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超強者はこの世では不遇を味わう

兵隊アリが一定数に抑えられているように、人類も戦闘タイプは全体の25%にとどまるように設定されています。これ以上増えると「船頭多くして船山ふねやまに上る」ということわざ通りになってしまいます。

これは、「指図する人が多すぎると混乱して物事がうまく進まず、とんでもない結果になりかねない」ことのたとえです。つまり、全体の75%が何らかの弱者であり、ネガティバーであるということです。

あなたは、弱者は損をする、ネガティバーは苦労すると思っていませんか。多分、そう思っている人が多いから、「美男美女のような強者になりたい」とか、「肉体を鍛えて強者になりたい」「お金持ちになって強者になりたい」とか思っているはずです。

しかし、考えてみてください。例えば、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスより強大な肉体を誇っていましたが、ホモ・サピエンスとの生存競争に敗れて絶滅してしまいました。

西欧を統一したイタリアの国民は小柄で、大柄なガリア人(フランス人・ベルギー人)やゲルマン人(ドイツ人)の巨体におびえてはいたものの、最終的には、カエサルという超強者に率いられ、10年以上の歳月をかけた戦いを制して西欧を支配し、巨大なローマ帝国を築きあげました。

そのおかげで、言語はローマ字のアルファベット化され、キリスト教が流布されて言語と宗教の統一化が推進された。言語の統一化によって意思疎通が円滑えんかつになされ、宗教の統一によって、多くの宗教的ないざこざが解除されたわけで、この結果がEUの成立につながっています。

日本でも、縄文人は弥生人より巨大な体躯たいくを持っていましたが、日本の中枢部は弥生人によって支配されてしまいました。

この根本的な原因は、「狩猟採集によって家族単位で暮らし、領土争いなどの戦いのない平和な時代を謳歌おうかしてきた縄文人」と耕作の導入によって「家族単位から部族単位」に意識を切り替え、筋肉に注入されていたエネルギーを頭脳に集約し、肉体的には虚弱にはなったものの、部族間抗争に慣れた戦略を繰り出した弥生人によって、縄文人は制圧されたと考えるべきです。

「個の強さ」を制した「弱者の団結や組織力」という見方もできます。従って、弱者は孤立すると苦戦するともいえます。

弱者は孤立してはいけない。コミュ障になると弱さが前面に押し出されるともいえます。弱者の最強の戦略は、「3人から4人でチームを組む」になります。

できるだけ孤立せず、気の合う仲間、できれば同じタイプではない方が有利なのですが、少人数で、「傷口をめ合う仲間」ではなく、「協力し合える仲間」を作ることがベストといえます。

とはいえ、コミュ障を改善できずに「ぽっち」になる人は少なくないでしょう。そのような人が選ぶべき道は、「孤高のオリジナル」の世界です。

「何かの役に立つオリジナル」、或いは「やってみたいからやってみた」的な自由奔放じゆうほんぽうなオリジナル。特定の人の需要を満たすニッチなオリジナルであれば、充分な稼ぎを確保して、「ぽっちの自由」を謳歌できるかもしれません。

世間一般に思われている「個の強者」は無双ではないのです。

例えば、美男美女を目指して整形したとして、それで理想的な相手と結ばれるわけではない。美貌に目がくらむ人は、ただ性の欲望を満たしたいと思っていることが多いからです。

肉体を鍛えても、その実態は、ストレス過多になって免疫力が落ちてしまうので、肉体は頑強になっても病弱になる。そのようなものです。

お金儲け一筋の人は、身も心もヤセて、平穏を得られない。金持ちなのに、人からさげすまれてしまう。まさに、身もふたもないことになりかねない。

強者は勝ち組?

歴史的に言っても、例えば、織田信長は次のような名言を残しています。「生まれながらに才能のある者は、それを頼んで鍛錬を怠る、自惚うぬぼれる。しかし、生まれつきの才能がない者は、何とか技術を身につけようと日々努力する。心構えがまるで違う。これが大事だ」。

このように考えると「生まれつきの強者などいない」とか、「強者が幸せになれるという保証はない」といえます。

むしろ、「私は強者ではない」と自覚している人の方が伸びしろが多いともいえます。「私は弱い、愚かだ」と認識できている人は、「実質的な強者」になれる可能性が高いということです。

弱者は多数派なので、「弱さ」に共感してくれる人は多い。これも見逃せないメリットです。例えば、強者が偉そうなことを言っても、ほとんど共感されないけれど、弱者が奮起すると、「頑張れ」という応援歌が聞けるし、助けてあげようと思ってくれる人たちも現れるかもしれない。

ここで大事なことは、「プライドを捨てる」ということです。

例え、弱者であっても強がったり、格好をつけたりすると、「なんだあいつ、弱いくせに」とそっぽを向かれてしまいます。反対に、弱者であることをアピールして「かっこう悪いこと」を出すとウケます。

弱者がメインの世界では当たり前の話になります。このように、世の中の反応は単純なので、ここを失念しないことが肝要かんようです。弱者は弱さを表に出して戦った方が有利だということで、決して強者ぶってはいけないということでもあります。

世界は、仏陀やイエス、信長やカエサルのような特定の超強者に導かれた弱者軍団によって支配されている。これが現実なのです。しかも、歴史上最強とみなされる信長、カエサル、仏陀、イエスには、恐ろしい最期が待ち受けていました。信長、カエサル、イエスは殺害され、さらに、仏陀とイエスは、生まれ育った故国の滅亡を見ることになるからです。

変化を望まないこの世では、最強の改革者には厳しい報復が待ち受けているというわけです。強者はある意味、改革、改善、発展のための必要悪である、ともいえます。

この世は、単純に、英雄がたたえられる漫画のような世界ではないということです。

なお、スピリチュアル系の人がよく口ずさむセリフに「私達は生きているのではなく、生かされているのだ」というのがありますが、これは嘘です。愚かな綺麗ごとです。

「私達は造られた」「私達は操られている」というのはありでも、生きること自体は自律的なものであって、絶対に生かされているわけではない。

「生かされている」のであれば、救いもあるはずなのに、生きても地獄、死んでも地獄は通常形態になっています。つまり、「生かされている」というようなシステムにはなっていないのです。

全ては自力自助の世界なのです。それが生物的な生き方を強いられる三次元界という世界なのです。そのように、あがきながら進化してゆくシステムになっているのです。

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