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ツーチョイスセオリー:脳には二択機能しか備わっていないって知ってた?

二択の命は速さ

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イワシは「鰯」と書く。
弱い魚ですが、個体数は莫大で、生物としては成功している。

彼らの行動を決めるセオリーは二つしかない。

(1)障害物があれば右か左にかわせ。
(注)右に避ける個体が多数派。
(2)一定の距離をあけて前の魚についてゆけ。
この二つのセオリーだけで動いています。

「その間は何も考えていない!」

ここが重要です。
何も考えずにセオリー通りに動いているから、速い!
早いから捕食されにくい。

二択方式は、迅速に賢く生きるための生命体の知恵なのです。

アメリカのシリコンバレーでも速さが重視されています。

じっくりと仕込むハードウェアが主力の日本では拙速(せっそく)主義と否定されがちだけど、競争の激しいアメリカでは、とにかく先頭に立って、目立つことが重視される。

コピー・アンド・トライアル・アンド・エラーで、やってみてダメなら、次に行け方式なので、日本のように失敗したら終わりではない。援助者の数も日本の比ではなく、失敗に寛容な世界が構築されている。

中国も同じで、完成もしていない前から大ぼらを吹いて、ほらがバレても平気な顔でやり続ける。

AIなどの斬新にして、先進のハイスピードで新しいITテクが生み出されてくる回転の速い時代では、遅くては話にならない。

現実に、じっくりてまひまかけての慎重なんだか、臆病なんだか分からない方式の日本は新技術の数も特許数も下降線を描き続けています。

魚は多様な模様を持っているけど、その模様は「二つの方程式」によって決められている。

このように、自然界は決して複雑な動きはしない。
複雑な動きをする生物は淘汰されて絶滅する。
ここは覚えておかねばならない。

複雑な人は、才能があっても器用貧乏になってしまうので大成しない

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だいたい、何であれ、「一つのことしかできない」のが基本なので、「何でもできるねー。何でも良く知っているねー」と言われる人よりも、これしかできないけど、「これだけは他の人に負けない」というシンプルタイプの方が成功確率は高くなる。

ヨハネの黙示録に「両刃の剣(もろはのつるぎ)」という言葉が告げられている。これは「二者択一を迫る裁きの剣」なので、諸刃の剣とはならない。

ならないのに、両刃を諸刃と書く人たちがあとを絶たない。マスコミやメディアは、教養がなくても生きてゆけるいい加減な世界だけど、自然界では二者択一で動かない愚かな生物は生き残ってゆけない。

人の脳は車のような設定になっている

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四神相応(しじんそうおう)占星術

12星座を4つの枠に分けて収める最新の占星術。
東西南北も4つ。
春夏秋冬も4つ。
血液型も4つ。
そして、脳機能も4つ。
前頭葉・尾状核・扁桃体・ホルモン。

「アクセル・ブレーキ・ニュートラル・電気系統」の4つが基本機能で、その他は付随機能にすぎない。4つの機能の中の主軸は、言うまでもなく、「アクセル(尾状核)とブレーキ(扁桃体)」になる。

ニュートラル(前頭葉)は「休む」だし、電気系統(ホルモン)は情報伝達なので、車自体はアクセル(動かす)とブレーキ(止める)の機能さえあれば充分だ、ということになる。

何を言いたいのかといえば、人の脳は「二択対応」になっているということです。三択に対応できるようには設定されていない。

三択は「いらない選択肢」なのです。

ましてや、諸刃のように多くの中から選択することなどできるわけがない。そのようなことをすれば、すべてが遅くなる。「遅い!」は、いうまでもなく、自然界では命取りになってしまいます。

だから、こういう結論が導かれます。

普通は、「電車でゆくか?車でゆくか?」が正しい会話になるけど、「電車?車?」と訊いているのに、「歩いてゆこうぜ」という人が出てくる。

そんなことを訊いちゃいないんだよ。電車か車かと訊いているのだよ。歩くは選択肢に入れていないんだよ。気づいて欲しいよね。

歩くを選択肢に入れている時は、「移動方法は何にする?」って訊くんだよ。歩きたくないから、「電車か車かと訊いているんだぜ」となるんだよ。

二択を訊いているのに、三つ目の選択肢を入れてくる人とは付き合ってはならない!

たとえば、生物は、「餌」と同時に「敵」も見つけたときに、「敵と戦って餌を奪う」と「餌を諦めて逃げる」を瞬時に判断しなければならない。この判断が遅いと大きなダメージを負わされる。

「う~ん、やっぱり戦うにき~めた」などとゆっくりした結論を出している間に、既に「戦う」と決めた敵に攻撃されるからです。

二匹が同時に「逃げる」を選択して逃げたときに、ライバルが逃げる姿を見て、「しめしめ、敵がいなくなったぞ」と餌のところに戻りだすのもよくない。

「逃げる」と決めたら逃げねばならない。これが二者択一のセオリーで、目先の小さな利益に腰が揺らめくようではいけない。

なぜなら、餌の奪い合いは熾烈(しれつ)だからです。
誰もが狙っているからです。

そこに、戦う覚悟も決めていないのに、のこのこと戻ってゆくと、「やる気満々だぜぇ~」と突進してきた相手に大怪我を負わされることになる。

「スケベ根性を出したおかげでひどい目に遭った」というケースが多いのは、こういうことなのです。

二択のセオリーは迅速性が命だから、躊躇(ちゅうちょ)しているようでは勝ち目はない。

「戦うか逃げるかなんて原始的だよ。分け合おうよ、話し合おうよ」と言ってくる人が必ず出てくる。これもヤバい系バージョンなので、そのような三つ目の選択肢を出してくる人は貧乏神か疫病神(やくびょうがみ)の卵と考えて、距離を保って避けねばならない。

「分け合う、シェアし合う」という考え方は、一見すると合理的に思えるかもしれないが、「生物は本能的にそのような考え方を持っていない」ので、必ず、不平不満が生じて分裂し、喧嘩に発展する。

これは現実世界でも多発している現象です。

たとえば、子供のおやつを平等に分け合うと、「私は姉なのに、どうして弟と同じなのよ」という文句が出てくる。

会社でも、「今期はこれだけ儲かったから、皆に同じ額のボーナスを出したい」といえば、必ず、「あいつは働いていないのに、どうして同じ額のボーナスを貰えるのだ」という不平不満が爆発する。

実際、年代別に同じ給料にすれば、いかにも公平に見えるけど、「オレは東大卒なのに、どうして無名の私大卒の奴と同じ給料なのだ」とクレームがつく。

学芸会などでも、「くじ引きで主役、準主役、脇役、端役を決めよう」とシェア的な考え方で推し進めれば、必ず、陰で「あんなブスが主役って不公平よね」「オレはイケメンなのに端役なんてとんでもない話だ。とてもついてゆけない」という愚痴が飛び出す。

だから、社会主義や共産主義の世界では、誰もが怠け者になってしまう。

「皆で獲物を分け合う」が成立するケースは二つしかない。

一つは、自然の恵みだけで生きる原始世界です。

基本的に、皆、怠け者だから、「分け合う、シェアし合う」という方式が成立する。もう一つは、社会主義・共産主義より一歩進んだ全体主義世界です。

これはどういう世界かといえば、多くの人を「平等に配分する」という名目で安い賃金で働かせ、その余剰利益を支配者層で配分するという、「支配と奴隷」の世界です。今の中国がそのような方式を取っています。

GDP世界第2位で「金持ちが多い」というけど、実態は、支配者層の金持ち1億人、まあまあの中産階級が3億人、残り10億人は年収50万円以下という奴隷なのです。奴隷を低賃金でこき使えるからGDPが伸びた。こういうカラクリになっているのです。

「話し合えばいい」という考え方は、うわべ綺麗ごとの卑怯な偽善者のセリフです。

大きな話からしてゆくと、「生きている命は尊い」という動物愛護のフレーズがあります。

しかし、自然界では、日々、膨大な命(肉の命)が食われているし、人々も、莫大な命を食べて生きています。

生きている命は尊い?
はぁ?としか思えない。

命が食われて奪われなければ、誰が生き残ってゆけるのでしょうかねぇ。

生命体は増え続け、食料は枯渇する。
絶滅は目に見えている。
そして、あらゆる生物は死滅して、この惑星は死の惑星になる。
極めて短い時間で。

日常的な話では、親が子供の喧嘩に「話し合いなさい。喧嘩しなさんな」と言う、或いは、上司が部下の論争に「話し合いなさい」と言って入ってこない。このような親や上司はどうなんですか?

これって、「自分はわずらわしいことに巻き込まれるの嫌だ、面倒臭い。お前たちだけで話し合って決めてくれ!」と責任放棄しているのと同じでしょ。少なくとも、話し合いで成った改革の歴史はない。

結局、第三の方向性を持ってくる人はアウトな人と結論づけられます。
これは覚えておきましょう。

勝つか負けるか。
ゆくかゆかないか。
好きか嫌いか。

これだけの二択セオリーで生きてゆけばいい。
余分な理屈が浮かぶと、それだけでロス(損)してしまいます。

愛をあげる代わりにお金をちょうだいね。
これも二択・・・なのか?

あんたなんか大好きよ、でも、失恋も大好きよ。
だって、何度失恋してもやめられないもの。

これも・・・二択?


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