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視点を変える

登場人物の視点が切り替わる小説を立て続けに二冊読んだ。複数の登場人物の視点によって紡がれる物語。

現実世界で認識できるのは自分の視点だけで、他者の視点は想像で補うしかない。そういう意味では、現実の人生のほうが平面的で、今回読んだタイプの小説世界のほうが立体的で重層的であるように錯覚してしまうこともなきにしもあらず。

寺地はるなさんの小説を初めて読んだ。

Instagramの読書系アカウントに感想をアップしている人が多くて、以前から気になっていた作家さん。特定の作品ではなくいろいろな作品が紹介されているので、固定のファンが多いのだろうと予想していた。この人が書いているから読もうと思わせる、そういう文章を書く人なのだろうと。

初めて読んだ感想は、なんか良いな、という感じ。他の作品も読むだろうな、という予感。

他人をうらやんだり、嫉妬したり、逆に憐れんでみたり。どうして自分は彼らではなく、自分でしかありえないのか。思春期に誰もがぶつかる壁についての物語。目の前に立ちはだかる壁は、きっと一人一人みんな違うのだろう。高さも、色も、手触りも。

言葉はいっぺん相手にぶつけてしまったら、もう取り消すことなんかぜったいにできないんだから。
言葉にするとすごいうさんくさい感じになるけど、たくさんお賽銭をするより、熱心にお参りするより、日常をよりよく生きることこそが『祈り』だと思うとよ。

自分は自分のままで生きていくしかない。だから、なりたい自分になるために日々もがいて努力する。その努力こそが「祈り」であり、祈りは未来の自分にきっと届く。

この作品は四人の視点で描かれていたが、次に読んだ作品は十人以上の視点から構成されていてより重層的だ。一気に読んでしまわないと誰が誰だか分からなくなるかも。

脱獄犯が近所にいるかもしれないというニュースによって、とある住宅地の人々の生活に波紋が広がっていく。隠れていたものが浮き彫りになり、停滞していたものが動き出す。

津村記久子さんが書く普通の人たちの話が好きだ。

今回の話は、狭い一角に問題を抱えている人が集まりすぎている気もするけれど、現実も案外そんなものかもしれない。見えないだけ、もしくは見せないだけで。

私自身も同じような住宅地に住んでいるので面白く読めた。戸建ての住宅地というのは、集合住宅とはまた違う雰囲気がある。家同士の距離は近いけれど、建物として独立しているという安心感から油断が生まれるのだろうか。集合住宅よりも、他人の家庭の生活がはっきりと見える。良くも悪くも。

千里はときどき、母親は普通の人の半分ぐらいの濃度で生きてるんじゃないかと思う。精神的に。
行きかう者のない住宅地の歩道で、昭子は自分の中の何割かの部分が降伏するのを感じた。どれだけもがいても、運命は結局、思いもよらないものを差し向けてきて判断を迫る。

ラストのタイトル回収シーンが好き。少し意味は違うかもしれないけれど、「大団円」という言葉が浮かんだ。彼らの生活はこれからも続いていく。

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