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素描画、コロナ禍で変わったこと

2013年からライフワークとして素描画(クロッキー)を描いてきました。いつしか描く対象として、街の通りゆく匿名の人々、誰でもない誰かに惹かれていきます。大半が人物、特に路上で行き交う人々でした。

それがコロナによって状況は大きく変わり、不特定な人々のいる雑踏や観光地へ行くことのハードルは上がりました。

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それでも、と緊急事態宣言前に、街へ繰り出したことがあります。

通りの人々はマスクで顔を隠し、うつむき加減にスマホを見て、会話をせず急ぎ足で行き交います。また心理的に委縮すると人は身振りが内向的になり、パターン化することが分かりました(もちろんこれらの行動は感染防止という意味で正しいことです)。

それまでわたしにとって、街の匿名の人々の魅力はその移動中の揺らぎにありました。所属する場所や共同体から離れ移動する時、人はある危うさを内包しているのです(少なくともわたしはそう感じていました)。しかしコロナ時の人々は、揺らぎどころか隙を見せず硬い殻にこもっているような状態にあって、それを絵にする気持ちは失せてしまいました。


そして対象が人物から植物や動物を中心に変わっていきました。自宅で自粛中は近所の公園の散歩をして植物を描いたり、家でネコを描いたり。
ちょうどコロナが広がる直前に、伊丹市で言葉と絵によるグループ展に参加させてもらい、その時のテーマが森ということもあって虫や動植物を素描で描いた、というのもきっかけの一つにあります。

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生き物の姿形の美しさには本当に驚かされます。

素描画は、「作品」にするというよりも、対象を感じとる手段にすぎないのではないかと思うことがあります。対象の形の中に入って触り味わうような感覚です(集中が高いほどその感覚は強くなります)。動物の骨格を描いていると、人間との共通点が多く、あらためて驚かされます。種に分類するとそれぞれで分断されますが、有機的な姿形だけで見るとなだらかにつながっているのです。

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 そうして自然についてぼんやり想像していると、いつの間にかわたしの足元は揺らぎ、所属する場所や共同体を忘れ、人が移動するときのような、覚えのある危うさを自身が内包していたのでした。

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古井フラ WEBサイト https://furufura.com

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