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『悪態Q』 上演に寄せて(森岡拓磨)

2年前、2022年。Twitter(当時はまだよくわからない名前じゃなかった……)で不労社の告知ツイートを目にした。本公演とはまた別の、実験的公演のための枠組みとして「FLOWシリーズ」を立ち上げるという。

 ふーん、そうなんだ……にしても、実験的ねぇ……一体どんなことをしてくんだろう?まぁ実験的というからにはきっと、おそらく多分、言うなればバラエティ豊かに?色んなことをしてくのかな?だろうな。

 とかなんとか、他人事ではあるが、何度か出してもらった縁もあってそれなりに思い入れのある不労社が、色んなことを色んな風にやるのを、僕はそれこそバラエティ豊かに想像していた。
 2022年、FLOWシリーズ第一弾は『悪態』というタイトルの作品で、会場へと当て書きして空間そのものを見せる、非人間やリミナルスペースや不在を表出させる、をコンセプトとしていた。ふむ、なるほど。そして続く2023年、FLOWシリーズ第二弾は『悪態_2307』という名の『悪態』の再演だった。やはり会場に当て書きして空間そのものを見せ、非人間やリミナルスペースや不在を現出させることをコンセプトとして掲げていた。
ん?なんかちょっと思ってた展開とは違うな。ああでもまぁ一回目の会場が京都で、二回目の会場が金沢、大阪ということはつまり、「去年観に来れなかった人は見に来てね」的な、期間を経てブラッシュアップも為された、しかしまぁある種の追加公演のような、きっとそういう位置付けなのだろう、とTwitterで『悪態_2307』の告知を見ながら思った。

 2024年に入ってしばらくした頃。何かの機会に西田さんと会ったとき、「不労社の今年の予定はどんな感じなんですか」と問うてみた。すると、「とりあえず夏に『悪態』をやります」と返ってきた。
 そんな馬鹿な。そんな馬鹿なことがあってたまるもんか。去年も一昨年もやってたじゃないか。

 今この文章を読んでいるあなたが、2022年か2023年に悪態を観ていたならば、たとえば『悪態Q』特設ページからジャンプして、このnoteの記事を閲覧しているとしてもやはり、
「『悪態』は一回観たし、まぁ再演なら観に行かなくてもいいかなぁ」
と思っている可能性はままある。正直「高い」と書いても良いのかもしれない。それと同じく、不労社の方だって、
「『悪態』は一回演ったし、まぁ再演とかはしばらく先で良いや」
と思ってもいいはずである。
 なのにどう情報を確認しても、不労社は二年連続で『悪態』をやっていて、今年もやる。やっぱなんだかちょっと変だ。
 あるいはあなたがまだ『悪態』を観たことのない人だとすれば、「よくは知らないが、三回目の上演ともなれば、良くも悪くも小慣れてきて洗練されてきて、作品として程よくまとまった何かを演るのだろうな」と思うだろう。再演や三演というのはそういうもんじゃないだろうか。

 今回僕は、脚本に関する手伝い要員として末端に加えてもらっている。なので以下の「『悪態Q』とは言わば…」で始まる文章というのは、嘘をつき良いように書くかもしれない、あくまで信用できない一関係者の話として読んで欲しい。
 『悪態Q』とは言わば、「新曲に取っとけばいいのに…」というアイデアや労力までぶち込んだ、『悪態』のリミックスである。新曲、三演目ではなく初演。『悪態』を一旦分解できるだけ分解して、中から要らないパーツは惜しみなく捨て、捨てた分以上にたくさんの新しいパーツを何処かから見つけてきて、『悪態』を組み立て直す。悪態の変態。(性的なあれではなく、生きものが別の形になるようなアレのことだ。)
 初演たる『悪態』は、演劇なんだが、VHSのような画質の荒さがあった。その荒さが怖かった。続く再演『悪態_2307』と初演の差異を言語化するならば、整理されて面白みが分かりやすくなったシチュエーションコント群と、それらが単なるオムニバスではないことを示すべく追加された、新しい導線や展開などが挙げられる。『悪態_2307』は手堅く、丁寧で、まとまっていた。画質がクリアであった。それによりとっつきやすくはなったが、呪いのビデオめいた謎の魔力はどこか薄まった。こうして『悪態』は、呪いのビデオとして生まれ、見通しのいい風景画になり、今回に至った。僕なりの言葉で今回の変態を表現するなら、それは、二次元から三次元への移行とかになるだろうか。理不尽なプレイを強いられる、あちらこちらにバグが、世界の綻びが現れてしまっているゲームのような。あまりの激しい攻防に、プレイしている自身も味方も敵も曖昧になり、ただただ身体のみが動かされ、理解が及ばぬまま進行だけはちゃんとしていくスポーツのような。
 
 ゲームやスポーツであるならば、何かを達成しようとしたり誰かと戦っていたりするはずだ。ではその相手は誰なのか?これは『悪態』の関係者それぞれでさえ答えが違うかもしれない。ある人は自分と戦ってる、というだろうし、ある人は共演者やスタッフワークなど舞台上に現れる自分以外の何か、他者だと答えるだろう。あるいは自分たちの悪戦苦闘を覗き込んでる観客たち、という答えだって考えられる。

 そして僕には僕なりの答えがある。『悪態』が戦っている敵とは、ズバリ「空間」である。

 『悪態』には僕ら人間とよく似たかたちの存在が3体登場する。この3体は、それぞれ芝居というツールで自身や自身たちの勢力圏を確保し、空間に呑まれないよう抗い続ける。
 そもそもが演劇というものはどれもが「空間とどう付き合うか」という問いと作り手なりの答えになっているし、例えば調和し、FLOWし、身を任せるというあり方もある。空間と自分との境目をむしろ薄めていくといったような。
 がしかし、今回『悪態Q』は敢えて空間に挑むことを選び、しかも『悪態』や『悪態_2307』よりもずっと激しく、自覚的に挑んでさえいる。それは何故なのか?何故そこまでして挑まなくてはならないのか?
 
 ここで「空間」なる敵についてもう少し考えてみたい。少し話はズレるように見えるが上の「何故?」にはいずれはちゃんと戻る。
 空間、にまつわるキーワードとして思い出して欲しいのが、不労社が作品のモチーフのひとつとして提示している「リミナルスペース」というワードである。このリミナルスペースが非常に感覚的な定義しか持たないワードである以上、これを言葉で説明するのは難しい。僕が拙い説明を試みてもいいが、何より1番手っ取り早いのはあなたが今使っているスマホかPCで、リミナルスペースとググってみることである。画像を見れば誰しも、
「何故だか、不気味さと不安、懐かしさ、心地よさを同時に想起させる空間」
という定義に納得できると思う。
 ちなみにリミナル、とは閾値の、境目にあたる、と言った意味だ。

 我々は日常生活の中で、さも自身が空間の覇者であるかのように振る舞い、そう振る舞っていることさえ自覚し損なっている。なぜ空間の怖さを忘れてしまったのかといえば、それは我々人間が、空間というものに意味を与え、理解できた気になっているためである。理解出来るもの、知っているものは怖くはない。
 それに対し、リミナルスペースは多くが人間からすれば中途半端な空間だ。ひどく長い廊下。どこへどう繋がっていくのか曖昧な通路。人がいて初めて意味をなす筈なのに閑散としているオフィスやショッピングモール。リミナルスペースの「中途半端」さとは、つまるところ理解出来る意味、文脈の欠如である。人間が世界を理解し支配出来ているように錯覚しているのは、あらゆるものに意味を与え、その意味と意味のネットワークで世界をすっかり飲み込むことに成功したからであるが、対して、リミナルスペースとは意味のネットワークの綻びであり、人間が理解出来るはずの世界のバグなのだ。理解出来ないものは怖い。
 そして我々はリミナルスペースを克服することは決してできない。意味の欠如した空間が生じたのは、我々が意味のある空間を作ったからである。意味のあるものと意味のあるものの間には必ず意味のない「間」が生まれる。全ての意味と、物事の区別、境目を捨ててしまって、すべてをフラットにしない限りは、絶対に「間」が生成される。そしてその「間」というのは、その「間」それ自体への不安だけでなく、結局のところ我々はすべてを制御下に置いていると錯覚しているだけで、一枚剥がせば世界はとにかく混沌とした場所で理解も何も出来ないという不安さえ想起させる。

 では、今更、自我や他者やものごととの境目をなかったことに出来るか?すべての意味を捨てられるか?そんなことは無理だし、嫌だ。自分というのは憎たらしいし気に食わない面も多いが、それでもかけがえのない自分だ。執着と愛着がある。思い入れのある他者と思い入れのない他者は別物だ。残酷ではあるがやはり前者は大切にしたい。愛着のあるもの、場所と、ないもの、場所、は別物だ。愛着のあるものを失うのは嫌だし怖い。
 僕らは結局、意味の塊として存在している。支配するとか制御するとかいう生物としての生存戦略以上に、僕らは意味を愛している。意味のおかげで愛せているし、意味を失えば、愛するものも愛という感情も失う。
 ここで「何故?」へと話は戻ってくる。何故空間に挑まなくてはならないのか。それは愛着故である。自身にとってかけがえのないものを守りたいのならば、空間に挑んでみるしか、混沌で意味を欠き正体さえ分からないその空間なる敵と戦うしか選択肢はないのである。意味対無意味。人対世界、存在対空間。『悪態』という苦闘は、自分が自分であるための闘いであり、「リミナルスペース」とは意味や境目が失われていく、まさにこの闘いの最前線なのだ。

 そんな苦闘のタイトルとメインモチーフが何故「悪態」なんだろう。そもそも悪態って何なんだ?
 ググってみた感じ、人に嫌われるような悪い言葉を使う、相手に言う、というだけでなく、「本人の前で直接その人の悪口を言う」と言うニュアンスがあるらしい。陰口と悪態は区別することができる。自分一人で汚い言葉を使う(「くそっ!」)場合にしろ、相手に使う(「このクソ野郎!」)場合にしろ、汚い言葉をひっつけられる相手はちゃんとそこにいるというわけだ。
 つまり、使うのが所詮汚い言葉でしかないとてそれでも、自分と相手、それぞれの存在を互いに認識し、認知しあった上でしか悪態は成立しない。世界と関わること、他者と関係すること、事物と関係すること、その主体たる自分と向き合い、どんな自分たれ受容れ、存在してみない限り悪態は成立しないのだ。

 このように、対空間という苦闘にせよ、そんな空間において他者と関係し、自分と向き合うことにせよ、非常に普遍的で根本的なテーマだと思う。不労社が『悪態』に拘って三回もやった理由はこの辺にあるんじゃなかろうか。
 そもそも演劇というのは、面白い芝居だろうと例えつまらない芝居だろうと、演者やら、スタッフやら、観客やらがみんな「今ここ」にどういうわけか集結し、どういうわけか一、二時間を共有することで成り立っている。そしてこれはどんどん拡大して、世界全体、や、歴史全体、にも適用することが出来る。この文章は今読んでいる、ないし読み飛ばしてここに着いただけだとしても、何にせよあなたが読み、それより前に僕が書き、それよりだいぶ前に不労社が僕を脚本手伝いとして呼び、それよりだいぶ前に不労社の人々と僕が知り合い、それよりだいぶ前に僕の実のお父さんと、(もう数十年会ってない、生きてんのかな?)実のお母さんが知り合ったから成立している。不思議だ。天文学的確率の元に、このあんま面白くない割に長い文章は成立している。この宇宙的奇跡は、そんな奇跡が起きうるという神秘は、僕らを飲み込み混沌へと還そうとしてくる世界や空間や現実と戦う大きな助けに、戦う理由のひとつにさえなりうるのではないかとさえ思える。
 『悪態』や『悪態_2307』がそういう作品として自覚的に作られたのかどうか、観客に伝わったのかどうかはよく知らない。しかし出来上がってきた『悪態Q』と比較すれば、少なくとも前二回はこんなに挑んでなかったしその苦闘が観客に向かって迫り出してはいなかったろうと確信は出来る。
 そんなわけで、2024年8月19日19時22分現在、『悪態Q』が宇宙的奇跡に関して、空間を相手に足掻き、心折れたり、再起したり、祝福したりするお芝居として作られ、今週末には上演される予定だ、というところまで僕は確信を得られている。ただ誰が上演を鑑賞するのか、誰が鑑賞しないのか、そして宇宙的奇跡は上演本番において体現されるのか、それが観客に届くのかは未だ宇宙の神秘の領域であって僕には分からない。

 僕は、何だか、3年連続で続いてきた『悪態』は、今年で一旦終わるんじゃないかとさえ思えている。再演のあの手堅さやまとまりは、変態におけるさなぎかなんか、リミナルな何かだったのかも、と。ついに成虫になった『悪態』は、飛び立ちはするが、近く死んでしまうんじゃないのかな、この三年間、リミナルスペースを彷徨い続けた果てに、ついに意味あるところへ辿りついたのではないか、と。
 近くから『悪態』が変態する過程を見ていた身としては、来年の夏、たとえ一年経ったぐらいで、今回来れたこの地点の、さらに先まで行ける姿は流石に想像出来ない。呼ばれたときは、今回で『悪態』がこれほど変態を遂げるとは思ってもみなかった。

 そしてもう書くこともない。突然だがこの文章は終わる。これを最後まで読んだあなたが『悪態Q』を観るのか観ないのかは僕にはやっぱり分からない。が、まぁもし観に来ないにしても、こうしてあなたが、僕や不労社や『悪態Q』とここでこうしてすれ違った、それだけでももう十分過ぎるほどの奇跡じゃないかと思うのだ。


文:森岡拓磨
1989年生まれ、和歌山県出身。
作家、演出家、俳優。冷凍うさぎ所属。
冷凍うさぎではほぼ全公演での作・演出を担当。
近年では客演として劇団不労社などに出演。
冷凍状態となっている冷凍うさぎの活動もそろそろ再開したいと数年思っている。

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