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人間の正体と死後の世界の真実を知らない人生の方向性は?

目次

序章 AIが語る死後の世界は多くの矛盾に満ちている

第1章 地上の主は誰か、人間の正体がわからなければ死後の世界は語れない

第2章 異なる二つの脳機能を持つ人類と頭脳に騙され続ける人たち

第3章 世界平和を願うことが愚かである理由

第4章 宗教とは何か、宗教がなくならない理由

(4-1)宗教がダメな理由

(4-2)肉体の死後、転生していた魂はどうなるのか

(4ー3)神仏習合はありえない。なぜなら、神道と仏教の存在意義は全く異なるからだ

第5章 天才への道:五感も時間も吹き飛ばす完全断食と没頭力
第6章 宇宙論の奇妙さについての雑感と日本についての雑感

 序章 AIが語る死後の世界は多くの矛盾に満ちている

 人間の正体とは何か。そして、人間が持つ二つの脳の機能とその違いとは何か。これらのことがわからないと死後の世界を語れない。死後の世界の実相がわからないと人生の目標や目的地も方向性もわからなくなる。それでは、海図を持たずに航海に出ているようなもので、多くの座礁を繰り返しながら、ついには、難破してしまうかもしれない。

難破船

 とにかく、人類は知らないことが多すぎます。例えば、人類に与えられた最も貴重な聖典と仏典でさえ、まったく理解されていないのが現実です。その事例を幾つか紹介させていただきます。まずは仏典の奥義書である『般若心経』からみてゆきましょう。

 その冒頭は「観自在菩薩かんじざいぼさつ」です。直訳すると「自由自在に菩薩を観ることができる」ですが、では、菩薩って何ですか?一般には「仏の名称」のように理解されていますが、そのような杜撰ずさんな解釈で納得できるのですか?はっきり言えば、日常的に平気で口にし続けている「菩薩」という意味さえわかっていないのが人類の現実なのです。

観音菩薩(かんのん ぼさつ)。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)など多数の別名がある。

 次に、旧約聖書の奥義書である創世記から問題を提起してゆきたいと思います。第3章23節に次のような記述が見られますが、意味をご理解いただけるでしょうか?「神は人を追い払い、エデンの園の東にケルビムと自転する剣の炎とおき、生命の樹への道を看守らせることになった」

 超有名な一節ですが、般若心経ともども、いまだに誰も読み解けた人はいません。人類の叡智えいちといっても、たかだかこの程度のものなので、重要な事柄については、誰も、何も知らないと言って過言ではありません。

 神道しんとうの奥義書である『古事記』に記されているヤマタノオロチ(八岐大蛇・八俣遠呂智)についても、神話とみなされて、誰もが解読それ自体を諦めています。これは、神話などではありませんよ。これは「予言されている歴史」であり、実際に現実化されます。

ヤマタノオロチ 水木しげる画 mizuki-gejigeji.jp

 同じようなことが新約聖書の奥義書である『ヨハネの黙示録』にも見られます。黙示録に書かれている簡単な予言を見てみましょう。全文を掲載すると長文になるので、簡略化して書き記してみます。

 「第五の天使がラッパを吹いた。底なしの淵の穴が開かれ、煙が立ち上り、煙の中から、いなごの群れが地上に出てきた。いなごは、地や草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許された。さて、いなごの姿は、出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名はヘブライ語でアバドンといい、ギリシア語の名はアポリオンという」黙示録第9章1節。

 比較的平易な黙示文であるが、この予言は黙示録が執筆されてから百年以内に現実化された。それは、誰もが知る有名な歴史なのですが、それさえも誰も正しく読み解けていない。すでに、書かれてから二千年の時が流れているにもかかわらず、である。このように、誰も何もわかっていない。

 第96回アカデミー賞長編アニメーション映画賞を受賞した、ジブリ映画『君たちはどう生きるか』は、「一度や二度観たぐらいではわからない」とされています。

スタジオジブリ

 それはそうでしょう。おそらく、原作者である宮崎駿監督自身も「なぜ生きるのか、どう生きるべきなのか」については、何もわかっていないと思うからです。

 誰も何もわかっていない。しかし、それでも人類は生き続けている。様々な混乱に遭遇しながらなんとか生き続けている。何か、滑稽こっけいな感じがしませんか?むしろ、それでも生きていられるのか?それでもいいのか?と不思議な感じがしませんか?

 この序章には生成AIに基づいた死後の世界の記述が綴られています。なぜ、AIなのかといえば、AIからは一般常識の集大成、つまり最大公約数的な見識が得られるからです。

 そこにどれだけの間違いが含まれているのか、一般常識として考えられている「死後の世界」がどれだけいい加減、あるいは曖昧模糊あいまいもことした表現に終始されているかを知ることができます。そのような理由でAIを採択しています。

(1)生成AIによる記事。

 死後の世界については、宗教や信念体系によってさまざまな考えがあります。一部の研究者や臨死体験者たちは、死後の経験について証言しています。以下に、死後の世界に関するいくつかの視点を紹介します。

(2)臨死体験者の証言(AIの記事)。

 死んだ後、魂は体を離れ「精神世界」を経験し、再び元の体に戻るとされています。また、過去の人生を思い出すことで、転生前の記憶がある人々もいます。

 精神世界とは何でしょうか?具体性に欠ける表現ですね。極端にいえば、こうした表現は嘘に属します。「再び元の体に戻る」。再び、肉の体に宿るという意味でしょうか?転生するということでしょうか?でも、勘違いしているかもしれないことは「すべての魂が転生できるわけではない」ということです。肉への転生を許されない魂の数も膨大だということです。

 「転生前の記憶」。この種の話もよく目にしますが、どこに格納されている記憶なのでしょうか?新しく誕生した肉の記憶なら、まっさらのはずですので、ありえないでしょう。

 ただ、憑依ひょういして語る、つまり憑依霊が語ることはありえます。私は憑依霊とも長い時間、語り合った経験がありますが、彼らは普通の人と会話しているがごとく、明瞭に発言します。
 
 理論的に言って、肉が転生前の記憶を語ることはありえません。仮に、魂が持っている記憶だとしても、人は自分の魂と交流できないので、どのようにしてその記憶をよみがえらせることができるのか、という話になります。このように、死後の世界に関する情報はかなり簡単に論破されるレベルの虚構か妄想であることが多いといえます。

(3)科学と宗教の視点(AIの記事)。

 科学的には、死後の世界の存在は証明されていませんが、多くの人々がその存在を信じています。臨死体験者の報告や、宗教的な信仰に基づく考え方が存在します。

 「人それぞれ」という書き方もAI特有の中身のない記事です。「人それぞれ」という書き方は、一見すると都合のよい書き方にみえますが、その実、「確固とした答えはない」ということを表明しているのと同じです。

 霊視できる人たちも実在しているので、多くの人は死後の世界の実在を信じているかもしれませんが、それがどのような世界であるかは誰も語れないので、深い意義は見いだせないし、対応もできない。現実的にいえば、ほとんど役に立たない情報といえます。

(4)(AIの記事)一部の人々は、死後の世界が安らぎや解放感をもたらす場所であると感じています。

 死後の世界には、幽体離脱、光の存在、家族との再会、人生の振り返り、新たな契約、魂のグループ学習、次の人生の選択、魂が選んだ体、静寂の中での最終時、新しい経験への準備などが含まれます。

AIによる記事

 いろいろと書かれていますが、いったい誰が言ったデータを採択しているのでしょうか?すべて既視感のある空想的産物にすぎないのではないですか。信ぴょう性に欠ける情報だといえます。

(5)結論(AIの記事)。

 死後の世界についての信念は個人によって異なります。それは宗教、哲学、個人的な経験によって形成されます。どの視点を信じるかは、個人の信念と経験に依存します。

AIが生成した記事

 すでに書いているように、このような「感じ方は人それぞれ」的な発信は、はっきり言って、何の役にも立たない情報です。読んでも読まなくても、何の影響も与えられない。

 「死後の世界についての信念は個人によって異なります」。そのような普遍性を欠いた情報は、ただの感想にすぎず、結論として語るにはバカすぎるのではないでしょうか。このように、AIを駆使しても、無益な記述に終始するばかりです。

 この世で、かならず遭遇するであろう現象なのに、その実態は何も知らされていない。それなのに、「死後の世界について解説します」といったたぐいのYouTubeやブログが雨後のたけのこのごとく沸いてくる。世界は四次元までしか存在しないのに、五次元や六次元について解説しようとする人たちまで現れる。ほんとに、「この世は奇妙な人たちであふれている世界だ」といえます。

 本当の死後の世界を語りたければ、まず、人間(肉体)の正体について言及しなければならない。次に、地獄界のことなどどうでもよいので、天上界の実相についても語る必要がある。

 神界しんかいとはどのような世界であり、それをつかさどる宗教は何なのか、菩薩界の存在意義は何なのか、菩薩の意味は何かとか。このような詳細に触れることなく、妄想のような、或いは、どこかで見たか、聞いたかしたような既視感きしかんあるたわごとばかりが語り続けられる。完全な無知の状態にありながら、なぜ、死後の世界のことを語ろうとするのでしょうか?

 死後の世界のことを語りたいのであれば、まず、人の成り立ちから説明するべきです。人はどのようにして作られたのですか?はっきり言いますが、ダーウィンが説くように、人は猿から進化してきた生物ではありません。

 人は作られたものであり、決して、自然的に派生した生物ではありません。では、人の正体とは何でしょうか?人が作られたものであったとして、その目的は何でしょうか?まず、この程度のことは語れないといけないでしょう。

 霊を視ることのできる人たちがいます。それゆえ彼らは死後の世界が実在していることを理解しています。しかし、彼らといえども、視ることができるのは、この世と呼ばれる三次元界と混じり合っている地獄界だけです。

 彼らは、最高天界に属する天使の姿さえ視ることはできない。たとえ最高天界から天使レベルの人が地上に降りてきたとしても、霊視することはできない。なぜなら、必ず、頭を下げさせられて視ることを許されないからです。

 だから、天使の衣装さえ視ることはできず、ゆえに、「天使は白衣をまとっている」と表現することしかできなくなる。実は、天使の衣装は完全な白衣ではなく、そこにはある模様が描かれているのですが、それさえ、誰も知らない。 

 死後の世界を語る人たちは、百%の確率で噓つきと言うことができます。そのような人たちから発せられる情報に触れるのは時間の浪費でさえあります。はっきり言って、死後の世界を語りたければ、まず、旧約聖書の奥義書である『創世記』と新約聖書の奥義書である『ヨハネの黙示録』を解読する必要があります。次いで、神道の奥義書としての『古事記』と仏典の奥義書である『般若心経』もひも解かねばならないでしょう。そうでないと天上界の実相に触れることは難しい。

第1章 地上の主は誰か、人間の正体がわからなければ死後の世界は語れない

天国と地獄

 「神はいない」と語るアインシュタイン。なぜ、彼は「神はいない」と確信したのでしょうか。彼は子供のころに科学雑誌に書かれていた「人間は猿から進化した生物だ」というダーウィンの進化論に傾倒しており、それゆえ、創世記2章7節「主たる神は土のちりで人を作り、彼の鼻に生命の息を吹き込まれた。そこで人は生きた者となった」という記述に疑問を抱き、「聖書の記述は嘘である」と確信していた。

 そして、「聖書といえども、盲目的に信じるべきではない」と結論づけた。だからと言って、「私は無神論者ではない」とも語っている。それは哲学者スピノザの見解の影響を強く受けていたからである。スピノザは「神は人格的な存在ではなく、非人道的な宇宙の秩序であり自然的調和にのっとった法則である」と主張していた。

 アインシュタインは物理学者なのでこの論理性に賛同した。そして「信仰のない科学は不完全であり、科学のない信仰は盲目だ」と断言した。「聖書が告げる人の誕生や死者の復活は嘘であり、天国や地獄の存在は根拠のないおとぎ話にすぎない」とも思っており、「何も考えずに権威を敬うことは、真実に対する最大の敵である」とも語っている。

 いかに天才的物理学者といえども、「異次元世界の実態」を知らず、また「暗号文のような聖書」を読み解けない以上、「神とは自然界の秩序であり法則にすぎない」と考えるのは至極当然なことなのかもしれない。

 創世記は紀元前550年ごろに編集されたと言われています。西の世界では共和制ローマの時代であり、日本では九州に稲作が伝来した時代と言われています。

 創世記では「地の土くれから人を作った」と記されている。同章では、男と女が作られ、さらに3章では、「君は顔に汗してパンを食らい、ついに土に帰るであろう。君はそこから取られたのだから。君は塵だから塵に帰るのだ」と告げられている。

 ひらたくいえば、人は無機質から作られたということになる。人は有機物であり、かつ有性生殖を営む生物である、とも記されている。しかし、創世記が編集された時代は精子や卵子の概念すらも存在していなかったし、単細胞と多細胞の識別もなされていなかったのではないかと推測されます。

 そこで、創世記は、便宜的に、土(無機質)から人(有機質:単細胞)が作られたと記したと思われるが、これも間違いというわけではない。ただし、この点については、現在の科学でも完全には証明されていない。

 なにを言いたいのかといえば、創世記(注:原作者は四次元天上界の実在される神とその神々)が言及したいことは単細胞多細胞についてではないかということです。

微生物のネットワーク 微生物学者Gemma Reguera氏

 単細胞は生命体の祖先であり、カナダ東部のラブラドル半島の岩石から39億5000万年前の原始海洋微生物の痕跡を発見したとの研究結果を、東京大学の小宮剛准教授(化学古生物学)率いるチームが科学誌サイエンスに発表した。「微生物こそがこの世の主」なのです。

 原初の生命体 には数多くの種類が存在しますが、ここでは、わかりやすく、微生物と細菌だけを取り上げてみます。微生物とは、目に見えない小さな生き物の総称で、その多くは一つの細胞から成る単細胞生物です。細菌とは、微生物の一種であり、細胞核を持たず、単一の細胞で構成される原核生物に属します。

 さて、人の世界では、単細胞はアホの代名詞のように取り扱われています。しかし、現実には、脳も神経もない単細胞といえども知能を有しています。ただし、どのように情報処理をおこなっているのか、現時点でもよくわかっていない。

 例えば、多くの人は植物は「物の言えない生物である」と信じていると思われるが、実は、植物の根に繁殖している菌でさえ、他の菌と交流して行動を起こしている。植物に至っては、「自分が食べられている」と知ると、その情報をフェロモンなどの化学物質を使って広範囲に拡散させている。

 その目的は、一つに周りの植物に知らせて防御のための毒を作り出させることであり、もう一つは、昆虫や鳥などに情報を伝達させて葉や茎を食い荒らす害虫を食べてもらうことです。

 例えば、テントウムシのエサはアブラムシですが、テントウムシの視力は弱いので、膨大な草むらのなかからアブラムシを探し出すのは不可能に近いことです。では、どうしてテントウムシは極小のアブラムシを見つけ出すことできるのでしょうか。

引用元:あきた森づくり活動サポートセンター

 それは、植物が発散した化学物質に反応できるからです。だから、的確にアブラムシのいるところにたどり着けます。イモムシなどの外敵に対しても同様で、「ここにイモムシがいて、今、私を食べている」という情報を流せば、様々な虫や鳥が集まってきて食べてくれます。植物は言葉を持っていない?言葉など使えるわけがない?とんでもなく無知であるといえます。植物は動植物と会話することができるからです。

 こうした流動的な情報伝達以外に、自然界の規則性、つまり、ITでいうところのアルゴリズムなどを活用しているケースもある。例えば、蜂の巣にみられるような六角形がそうである。密集地帯を埋め尽くす図形は三角形と四角形、六角形しか存在しないが、最も周辺距離の短いのが六角形である。換言すれば、密集するためには六角形が最も効率的な形といえます。

 自然界摂理なので、生物以外にも、雪の結晶などの無機質にも六角形が取り入れられている。このような法則性を活用して情報処理を行っている可能性もある。つまり、脳などが存在しなくてもうまく機能できているということで、脳に絶対性を感じている人たちにとっては、かなり衝撃的な事実かもしれない。

粘菌 引用元:科学技術振興機構

 集合体のアメーバー状になれる粘菌などは微生物ではあるものの、迷路を解く知能を有していますし、その 粘菌の生態を取り入れた、いわゆる「生きているコンピュータ」も作成されている。しかも、従来のコンピュータが不得手としてきた「条件が不確定で常に変動する状態」での問題解決を効率化すると期待されています。

引用元:毎日新聞

 知能以外の単細胞の特性についていえば、単細胞に寿命は存在しません。驚くことに、1億年以上も生存している微生物も発見されています。この点から、「生物には時間がない。時間などはあらゆる次元においてさえ存在しない(注:説明は脚注1を参照ください)」という見方もできるかもしれません。第三に、微生物は宇宙空間や地球上のどこにでも棲息せいそくしています。海底の下の深いところにも無数に存在しています。まさに創世記で記されているように、土のちりのごとく、無数に存在しています。

 脚注1:例えば、パラパラ漫画は一つ一つが静止した画像ですが、連続でめくると、まるで動いているかのように見えます。すなわち脳が錯覚して、時間も動いているように見えているだけなのかもしれないのです。世界は出来事の集まりであり、複数の出来事の関係性を、時間のように感じているのです。

 時間は、過去から未来へと流れているように見えますが、手ですくった水がこぼれていく映像を逆再生すると、過去と未来を入れ替えるという操作が体感できます。時間が一方通行という考え方に慣れてしまっていますが、厳密にいえば、過去と未来は同等なのかもしれないのです。

 だから、過去と未来が入れ替わっていても、おそらく何の不都合も生じないでしょう。基本的な物理法則においては、過去と未来は区別できない。事物のミクロな状況を観察すると過去と未来の違いは消えてしまうから、時間が過去から未来へ向かって流れているように見えるのは、結局のところは人間がそれを生み出しているからだ、といえます。

 本書のテーマは「死後の世界の実態」なのですが、なぜ、そのような書物で単細胞を詳しく語らざるを得ないのかといえば、ここがわからないと死後の世界の理屈もわからなくなるからです。

 微生物は地上のあらゆるところに入り込んで息づいています。当然、人の体内にも存在します。というか、その数はヒトの細胞の数を凌駕りょうがしています。創世記2章7節「主たる神は土の塵で人を作り、こうして人は生きる者となった」という聖書の記述を簡単に解読しておくと、ここで告げられている「人」は人類を指していない。

 ここにおける人とは単細胞を示唆している。創世記2章は、原核細胞、真核細胞と単為生殖、有性生殖(多細胞体)に言及した純粋に生物学的見解であり、ここに宗教的意味合いは存在していない。人(多細胞体)は死ねば崩壊して単細胞に分解され、やがて土に帰る。このような、今では、誰でも知っている事実に言及した記述にすぎない。 

バベルの塔 ピーテル・ブリューゲル画

 この概念がバベルの塔という寓話の根拠になっている。バベルの塔は、直接的には、シュメール人が創作した架空の神をいただく高塔神殿を題材にしている。その趣旨は、「神の教えを人のいましめに変えている」という人的宗教形態の否定にある。

 だから、創世記を含む聖書では、人的な宗教、人によって色々に解釈されている、人が創作した教義の意味合いなどは全て否定されている。実際、人が創作した聖書的教義は嘘まみれの産物である。

 聖書は、それを語る人たちを「ものの見えない案内人」とか、「偽善者」と弾劾だんがいし、そのような教義を押し付けられている人たちは不幸な人たちだと告げている。マタイの福音書15章14節「彼らは、盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」

ピーテル・ブリューゲル画

 この絵は6人の盲人が互いに連なって歩いていて、先頭を歩く者が穴に落ちて転んでいるのに、あとに続く人たちが危険が迫っていることに全然気づいていないというものである。

 なお、人体を形成している「人の細胞の数」は推定37兆個とされている。一方、人体における微生物の数は腸内においてさえ、数百兆個、種類は約1000種類、重さにして約1キログラムから2キログラムと言われています。基本的には、人間の体には、人体の細胞の10倍のバクテリア細胞が存在している。

 このように、決して、ヒトは多くの人が考えているような人間そのものではない。ここが理解できていないと人の世の実態も理解できなくなる。つまり、ここが理解できていない人は、誰であれ、人そのものや人の世について語る資格を持ち合わせていない、ということになる。

 ヒトとは、ヒト独自の細胞と「別個の知能を有する細菌」との「怪しい混合体」にすぎない。しかも、細菌が持つ意識が人の性格や意識に多大の影響を与えている。例えば、腸内細菌によって食べ物の嗜好も性格も左右される。

 だから、「正統な人類」などは存在しておらず、すべての人は人の細胞と細菌(微生物)の混合体にすぎない。いわば、物の怪であり、妖怪であって、当然「正しい人」や「人格者」なども存在しえない。だから、パウロは次のように告げている。「ユダヤ人もギリシア人もみな罪人である。正しい者はいない。一人もいない」(ローマ信徒への手紙3章9節)。

 これについて、教会は次のような見解を披露しています。「それは正しい者は父なる神とその独り子イエス・キリストのみだとの宣言です。人間はみな罪人なのです。だからキリストの贖いを受け、救われる必要があるのです。私たちはキリストの赦しと贖いがなければ救われないのです」。

 まぁ、このように書き記しているのさえ恥ずかしい限りの詭弁的きべんてき嘘八百が人的宗教の本質なのです。そもそも、主なる神のご尊名も知らず、今、どこにおられるのかも知らず、さらにいえば、ガブリエルは大天使であるとか天使であるなどの嘘八百を吹聴ふいちょうして恥ともしない人たちの講釈など聞くに値しないと肝に銘じておくべきでしょう。

 創世記も黙示録も正しく読めず、四次元界の実態についても何も知らない教会の人たちがつぶやく聖書の解釈などは、とてもではないが信頼するに値しない。まさに、「何も考えずに権威を敬うことは、真実に対する最大の敵である」というアインシュタインの言う通りといえる。

 完全なキリスト教国(注:プロテスタント48%、カトリック22%程度) の一つがアメリカです。無宗教者の割合が28%しかいない。ちなみに、中国は90%以上、北朝鮮は100%が無宗教者といわれています。

 しかし、アメリカの無宗教比率は17年間で16%から28%に増加している。敬虔けいけんなクリスチャンが多いアメリカでさえ、じわじわと無宗教化が広がっている。その理由の7割が「宗教の教えに疑問をもっているから」としている。気づくのが遅くないですか?遅すぎますよね。それだけアメリカ人には純朴な人が多いのかもしれません。

 人が人的細胞と微生物の混合体である以上、絶対に完全な人格者にはなりえない。例え、イエス・キリストや仏陀であったとしても、例え悟りを開かれていたとしても、肉を有する身であれば、絶対に「正しい者」とはなりえない。原理的に言って、不可能でしょう。

 なぜなら、微生物に正義は存在しないからです。彼らが本能的に望んでいることは、「今を生きる(生存する)」というだけですから。しかも、数的には微生物の方が多数派なので、その影響力は無視できない。

第2章 異なる二つの脳機能を持つ人類と頭脳に騙され続ける人たち

 多くの人は思考する領域は「頭脳」と思っています。果たしてそうなのでしょうか?実は思考できる領域は脳以外にも存在します。それが「腸」です。

 俗に、「第二の脳」と呼ばれていますが、正しくは「原初の脳」であり、最初に作られる、最も重要な臓器でもある。「腸」と「頭脳」は、共に脳機能を備えているとしても、その役割(働き)は大きく異なっています。ここが重要なポイントになります。

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