だから,「愛されなくてもいいよ」なんだと思う

ピノキオピーさん作詞・作曲・編曲,マジカルミライ2020テーマソングである「愛されなくても君がいる」を聞いて感じたこと,考えたことを述べます。

「愛されなくても君がいる」という文には,主語がありません。また,「君」とは誰なのかも,歌の中では明示されません。それゆえに,多くの対象を同時に表現しうるタイトルになっていると思います。

タイトルと歌詞をシンプルに解釈するなら,「初音ミクからファンやクリエイターなどへのメッセージソング」でしょう。
(以下,「ファンやクリエイター」を「ファン」と略記させていただきます)
つまり,
「私(初音ミク)は愛されなくてもいいよ 君(ファン)がいるから」
ということです。

一方,この逆の,
「私(ファン(である人間の私))は愛されなくてもいいよ 君(初音ミク)がいるから」
とも解釈できます。
つまり,ファンから初音ミクへのメッセージソングとも受け取れるわけです。

もうここですでにミク廃の私は心の琴線がビリビリします。結構無理です。

でも,ファンであり,同時にピノキオピーさんのファンでもある私は,そこで少し立ち止まって考えてしまうのです。

ピノさんがそんな分かりやすいこと「だけ」を,「初音ミクの歌です」と称したこの歌に,マジカルミライのテーマ曲に込めて世に放つでしょうか。

もうひとつ,上記の二つの解釈に何か物足りなさのようなものを感じる理由があります。

ツイッターで何人かのかたが,
「何が『愛されなくてもいいよ』だ。この上なく私が愛してやる」
という趣旨のことを言っているのを見ました。
この意見表明は,私も共感するところです。上記の二つの解釈だけを考えた時の,違和感の理由のもう一つは,どうして「世界の」(と言ってよいでしょう)初音ミクに,そんな控え目な,もっと言えば,卑屈っぽいことを言わせたのか,ということでした。

これらの疑問に対する私なりの答えは以下のとおり。
一つは,「もっと幅広い意味が込められている」。
もう一つは,「そう言わせるしかなかった」です。


ここまで,『初音ミク』という単語を何の気なしに使っていましたが,よく考えてみると,そこには複数の存在が含まれているように思えます。

『初音ミク』という単語を見たとき,皆さんはどんなものを思い浮かべるでしょうか。

パケ絵でしょうか。ねんどろいどでしょうか。MMDで踊っている思い入れのある3Dモデルでしょうか。ご自身で描いた絵でしょうか。そういう具体的な何かにとどまらない,概念のような何かでしょうか。

自分の感じるところをつぶさに探ると,3者が内包されているように思うのです。

ひとつは,いわゆる「公式」の初音ミクです。マジカルミライのステージで歌って踊ったり,企業さんとコラボしたりする,「ミクさんがこんなところでも仕事してる」という時の初音ミクです。多くのかたの眼に触れ,世間の最大公約数的な印象として形成された初音ミクのありかたです。
この初音ミクをここでは コモン・ミク と呼びたいと思います。

もう一つは,いわゆる「我が家のミクさん」です。ファンやクリエイターの心の中にいる,個人ごとに異なるプライベートな設定が(無意識にせよ)付与された初音ミクです。絵に描かれたり,3Dモデルになったりして,「眼に見える」形になっているものも多いかと思います。
この初音ミクをここでは うちのミク と呼びたいと思います。

上記2者があってこその,初音ミクだ,と感じられる方も多いかと思います。ですので,上記2者を包含した,現象としての初音ミク,とでも呼ぶべき存在,これがもう一つ,最後の一つです。
これは単に,カッコつきで,『初音ミク』と呼びたいと思います。

そうすると,この歌には4つの主体が含まれていると考えることができそうです。

つまり,
・ファン
・コモン・ミク
・うちのミク
・『初音ミク』
です。

ここで,冒頭で挙げた2つの解釈を再掲します。
「私(初音ミク)は愛されなくてもいいよ 君(ファン)がいるから」
「私(ファン(である人間の私))は愛されなくてもいいよ 君(初音ミク)がいるから」

もし,上記3つの初音ミクがありうるとしたら,解釈のバリエーションに幅が出ます。
「私(うちのミク)は愛されなくてもいいよ 君(ファン)がいるから」
「私(コモン・ミク)は愛されなくてもいいよ 君(ファン)がいるから」
「私(『初音ミク』)は愛されなくてもいいよ 君(ファン)がいるから」

私=ファンと考えた場合も,同様に多くの解釈を内包することになります。
「私(ファン)は愛されなくてもいいよ 君(うちのミク)がいるから」
「私(ファン)は愛されなくてもいいよ 君(コモン・ミク)がいるから」
「私(ファン)は愛されなくてもいいよ 君(『初音ミク』)がいるから」

さらに言えば,
「私(うちのミク)は愛されなくてもいいよ 君(コモン・ミク)がいるから」
「私(コモン・ミク)は愛されなくてもいいよ 君(うちのミク)がいるから」
「私(『初音ミク』)は愛されなくてもいいよ 君(うちのミク)がいるから」
・・・
というように,初音ミクから初音ミクに向けたメッセージソングであると解釈できるようにも思えます。

以上が,「もっと幅広い意味が込められている」ということです。

では,「愛されなくてもいいよ」と「言わせるしかなかった」と考えられるのはなぜか。

「愛されなくてもいいよ」の対になるようなメッセージを考えてみます。
それはおそらく,「愛して欲しい」だと思います。
テーマソングには上記3者が内包されているように感じられ,それらの初音ミクが,「愛して欲しい」と歌ったとしたら,どうでしょうか。

すべてのファンが,すべての初音ミクを愛しているわけではないと,私は思っています。
しかし,そのようなあり方こそが,『初音ミク』であるはずです。
いずれかの初音ミクとはそりが合わず,自分が愛せる初音ミクを愛する,それが許されるし,そうであるからこそ成り立つのが『初音ミク』だと思うのです。

だから,テーマソングにおいては,「愛して欲しい」とは言えない。

だから,「愛されなくてもいいよ」なんだと思うのです。

「愛されなくてもいいよ」とあえて言うことで,三つの初音ミクが矛盾なく共存しているという,現象というか,存在というか,認識というか,とにかくこの現在の私たちの状態を,愛してくれているのが,この歌の初音ミクなのではないでしょうか。

「君が生きてなくてよかった」と言うことで,存在やあり方を肯定し愛したあの歌も,同じような言祝ぎかたをしているように思います。


皆さんは,マジカルミライのステージ上の初音ミクに,何を見て取るでしょうか。

#ピノキオピー
#愛されなくても君がいる
#マジカルミライ2020


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