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言葉の限界についての雑記帳

最初に。この記事はどちらかといえば備忘録に近い、ので短文であり、主観的なのであまり役には立たないかもしれない。でもなんとなく素直に納得できたことを記録に残したかったのでnoteに書こうと思います。

自分は書くことが好きになって30年、社会人として仕事で言語化にあらゆる立場で関わるようになり16,7年が経とうとしている。現在は40歳。

編集、ライター、広報、営業、さまざまな立場で言葉にするってことの大切さを信じてここまでやってきた。特に取材が好きで、暇があれば現地に訪れて情報を探したり、ネットで日々検索しながら、自分が「この声は絶対に社会に届けた方がいい!」と思った活動は有名無名にかかわらず取り上げ、この情報がどう言葉として伝われば、人が動いてくれるだろうとうんうん唸りながら言葉を紡いできた。書くことに関わることは手放さずにやってきた人生だった。

そんな中でも改めて感じているのが「言葉の限界」だ。

言葉にすると言うのは、それ以上でもそれ以下でもなくなる。
感覚的なものを言葉に変換と言うことは、無機物を有機物にする行為で、そこにある無意識同士の共感や感情の機微な起伏などが言語にすると少し幅が狭くなる違和感が漂う。それは文章は5W1Hの世界の中とか、何かしらのルールの中での表現になって来るからだ。

多くの人のヒアリングを重ねるとそれがさらによく感じるようになった。
私は言葉は魔法だと思っている。けれどもインタビュー相手の世界観の広さを感じるたびにそれが全能ではないことを感じていた。それなのに「言葉は魔法です」と言い切るとどこか齟齬が出てくる気がして少し気持ち悪かった。

アートってすごい。

でも今日ふと思ったことがあり、このnoteを書いている。

めちゃくちゃシンプルな答えなんだけれど、書く人が「言葉に限界はある」って知って、それで手放すことはないんだよな。ってことに色々シノゴノ考えてようやく気がついた。

どうしても自分の大事にしているものはつい万能感を求めたがったりしがちなのけれど、でも意外に自分が大切にしているものは万能でないからこそ、長く愛し続けていることが多い。それは言葉も同じだ。言葉は革のような物であり、道のようなのかもしれない。じわりじわりと無意識に近づくような言葉を、噛み締められるような言葉を探しているのかもしれない。

それなら限界のある言葉でできることをしっかり最大化していくこと。これしかないんだよねって、なんだかストンと自分の腑に落ちていった。

言葉には限界がある。
けれどそれが前提になって初めてできる事もある。
言葉は魔法と思ったけれど、宿り木なのかもしれない。
意識のポイントマーカー的存在であり、遠くまで思いを進めてくれる。
また宿り木の時間軸は、過去・現在・未来と自由。
だからこそ、早く行きたければ一人で進め、遠くまで行きたければ皆で進め。それをサポートできるのが、言葉の役割なのかもしれない。


縮小社会に入ると言われ胸が詰まる事もあるけれど、言葉にできること、私にできることを模索していきたいなと考えている中で見つけた解を大事にしながら歩んでいきたいと思った。おしまい。

こんなアートもありました。笑


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