでしたが。櫓台、曲輪の下を進むと国道301号の反対に虎口のようなものがある。

写真ではわからない問題が発生。手前の木が邪魔だが虎口っぽい。

そして、曲輪の真ん中に井戸発見。

井戸!

「井戸だ!」
と、思わず叫ぶと、
「こんにちは」
と、声が。
腰を抜かす程驚いたら、そこに人が。いないと思った筈なのに、見学者が自分以外に居た!鼻歌歌っていたら、階段下に人がいた、という気まずさを感じる。

櫓台から声を掛けられ驚愕。

と、この臼子城。結構見応えがありました。武田系の洗礼を受けた複雑超絶技巧の縄張ではありませんが、高低差を活かした縄張で規模も大きく見て回ると楽しい城です。

ところで、この城について「千郷村史」(平成6年3月 千郷村史研究会『復刻 千郷村史 上』1138〜1140ページ)に詳しい記載があり、早速コピーを取ってきました。
「永正2年築城。同3年菅沼定則が富永氏に代わって野田城に入ろうとするに先だち作手亀山城主奥平貞昌と協定して当地に砦を設け、亀山城の配下たらしむこととなし築城したのである。城成るに及んで城代として奥平の家臣佐宗大膳が住し、後佐宗勝重が相続した。」
と、あります。

おや?

武田軍の洪水の中に浮かぶ孤城野田城に籠城していた菅沼定盈、救援に来たと思ったら「ごめん無理!」と帰ってしまった徳川家康の馬印を眺めるしかなかった菅沼定盈、のお祖父ちゃん定則が、野田菅沼氏を開く際の話で自分が知らなかったことがなかったことが書いてある。
室町初期に豊川市から新城市辺りを治めていた富永氏は、室町末期には領地を蚕食されてしまい、とうとう当主が乱心自刃してしまい、田峯の菅沼氏から定則を迎え、野田菅沼氏が成立した、という経緯があります。この際に、作手の奥平氏も共同歩調を取っていた、ということが、臼子城の記述からはうかがえます。

富永氏の滅亡には前々から興味を持っており、描かれていることが勝者菅沼氏側の記述であることから、富永氏当主が乱心自刃とされてますが、どうにも薄暗さを感じてしまい、何かある、と、思っていたのですが、千郷村史の記述で富永氏は自滅ではなく、地元の領主たちに滅ぼされた下剋上、と、見て良いと思います

また、この後、菅沼氏は内部分裂して争い宗家が滅ぼされますが、その際にもこの臼子城は関係します。

「天文四年四月二十日奥平貞昌は卒去し貞勝の代となり、安祥の松平廣忠に属し、同六年九月二十一日一族の石橋弾正を討ち取った。その後今川方に属した。天文十四年平井大谷城主菅沼定継が岡崎の松平廣忠に属し、当城を攻むるにあたって勝重これを防戦するも遂に敵わず、菅沼氏の有となった。」

と、あります。
ふーむ。
奥平は今川、松平を行ったり来たりして戦国の世を生き延びますが、臼子は作手から新城を経由し、豊橋や浜松へ通じる道の出入り口新城に菅沼氏が存在しているため、菅沼氏が奥平氏と共同歩調を取るか、そうでないかは大きな影響を与えます

戦国時代、奥三河で暗躍する奥平氏
どうやら来年2023年の大河ドラマでも、それなりに取り上げられるらしい、ということを、小和田静大名誉教授が東栄町で講演した際に匂わせていました。
臼子城は、奥平暗躍の鍵になりそうな城です。

臼子城
〒441-1352  愛知県新城市豊栄1232(臼子公民館)
国道301号で作手へ上がる際に旗が見えます。
三河カントリークラブを目指してくるとわかりやすいでしょう。

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