隣の家のマサトくんにはなりきりたくないけど

小さい女の子がセーラームーンの衣装を着てなりきったり,小さい男の子が仮面ライダーのベルトしめてなりきったりしている時,VR空間もアバターもないけど「なりきっている」と思います。

雑な言い方で恐縮ですが,「"自我"がまだぼんやりしている」子供のころは,他者のアイデンティティ(どころかアピアランスまでも)を自分に写像する「なりきり」も比較的容易なのかもしれません。脆弱性ともいえるでしょうが,可塑性ともいえるでしょう。

では,どんなものにもなり切れるかというと,どうでしょう。隣の家のマサトくんにもなり切れるでしょうか。ものまねはできる子もいると思いますが,ヒーロー・ヒロインに「なりきって」いるときのような陶酔と忘我はあるでしょうか。ないような気がします。

隣の家のマサトくんと仮面ライダーの違いは,カリスマ性と現実感かなぁと思います。カリスマ性はいいとして,「子供は仮面ライダーが現実にいると思ってるぞ!」と思われる方もいらっしゃると思うのですが,能力などが非現実的だからこそ憧れる,「なりきり」たいと思う,という部分もあると思うのです

また,たいていのヒーロー・ヒロインのアピアランスは,理想化あるいは典型化されているか,人間と比べれば異形であることが多いです。ただし,後者の場合であっても,ある基準においてはカッコイイ容姿であることがほとんですが。いずれにせよ,非現実的だと言ってよいのではないかと思います。

そうすると,#私かわいい で報告されているいつの間にかの「なりきり」がどの程度の強さで起こるかは,「なりきる」主体の自我の可塑性,「なりきる」対象のカリスマ性と現実感(能力とアピアランス)などの,多くの要因によって左右されるのではないでしょうか。

「現実感」について考える時,「不気味の谷」の両岸との関係性はどうなるのかがすぐに脳裏に浮かびます。「Saya」さんをアバターとして纏った場合でも,「なりきり」が起こって心の中に少女が発見されるor芽生えることがあるのでしょうか。ミクさんより明確でしょうか。曖昧でしょうか。

SoAは,山口先生のおっしゃるように(以下リンク),自身の身体運動との同期によって得られると思いますが,「なりきり」はさて,どうでしょう?これで実験組めそうですね。
https://withnews.jp/article/f0180401000qq000000000000000W00g10701qq000017020A

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